人は人 吾はわれ也B

「あ、あの、白布様、太一様…!」
「んー?」
「か、帰らないのですか…?」
「後もう少しだけ」

今日の当番は、白布様と川西様。30分程前に、この店に迎えに来てくれた。せかせかと片付けをする私を、いつもの席に座って待ってくれていた二人だったが、ようやくそれらの作業を終えて戻ってきた私を、彼らは捕まえた。机に置かれているチップを横目に見て、二人が考えていることを悟る。見回りついでに私を家まで送り届けるのが、彼らの目的だった筈なのに、ここでこんな事をしていて良いのだろうか。不安げに帰らないのかと聞いても、笑って誤魔化されるだけ。

「ひっ…!?し、白布様!」
「ここ弱いよな、お前」

ふー、と耳に息を吹きかけられてぞわりと背筋が震えた。慌てて手で隠して白布様を見ると、楽しそうに笑う綺麗な顔。いつも仏頂面な印象が強い白布様の笑顔はとても素敵でつい見惚れてしまっていた。すると、白布様に気を取られている事に対して面白くなさそうな川西様が私の手の平に軽い接吻を落としてきた。絵になるその光景に釘付けになる。

「俺の事も構って、名無しちゃん」
「た…太一様……」

二人の唇が、それぞれ右と左の頬に触れる。白布様と太一様に挟まれて密着する体は、既に火が出てしまいそうな程熱く火照っている。頬、目、口元、手、首…、二人は色んな場所に次々と口付けをしていく。その擽ったさを我慢して肩を震わせていると、やがてぬるりとした感触が首を張った。再び首の部分を手で押さえながら、何が起こったんだと言わんばかりに二人を見る。光悦な表情で舌舐めずりをする太一様の姿があった。

「…昨日は楽しかった?赤葦と孤爪との逢瀬」
「た、楽しいも何も…、ただ一緒に歩いて、家まで送って貰っただけです!」
「あれ、おかしいなぁ。赤葦の話だと、随分楽しい事をしたみたいだけど」

探るような目が私を覗き込む。昨晩、赤葦様と研磨様に熱く口付けられた事を思い出して、かーっと頬が赤くなった。赤葦様、昨日の出来事をこの二人に言ったのか。隠そうとした私の嘘は無駄に終わり、何も言い返す事が出来ずに黙り込む。そんな私を、今度は不機嫌そうな白布様の顔が覗き込んできて。

「……ムカつく」
「え……?」
「俺以外の男にそんな顔すんな。ムカつくから」

何かに怒っている様子の白布様が、その言葉を残して私の首筋に顔を埋めてきた。慌てて反応した時には既に遅く、そのまま白布様がかぷりと噛み付いてくる。初めての感覚に驚き固まっていると、その間にも軽く吸い付かれ、そこに真っ赤な痕を残していた。こんな所に付けられたら、普段着物にエプロンで働いている私は隠すことが出来ない。慌てて持っていた手鏡で確認した後、白布様に詰め寄った。

「白布様、困ります…!こんな所に付けられたら、見えて……、」
「アホか、見せてんだよ」
「そんな…!」
「あーあ、白布。名無しを困らせるなんて、悪い奴だな」

わざとらしく呆れる太一様が、一緒になって白布様を非難する。彼は私の味方かと安心しきって振り返ったら、あろう事か太一様の手が私の着物の合わせ目をひっ掴み、がばっと勢いよく開いてきたのだ。露わになる鎖骨と胸元に、一体何が起きているのか分からず混乱する。半ば取り乱す私を無視して、太一様は胸元に吸い付いた。白布様と同じ様に、そこに赤い痕を残す。

「見えない所に付けてあげないと」
「そ、そういう問題じゃありません!」

慌てて太一様の手を振りほどいて、乱れた着物を整えた。なんて強引なのだろう。恥ずかしさにいちいち大騒ぎする私とは反対に、白布様と太一様はいつも余裕げだ。もしかして、こういう事に慣れているのだろうか。この二人だけではない。黒尾様も、赤葦様も、研磨様も…。何度もチップを貢がれてそういう事をされたりしたりした事があるが、いつも余裕が無いのは私の方だけ。慌てふためく私の姿を見て、皆様はいつも楽しそうに笑うだ。何だかそう思ったら気になって仕方なくなって、両隣にいる二人に勇気を出して聞いてみた。

「お二人は…、色んな女性にこういう事をされているのですか?」
「え」
「は?」

キョトンと丸められた二人の視線が、隣から突き刺さる。ああ、私はまた面倒くさい事を聞いてしまっただろうか。私は別に、お二人の恋人でも無いし、只の店員とお客様という関係だ。それに、女の人で遊ぶというのは、別に珍しい事ではない。言ってしまえば、私にチップを貢ぐ皆様の行為も、女遊びと言ってしまえばそれまでだし、別の店では別の女性店員に同じ事をしているのかもしれない。更にそれ以上の商売をしているところで女を買っている可能性だってあるし、二人のことだから綺麗な人に言い寄られることだってあるだろう。

考えれば考えるほど止まらなくなって、何だか胸が締め付けられた。私は何故こんなにも傷付いているのだろう。もしかして、嫉妬、をしているのだろうか。だとしたら、身の程を弁えろと自分に言いたい。立派な軍人様に対して、偉そうにヤキモチを妬けるような立場の女ではない事は、自分でちゃんと理解しているつもりだ。先程の質問は無しにして貰おう、と訂正しようとする私を遮って、太一様は答えた。

「まあ、多少は付き合いでそういうのもあるけど。上の連中、女の胸や尻が好きな奴が多くてね」
「それはお前もだろ太一」
「俺は名無しちゃんのお尻限定だから」

すりすり、とお尻を撫でるいつもの手付き。「きゃあああ!?」と悲鳴を上げたら、白布様が咄嗟に太一様の手の平を抓って止めてくれた。油断も隙もない、とはまさにこの事。太一様にこうしてお尻を触られる事は初めてではないが、やはりいつも驚いてしまうし恥ずかしい。慣れればいいというものでもない気はするが。

「でも俺は抱ければ誰でもいいって訳じゃないから、いつも付いてくだけだよ」
「俺は付いてくのすら嫌だから断るけどな」
「お前、そんなんじゃ出世しないよ」
「俺は実力で上に行くんだよ!」

いつもの言い合いが勃発する両隣を他所に、私は自分の手元に視線を落とした。やっぱり、軍人にもそういう付き合いはあるんだ。白布様も太一様も、断ったり見ているだけだとは言っているものの、どうにもこの心の靄が晴れない。私は何をウジウジと気にしているのだろう。浮かない顔のままの私を見た二人が、私の頬をきゅっと優しく抓った。

「い、いはいれす……」
「何て顔してんだよお前」
「なに、ヤキモチ妬いてくれてんの?」

俺ら期待しちゃうよ?と悪戯げに笑う太一様。そうやってまた冗談を言って誤魔化すんだ。だから私も、仕返しと言わんばかりに言葉を返した。

「妬いたら駄目ですか」

しんと静まり返る。我に返った時にはもう遅い。私の発言を受けて、またもや呆気にとられている二人の表情を見て、やってしまったと後悔した。私は何を言っているんだろう。こんな事を私に言われた所で、二人からしたら『たかが女給が何を思い上がっているんだ』と思うだけだ。しかし、口にした言葉はもう取り消せない。耐えられない沈黙に居たたまれなくなりつつある頃、白布様がようやく口を開いた。

「……お前だけだ」
「え………」
「会いたいと思うのも、話したいと思うのも、触れたいと思うのも、お前だけだ」
「白布、様……」
「仕事をしてても、訓練してても、ずっと考えてる。お前のことが、頭から離れない」

重症だろ、と少しばかり朱に染めた頬を背けて、白布様はその綺麗な髪をぐしゃりと掻き上げた。照れ隠しのようなその行動に、どくどくと胸が高鳴っていく。続けて太一様も、私に打ち明けてくれた。

「俺だっていつも妬いてるよ。名無しは人気者だし、目を離すとすぐ取られちゃうし」
「太一様……」
「こう見えて、俺も結構必死だから」

頬杖をついて、優しげな目を向けてくれる。太一様のその言葉が、じんわりと胸を温かくしていく。そんな風に思ってくれていただなんて。自分で思っているよりも遥かに大事にされていた事実に驚く。さっきまで抱えていた不安や嫉妬の感情は、跡形も無く消え去っている。こんな面倒くさいことを言ってしまったのに、太一様は笑いながら「ちょっと嬉しいかも」なんて許してくれて…。こんなにも優しくて素敵な人たちに思われて、なんて幸せなのだろう。

「さて、そろそろ帰ろうか。あんまり遅くなると黒尾さんに怒られそうだし」
「待っててやるから、荷物持ってこい」

立ち上がった二人に釣られて、私も慌てて椅子から立つ。服装を整えている二人を尻目に、私は裏方へと引っ込んだ。いつも持って出勤している小さな鞄を取り、再度戸締りと消灯の確認をする。忘れ物は無さそうだ。踵を返して、二人が待つ店の方へと戻ろうとした時。

がたん、と大きな物音が聞こえた。何か重いものが倒れた時のような、鈍い音。裏口の方から聞こえてきたので、一体何だろうとそちらに顔を覗かせ、様子を窺う。中から見た様子だと特に異変は感じられない。ということは、外で何か物が倒れたのだろうか。軽い気持ちで裏口の扉に向かい、がちゃりとその戸を開けた。

「え…………」

絞りだされた声は、恐怖に震えた。戸を開けた先に広がっていた光景に、頭が真っ白になる。地面一面に広がる真っ赤な液体。倒れている見知らぬ女性。目を見開いたまま動かないその女性を見て、咄嗟に私は悟った。死んでる。殺されてる。

脳裏を過る、恐ろしい事件。腰が抜けて、その場にへたり込んでしまった。恐怖で声が出ない。呼ばなくちゃ…白布様と太一様に伝えなきゃ、と頭ではそう思うのに、喉の奥に声が突っかかって出てこないのだ。ジワリと浮かぶ涙と、乱れていく呼吸に、意識を手放しそうになる。顔の血の気が引いていくのが自分でもよく分かった。

「名無し、どうした、」

なかなか戻ってこない私の身を案じて、白布様が店の方から裏口へとやってきた。座り込んだまま動かない私を不審に思い、二人は近付いてくる。そしてそこで、白布様も太一様もようやく気付いた。そこに、恐ろしい光景が広がっている事に。

「し…らぶ、さま…。たいち、さま…」
「……こ、れは……」
「どうなってやがる…!犯人は…!」

慌てて飛び出した白布様が、周囲を見渡す。しかし、犯人らしき人影は見当たらない。どうやら既に逃走してしまった様である。小さく舌打ちを零しながら、白布様は倒れる女性の側で屈んだ。

「………死んでる」
「どうする、白布」
「黒尾さんに連絡する。そこから軍にも報告して貰おう。お前はここで見張っててくれ」

立ち上がり、軍帽を深く被り直す白布様は、テキパキと状況を理解し、何をすべきなのかを判断していた。太一様は、未だに震えている私の肩を抱きながら、そっと店の奥へと連れて行ってくれた。

「ごめんな、怖かっただろ」
「……………」
「後は俺たちが何とかする」

優しい声音、温かい温もりに包まれて、ばくばくと騒ぐ心臓は徐々に落ち着きを取り戻していた。その様子を見ていた太一様が、そっと私から離れて、白布様と同じように軍帽の唾に手を置く。死体の元へと戻るつもりだろう。しかし、ここに一人残されるのが嫌だった私は、咄嗟に太一様の外套を掴んだ。振り向く太一様の目が、私を見下ろす。

「た、太一様……!」
「……ん、どうした」

何だろう、この不安。彼らを行かせたら、帰ってこなくなってしまいそうな気がして。言葉にならないその不安に駆られて、思わず引き止めてしまった私の手を、太一様が絡め取った。

「大丈夫。何処にも行かないから」
「………はい……」

今は、太一様の言葉を信じるしかない。そっと離した手から逃れて、太一様は小走りで裏口の方へと戻って行った。まさか、店のすぐ側で新たな被害者が出るなんて。私たちはそれから数十分、軍の応援が駆け付けるまでそこで待っていたのだった。




ーーーー・・・・




「黒尾さん!」
「大方話は聞いた。とりあえず怪我はないか」

合流した黒尾分隊の方々の姿を見て、私は心底ホッとしていた。黒尾様、赤葦様、研磨様、白布様、太一様…。いつもの皆様が、そこに立って何か真剣な顔をかて話し合っている。私は邪魔にならないようにと少し離れたところでその光景を見ていた。私は、一応第一発見者になる為、事情を聴くまではここから離れてはいけないらしい。正直、人が死んでしまったこの場から一刻も早く離れたい気持ちが大きかったが、こればかりは仕方がない。やがて、話を終えた黒尾様が、私の存在に気付いてこちらに近付いてきた。

「大丈夫か、名無し」
「はい、私は何とも……」
「見たくないもん見ちまっただろ」

ごめんな、と優しく頭を撫でてくれる黒尾様。黒尾様も白布様も太一様も、悪いのは全て犯人なのに、ごめんなと私に謝ってくる。私はそんな皆様の言葉に対して首を左右に振って、「貴方のせいじゃありません」と否定した。怖さは消えてはいないが、皆様の姿を見て安心しているのも本当だ。私なら大丈夫だと伝えていると、裏口から聞こえてきた、覚えのある声。

「手首がちょん切られとるな。こりゃあの連続婦女殺人事件と同一犯と見て、間違いなさそうや」

この声は、とそちらに視線を配ると、案の定、死体の側に立つ宮侑様と宮治様。私の姿を見つけて、ヒラヒラと手を振ってくれている。黒尾様の背後までやってきた白布様が、こそこそと耳打ちをした。

「なんでアイツらがここに……」
「一応、この事件の捜査を仕切ってるのがあそこの隊なんだよ。確か上司は…」
「北信介や」

黒尾様の言葉の続きを、これまた別の声が遮る。皆様の背後から出てきたのは、侑様と治様を引き連れた銀髪の男性。鋭い目を帽子の下から覗かせ、黒尾様を真っ直ぐ見つめている。

「北って……あの中尉か」
「アイツらの上司だったんだな」

こそこそとやり取りする太一様と白布様のやり取りを耳にしながら、私も北様と名乗った男性を見つめた。何だろう、この威圧感。特に怒鳴っている訳でもないのに、何となく直感する。この人に逆らってはいけない、と。

「北中尉。お疲れ様です」
「連絡を寄越したのはお前の部下か」
「はい。白布一等兵と、川西一等兵が現場に偶然居合わせておりました」

帽子を取って、丁寧な言葉で説明していく黒尾様。黒尾様を見つめていた北様の目は、ぐるりと白布様と太一様を一瞥した後、後ろに隠れていた私に向けられた。蛇に睨まれた蛙の様に、びくりと肩を震わせる。

「第一発見者は、そこの女か」
「……あ、は、はい…。私が見つけました…」
「動転しとるとこ悪いんやが、話を聞かせて貰うで」

一歩踏み出した北様の前に立ち塞がる、白布様。その目は、明らかな敵意を剥き出しにしている。しかしそんな目を向けられても、北様は一切動じずに見返していた。数秒の無言の睨み合いの後、後ろにいた侑様が口を開く。

「邪魔すんなや。こっちは仕事で来てんねんで。どっかの田舎分隊とは違ってな」
「何とでも言え。この人と一緒に事件を発見したのは俺たちだ。事情聴取なら俺たちが、」

譲らない白布様の言葉を遮ったのは、紛れも無い、北様の言葉。

「安心せえ。何も取って食う訳やない。少し話を聞くだけや」
「………………」
「信用ならんか。…確かお前、尉官の事毛嫌いしとったな。噂には聞いたことあるで」
「……俺の事はどうだっていい」
「牛島を連れてきた方が良かったか?」

ぴくっ、と白布様が分かりやすい程に反応した。ウシジマ、とは一体誰のことなのだろう。首を捻る私を他所に、北様は更に威圧的に白布様を睨んだ。

「……退き。お前が尉官を嫌おうが俺は何も文句は言わん。だが仕事の邪魔をするんなら、黙っちゃおれんで」
「…………」
「…白布、退け」

黒尾様が、白布様にそう命じた。悔しそうな顔を浮かべた白布様は、そのまま渋々道を開ける。私の前までやってきた北様が、私を見た。

「乱暴なことはせえへん。話だけ聞かせてくれ」
「……はい」
「ほな行こか、名無しちゃん」

にこやかな笑みを浮かべる侑様が、私の手を取る。見送る黒尾様たちの前を通り過ぎる時、侑様は口端を釣り上げながら振り向いた。

「借りてくで、お宅の大事なお嬢さん」

挑発するように吐き残して出て行った彼らの背中を見送った後。白布は苛立ちをぶつけるように、側にあった椅子を蹴り倒した。黒尾はただ静かに、北たちが出て行った扉を睨んでいたのだった。