本日開戦ナリ

街を歩けば、突き刺さる冷たい視線。「軍人風情が」「税金泥棒」などと投げつけられる心無い言葉。この服を身に纏うと、どうも人の怒りを買うようだ。軍服に身を包み、軍帽で目元まで隠した男…白布賢二郎は、そんな白い目を全身に受けながら、賑う街の中を颯爽と歩いていた。靡く外套を指差しながら、小さな男の子が「軍人さんだ」と母親の手を引っ張っている。この軍服が憧れの象徴だったのは、もういつの頃の話だろう。すっかりくたびれた黒い生地が、今の我々を表しているかのようである。

しかし、白布にとってそんな事はどうでも良かった。少なくとも彼にとって軍人とは、祖国・大日本帝国の為に命を懸け戦う誇り高き職業。その価値が分からない者の言葉など、耳を貸す必要はない。この人たちは知らないのだ。憧れのあの人…牛島中尉の気高くピンと伸びたあの背筋を。

こちらを睨む男を横目でちらりと見る。嗚呼何て薄汚い、安っぽい着物を着ているのだろう。白布は心の中で軽蔑の感情すら抱いていた。国の為に命すら捧げられないこの男こそ、全くもって食い扶持の無駄というものではないか。

綺麗な顔にそぐわぬ毒を心に秘めて、白布は向かう。いつもの行きつけの店へ。いつもの彼女がいる、あの場所へ。目的地が近付くにつれて、自然とその足は早まり、心浮き立っている自分に半ば呆れる。子供じゃあるまいし、たかが女一人に会うのに何故こんなにも浮かれているのだろう、と。チップは懐にしっかりと用意してある。後はいつもの席に座り、まだよく美味しさが分からない珈琲を啜り、ご奉仕をして貰いながら、他愛のない話をする。これが最近の白布の楽しみであり、唯一肩の力が抜ける休息の時間でもあった。軍でも田舎者と笑われ、街では心無い言葉を掛けられる彼ら黒尾分隊の人間にとって、この店は、彼女は、唯一の理解者であり、心の拠り所なのだ。

そうして辿り着いた一軒のカフェーの前で、白布は立ち止まった。今では、同じようにこの店に通う客の顔も覚えてしまう程、彼もここの常連客になっている。重たい戸を押し開け、彼は待った。奥から聞こえてくる筈の、あの高くて澄んだ綺麗な声が「白布様!いらっしゃいませ!」と呼んでくれるのを。

しかし、そんな白布の名を呼んだのは透き通った声ではなく。意味深な含みを孕んだ男の声が、楽しげに、馴れ馴れしく声を掛けてきたのだ。

「遅かったな白布」
「……なんでお前がここにいるんだよ太一」

浮き立っていた心は一気にどん底まで落ちる。休む為に来たというのに、何故ここでもまた、同僚の顔を見る羽目になったのだと、白布は思い切り表情に嫌悪感を表していた。全く歓迎していない様子なのは、太一と呼ばれた男の方も分かっていて、「おいおい冷たいな」なんてお道化ている。いちいち癪に障る男だ。

川西太一。彼もまた、白布と同じ軍人の身であった。昔からの馴染みであり、同じ黒尾分隊に所属する白布と太一は、本当に昔から縁がある。その繋がりは、切ろうとしても切れないほどに深かった。どうやらその鬱陶しい縁は、このカフェーでも発揮されてしまったようである。同じ軍服を着た彼に溜息1つ落とした白布は全てを諦め、太一に手招きされるがまま、彼の隣の席に腰を落ち着けた。

「珈琲だろ?」
「ああ」
「名無しちゃーん」

間延びした声が店員を呼ぶ。店の奥からひょっこり顔を出したのは、白布のお目当ての人物、名無し。本当ならば、名無しと二人で会話しながらコーヒーを嗜むつもりだった。やはり目の前の男が恨めしくて、白布はじっとりと太一を睨み付けた。ぱたぱたと駆け寄ってきた名無しは、屈託ない笑顔を太一に向けている。その笑顔、普段なら俺が独り占めしているのに。眉間の皺は濃くなる一方で、名無しも黙ったままの白布を不思議そうに眺めていた。

「今日はお二人でいらっしゃったんですね!」
「……んな訳ねぇだろ」
「あれ、じゃあ偶然?」
「そそ、偶然偶然。白布の顔が見えた時はひっくり返るかと思ったよ」

楽しそうに笑顔を浮かべる二人の傍ら沸き上がった、嘘付いてんじゃねえよ、という毒は、言葉にする前になんとか飲み込んだ。白布より器用な太一は、上手に名無しを笑わせている。白布にとってはそれが益々気に喰わないのだ。何が偶然だ、確信犯の癖に。昨日の晩、このカフェーにこっそり一人で通い詰めていることがバレてしまったのが悔やまれる。最近お前よく外出してるけどどこ行ってんだよ、なんて聞かれたその時、白布は言葉を濁して上手く誤魔化したつもりでいた。だが奴はここを嗅ぎつけていた。「お前から珈琲の匂いがしたから」と。それを聞いて、どうしてバレたのか合点がいったのだった。今も何かを探るような目を向けてくるコイツに、俺は否定の言葉を並べていく。

「珈琲が美味いから。他に理由はない」
「ふーん?」
「……何だよ」
「別に」

「確かに美味いよな、ここの珈琲」なんて、よくもそんな事を言えたものだ。太一は気付いている。白布が珈琲の味なんて微塵も美味いと思っていないことを。目的はもっと別にあることを。その目的が一体何なのかを。そして、今やこの男も、白布と同じ目的の為にここに足を運んでいることなど、お見通しであった。いや…お見通し、という表現は正しくはないか。コイツは、隠す気など更々ない。だからこそこうして、白布が来るのを見計らってここで待ち伏せしていた。それは、太一から白布への宣戦布告でもあり。

「珈琲、すぐ用意しますね!」

この席に来た時と同じように忙しなく走って去っていく小さな背中。それを見送りながら、太一は頬杖をついた。その目は真っ直ぐ白布を射抜いている。普段あまり表情を変えない、飄々とした彼にしては珍しく、その眼差しに熱を帯びていた。

「俺も狙っていい?」
「…………」

この質問は、質問であって質問ではない。ここで白布が「ダメだ」と言えば、太一は諦めるのか。答えは否。コイツ程しぶとい奴を白布は知らない。だから白布は、その質問には何も答えず、ポケットに突っ込んだ手からタバコを取り出した。拒否なんて無駄なことはしない。だけど、同意もしてやるものか。…渡しはしない、先に目を付けたのは俺だ。そんな闘争心を密かに燃やして。

「お待たせしました!」

何も知らないその女は、無垢な笑顔を浮かべたまま白布と太一にコーヒーを運ぶ。この男たちが、碌にコーヒーの味なんて分かっていないまま飲んでいることすら気付かずに。名無しは白布たちを見て言う、「仲いいんですね」と。どこまで鈍感な女だ。同じ女に惚れた男が仲良しこよしなんて、出来る筈がない。お前が厨房の奥に消えている間、開戦の火蓋は切って落とされたのだ。

白布と太一が、机にチップを置く。「あ…、」と小さく声を漏らした名無しは、うっすらと頬を赤らめた。このチップが何を意味するのか、名無しは今まで散々経験している。おずおずとその金に手を伸ばした細い腕を掴みつつ。口では否定できなかった、「仲いいんですね」の言葉に対し、せめてもの報復として、机の下で思い切り太一の脛を蹴飛ばしてやった。

さあ、今日もこのチップ分のご奉仕を楽しもうじゃないか。白布と太一、どちらがより女の気を引けるか。それは男のプライドを賭けた大勝負でもあったのだ。