人は人 吾はわれ也A

火の元良し、片付け良し、明日の準備良し、戸締り良し。毎日仕事が終わった後にこなしているこの作業は、もうすっかり体に染み付いている。全ての確認を終え、私は手荷物を持ちながら灯りを消した。時刻はもうすぐ真夜中の12時を指そうとしている。すっかり遅くなってしまった帰宅時間に、ふと頭の中を過った言葉。

『最近この辺りで女性が次々と殺される事件が起きてる』

昨日昼間。皆様と共にここへやって来た赤葦様の言葉だ。今こうして思い出しても、体が震えてしまうほどに恐ろしい事件。それが、この周辺で起こっている。明日は我が身という言葉があるように、決して私も他人事ではない。そう考えていたら、消灯して真っ暗になった店が何だか怖くなった。その恐怖心がどんどん妄想を膨らませ、誰もいない筈なのに誰かがそこで見ているような、そんな錯覚に陥ってしまう。もしかしたら犯人が近くにいるかもしれない。私は慌ててバタバタと店の中を走り抜けると、バタンと勢いよく扉を開けて外に出た。

「……っ!?」
「…びっくりした…。どうしたの、そんなに慌てて」

外には、私が出てくるのを待っていた研磨様と赤葦様が、白い息を吐きながら丸くした目をこちらに向けていた。私がすごい勢いで出てきたから驚いたのだろう。普段はあまり感情を表に出さない二人が、揃ってそんな顔をしているのが珍しい。その姿を見た瞬間、私の中に広がっていた恐怖心はみるみる和らいでいった。

夜の巡回業務ついでに、仕事終わりの私を家まで送り届ける。そう提案してくれた黒尾分隊の方々は、約束通り今日から、この時間に店まで迎えに来てくれた。今晩の当番は、赤葦様と研磨様らしい。すっかり寒い冬の空の下で、二人を待たせていた事が申し訳なくなって、私は慌てて扉の鍵を閉めた。

「お待たせしちゃってごめんなさい…!」
「慌てなくていいよ。そんなに待ってないから」
「うん。それに…、早く来たら早く終わっちゃうし」

少しでも長く一緒の時間を過ごしたい、なんて笑う二人。ああ、とても罪なお方だ。そんなことをサラリと言ってしまうお二人なら、きっと女性にも困らないだろうに。こんな田舎臭い私なんかを相手にして、寒い夜に家まで送ってくれて…。本当に神様のようだ、と二人に向かって手を合わせて拝んでいると、「なにしてるの」と怪訝な顔をされてしまった。

「それより、今慌てて店から出てきたけど…何かあったの?」
「あ、いえ…何かあったという訳ではなく…」

何だか怖くなって、二人の顔を見て安心したくなった、と言ったら笑われるだろうか。まるで子供が、怖い本を読んだ後に一人で眠れなくなってしまうような、それと似ている。言うのが少し恥ずかしくて、頬を染めながら俯きがちに黙り込んでいたが、そんな私を二人のお顔が覗き込む。どうやら言うまで解放してくれないらしい。観念したように、ぼそぼそと小さく呟いた。

「…事件のことを思い出したら怖くなってしまって…。二人に早く会いたかったのです…」
「え……」

面食らって固まってしまう二人。ああやっぱり、言わない方が良かったかな。恥ずかしさのあまり、両手で赤い顔を覆って隠した。いい歳した女が、暗闇が怖かっただなんて。情けないし子供みたいだと幻滅されたかもしれない。穴があったら入りたいとはまさにこの事かと、一人羞恥心に身悶えていると、顔を隠す手がそっと掴まれて。

「俺たちといると安心するんだ」
「あ…赤葦さま……」

どこか嬉しそうに柔らかく笑う赤葦様が、私の手をぎゅっと掴んでいる。冷え切った二人の手は、触れあっている部分からゆっくりと温かくなっていくのを感じた。皆様と一緒にいるとき、私の心は安らぐし、とても安心する。どんな事からも守ってくれる、そんな逞しい強さを貴方たちは持っている。近くにある赤葦様の顔に微笑み返していると、空いていたもう片方の手は研磨様に奪い取られ、そっと握りしめられた。

「…そうやって、ホイホイ男に付いてったりしないようにね」
「だ、大丈夫です!研磨様たちだけですから!」
「ならいいんだけど」

振り向き様にフと口元を緩める研磨様の顔が、美しいとすら感じる。私は決して、誰にでもこんな事を言う訳ではないのだと、若干悔い気味に否定した姿が面白かったようだ。そうして二人に手を引かれるまま、店を離れゆっくりと歩きだす。人など一切いない、昼間の喧騒が嘘のような街中をのんびりと歩きながら、私たちはいつもカフェーでするように他愛ない話を交わした。今日お昼に何食べた、とか、訓練がきついとかあの上官が嫌だとか。二人の色々な話を聞いて、時には私のくだらない話も聞いてもらって。

黒尾分隊の中でも比較的落ち着いている二人と話していると、何だか時がゆっくり流れているような感覚がした。それだけ私が、二人に対して心を開いて接しているということだろうか。素のままを受け入れてくれるこの両手の温もりが大好きで、大切で。赤葦様が先程言っていたように、少しでもこの時間が長引けばいいのに、なんて考えて。そんな私たちの話題は、彼らの上司であり、私もよく知っている、黒尾伍長の話になる。

「クロは利口と見せかけて割と感情で動いたり、後先考えずに行動したりするから、尻拭いが大変だよ」
「俺も最初は食えない男だと思ってたけど、割と熱血だよね」
「たまに鬱陶しい時あるから」

眉間に皺を寄せて話す研磨様は、本当に黒尾様のことを鬱陶しそうに話していて、それを聞く赤葦様は笑っている。きっと二人とも、本当に黒尾様のことを信頼しているからこそ、こういった愚痴も笑って話せるのだと、そうひしひしと感じていた。カフェーで話している時も思う。口ではお互いにお互いを馬鹿にしたり、喧嘩したりするけども。でも心の奥底では信頼しあっている、固い絆のような、男の友情のようなもの。それが私にはとても眩しくて、羨ましいとすら思う時もあった。

「…二人とも、大好きなのですね。黒尾様のこと」
「………」

空を見上げる私の横顔を見た赤葦様と研磨様は、同じように空を仰いだ。真っ暗な闇にちりばめられた宝石。輝く星たちが一面に広がって、小さな私たちを見下ろしている。聞いている人が私しかいないからだろうか、二人は普段はあまり言わないようなその気持ちを、私に打ち明けてくれた。

「俺たちみたいな、田舎から出てきた志願兵は、軍の中でも肩身が狭くてさ。軍学校出身の尉官たちからは見下され、道具のようにこき使われてる隊だっている。酷い仕打ちを受けて、志半ばで夢を諦めた仲間を、俺は何度も見てきた」
「…そんな…」
「…軍の中だけじゃない。一歩外へ出れば、街の人たちからは白い目を向けられる。税金泥棒、軍人風情って言われるくらいならまだいいよ。…戦争で息子を亡くした人が、息子を返せって掴み掛かってきたことだってある」

彼ら軍人が、あまりいい待遇を受けていないのは、私も勿論知っていた。実際、店で黒尾様たち軍人をもてなしている時、他のお客様から『軍人を追い払ってくれ』と言われた事だってある。勿論、そんな要望には応えられないと断ったけれど。でも、そんな中で皆様は、いつでも背筋をピンと伸ばして、その肩に背負った軍人の宿命を立派に全うしておられる。だからこそ、こうして二人の口から改めて聞いた軍の実情は、少し衝撃的であった。上手い言葉が見つからなくて、俯きながら言い淀んでしまう。

「俺たちも、今まで散々理不尽な事をされたし、言われたりした。仲間を目の前で気晴らしに殴られたり、頑張って勝ち取った手柄をいつの間にか上の連中に横取りされていたり」
「そういうのを見る度に、何度も思ったよ。……いつか殺してやるって」

殺す、という単語が出てきたことに、ぞくりと背筋が震えた。その声音は冷たくて低くて、本気で怒っていることが分かる。きっとその時のことを思い出しているのだろう。私の手を握る二人の力がぎゅっと強くなった。人に対して、殺す、と思う事はそんなにある訳ではない。それほど赤葦様や研磨様は、数々の仕打ちに耐え、我慢して戦ってきたのだろう。ぎゅっと心が締め付けられていく。どうして二人が、そんなに辛い目に遭わなければならないのか。こんなにも優しくて温かい人たちなのに。

「でも、そんな俺たちを守ってくれる馬鹿な上司がいるんだよ」
「……それが、黒尾様、なんですね」
「頭に血が上りやすい短気な奴ばっかり揃ってるからね、この隊は」
「黒尾さんが一番苦労してるだろうね。こんな言う事聞かない部下ばかりで」

強張っていた赤葦様と研磨様の表情が解れる。尊敬しているんだ、黒尾様のこと。上司として、そして…幼き頃からの友人として。自分たちより少し前を歩いているだけで、黒尾様はたくさんの責任と重圧を抱えている。それが伍長という肩書に圧し掛かっている責務だ。部下を守るのは、上司の仕事。そんなことは誰もが頭では理解しているが、それを実際にこなせる人はそういない。だからこそ黒尾様は、こうして赤葦様や研磨様、そしてここにはいない白布様や川西様から、信頼されているのだろう。

「俺たちに代わって謝ったり殴られたりするのは、いつもクロだから。それがどれだけ大変できついことか…俺たちも分かってるつもりだよ」
「だから、俺たちは必死に働くんだ。…黒尾さんの夢を叶える為に」

黒尾様の夢。前に聞いたことがある。上に上り詰めて、軍を変えるって。せっかく夢を抱いて志願してきた若い人たちが、もう傷付かなくていいように。必死に働いている軍人が、街で指を差されることが無いように。そして…、日本の為に戦う立派な兵士となる為に。その黒尾様の夢を、赤葦様と研磨様は全力で支えているんだ。私に入る隙間など無い、固くて強い絆。彼らは幼い頃から共にいるからだろうか、その絆がより強く太く見える。

気付けば、もう既に私の家の近くの曲がり角まで来ていて、もうすぐ二人とは別れの時間がやってくる。名残惜しくて、少しだけ握った手に力を籠めると、その思いが彼らにも伝わったのだろうか。急に足を止めた赤葦様と研磨様に、私は腕を引かれて慌てて立ち止まった。

「…赤葦様、研磨様…。どうしました?」
「…せっかくの逢瀬だったのに、なんか黒尾さんの話ばかりしちゃったね」
「いえ…、私は、嬉しかったです。お二人の話を聞けて。普段カフェーではなかなか聞けないですから」

嬉しい、と思ったのは本当のこと。今では私にとってすっかり大切な存在となっている二人のことを知れるのは、とても嬉しい。もっと聞きたいとも思う。だけど、同時に少しだけ寂しくもあった。こんなものは、私のくだらない感情だ。いつもだったら、言わずに胸の奥にしまったままでいたと思う。だけど何故だかこの時は、思ったままに口を滑らせてしまっていた。二人の話を聞いていた時に感じた、私のこの思いを。

「でも、少しだけ羨ましいと思ってしまいました」
「羨ましい?」
「はい、皆様のこと…。同じ夢を抱いて、同じ方向を向いて、共に突き進む…。皆様のそういう姿を見ていると、私は何故男じゃなかったんだろう、って少しだけ思うのです。もし男だったら、私も軍人として、貴方たちと対等の立場でいれたかもしれないですから」

少しだけ落とした視線の先には、これまた驚いたような顔をしている赤葦様と研磨様。そうだ、何故私は男ではなかったのだろう。男だったら、私も皆様と肩を並べて、夢の為に奔走していたかもしれないのに。女では、軍人にはなれない。皆様の間を結ぶ固い絆には、決して入れない。だからたまに感じるのだ。皆様が和気藹々と話している時に、ふと感じてしまう寂しさ。それは、私のくだらない幼稚染みた想い。

色々と話してくれた二人に釣られるようにして口を滑らせてしまった私だったが、シンと静まり返った空気に我に返り、慌てて弁解した。こんな事を言うつもりじゃなかったのに、赤葦様と研磨様を困らせてしまったかもしれない。いや、呆れて何も言えない状態なのだろうか。不安なまま足元を見つめていると、その視界の中に移る、革靴のつま先。ハッと顔を上げたら、すぐそばには赤葦様がいて、私の冷えた頬に手を添えた。

「俺は、名無しが女で良かったって思ってるけど」
「え……」
「だって男同士だったら、こういう事できないでしょ」

ゆっくり重ねられた唇。その瞬間に、凍てつく寒さも、かじかむ指先も全て吹っ飛んでしまった。目の前には、目を閉じた赤葦様の整った顔。呆然としている内に、赤葦様は私の胸元に手を差し込んで、チップを幾らか入れた。この接吻に対する代金だろうか。赤葦様の行動に対して1つ1つ頭の中で整理しようとしても、彼は次から次へと行動に移すものだから理解が追いついていかない。腕を強く惹かれて熱く抱きしめられて、再び落とされる唇。温かくて情熱的なその行為に顔が蕩ける私の視界の隅で、研磨様もこちらに手を伸ばしてきた。

「このままサヨナラじゃ味気ないしね。逢瀬らしい事1つくらいしておかないと」
「け、けんまさま…っ」

赤葦様の唇が離れた隙を狙って、今度は研磨様が私の顎を捉える。ぐいと横を向かされて、そのまま再び唇を塞がれた。指と指を絡めあい強く握りしめると、比例するように深くなる口づけ。私の口を割って、研磨様の舌が中に入っていく。混ざりあう唾液、溶け合う呼吸。二人が入れ替わりで私を求めていく。そうする度にどんどん頭は痺れて、何も考えられなくなっていった。

冬の夜。誰もいない街の一角で求め合いながら、思考の隅で考えていた。確かに私と皆様の間には、男同士が結ぶような固い絆は無いけれど。男では結べない絆で、私と皆様は繋がっている。それは、誰にも負けない程の力強い、愛と情熱で出来ているのだと。