凍えることすら一人では上手にできなくて

――ここには、逃げ場がない。

そう直感した。考えるまでもない。もはやこの特異点全てが私を苛ます。
外は魔力を帯びた霧―魔霧に覆われ、長時間そこで活動することは難しい。
そして本来安全圏である活動拠点のアパートメントの一室には、家主である彼が。
…違う。あの彼ではない。あの地で召喚された人そのものでもなく、また異なる出自を持つようだ。
それでも、同じ顔で、同じ声で、同じ仕草で、そこに生きている。間違いなく、そこにいるのだ。

魔霧の影響は屋内に及ばないはずなのに、息がしづらい。苦しい。
逃げたくても外は濃霧。加えてオートマタやホムンクルス、大型のヘルタースケルターが闊歩している。
結局は、よっぽどの事がない限り1人で外には出られないのだ。

出された紅茶のカップに視線を落とし、ひたすらこの閉鎖的な空間に耐えていると、そこに影が落ちた。

「大丈夫かい?顔色が良くないようだけど…」

その声に弾かれるように顔を上げた。
…そんな自分の反射的な行動に絶望したくなった。
見上げた先には、この耐え難い心境の原因たる彼―ヘンリー・ジキル。まだ湯気のたつカップを手に、こちらを見下ろしていた。
優しげにカーブを描く目尻に声音。あの時と違うのは、眼鏡をしているということぐらいか。
純粋にこちらを心配している彼をこれ以上見ていることが出来なくて、また視線をカップの中に落とした。

「…大丈夫です」

「そうかい?ずっと思い詰めた顔をしていたから、気になってしまって…」

「通信はいいのですか。他の方々と連絡を取り合っていたのでしょう」

なんで私の表情なんて気にするんだろう。やめてほしい。私の事なんて気にしないで、事態の解決に注力して。
この話はもうおしまいという気持ちを込めて、話題を変えるためにジキルに質問を投げかける。本当は一言だって話したくない。1秒たりともその存在を感じたくない。はやく、立ち去ってほしい。もしくは隣の作家部屋にでも避難させてほしい。…これは最悪の逃げ道ではあるが。

なのに彼は私の言外に込めた思いなんてまるきり気付いていないように「ああ、うん…」と適当に返事をして、あろうことか私の隣に腰掛けてきた。
これは来客用のソファでは?自分のソファはあっちでは?予想外の接近と、想定外の行動に眉をひそめた。

「ごめんね」

突拍子もなく呟かれた謝罪に思わず彼の横顔を見た。彼もその視線をカップに落としており、眉を八の字にして申し訳なさそうな表情をしていた。
意味がわからず、自然に「何がですか」と聞いてしまった。
調子が狂う。本当はこれ以上話したくないのに、無意識に引き摺り出されてしまいそうで怖い。カップを持つ手が微かに震える。

「この時代の異変は、本当はこの時代に生きる僕達が対処しなければならないのだろう。それを君たちに任せることになってしまって、申し訳ないと思う」

だから、ごめんね。そう改めてジキルは謝った。
意図がわからない。突然なんだというのだ。これが私たちの使命であるはずなのに。どうしてそんなことを彼が申し訳なく思っているのだろうか。
私が答えに窮していると、彼はなおも続けた。

「マスターとして戦場に立つ君たちを見ていると、どうしても思ってしまうんだ。華奢で、健気で、優しくて、常に前を向いて一生懸命な女の子なんだって。命をかけた戦いに、望んで身を置いているわけじゃないんだって…」

なにそれ。
まるで、私の記憶の縁をその綺麗な指で優しくなぞるように告げられる言葉たちに、カップを持つ力が増す。震えが大きくなる。

「だからかな、戦うことが得意じゃない僕自身が申し訳なくてね。出来るなら、女の子には傷を負って欲しくないし、怖い思いもして欲しくない。でも、僕にはそれを止める権利も、力もないから」

力任せに、ソーサーの上にカップを叩きつけた。思ったよりも大きな音が立った。同時に立ち上がった私に、ビックリして呆然と見つめてくるその目をなるべく視界に入れないようにした。
真綿で私の首を徐々に締めてくるこの男が、どうしても許せない。
罪はないのだろう。そんなの、分かってる。この男に何ら自分は関わっていない。この世界線で出会ったのはこれが初めてだ。そして今後もう会うことはないだろう。
だから、あともう少しの辛抱だと思った。このまま特に話すこともなく、距離を縮めることもなく、当たり障りのないような対応していれば。
でも、それでも。

「…すいません。私も見回りしてきます」

そう言い捨てて部屋を出ようとする私の腕が掴まれた。
自分が最も避けてきた熱に思わず振り返りそうになったが、同じ過ちは繰り返すまいと必死に押し留まる。

「ごめん…!何か、気に障るようなことを言ったかな。ごめんよ。でも、1人で外に出るのはいくら何でも危ない。ましてや君は女の子なんだから…」

「ッそれが…!それが、嫌なの!!」

ああ、この男は何度私の留めてきたものを溢れさす気なんだろう。
頭の隅でそんな冷静な感想が浮かんで消えた。
込み上げてくる得体の知れないものを必死に呑み込んで、それでも尚この口を割いて飛び出る勢いに思考も体も染まったようだった。
ついに振り返って彼の手を払う。思いの外簡単に外れた手に、憎らしさが募る。
目を見開いて固まるジキルに言い放つ。

「…彼と、同じことを言うんですね」

「待って、」

「ごめんなさい、あなたのせいじゃないの。でも今は1人にさせて。これ以上…私を壊さないで」

最後に振り返ってその間抜け面を拝み、勢いよくドアを閉めた。


エントランスのドアノブに手をかけたところで、はたと動きを止めた。その手の上に確かな感触を感じたのだ。
まるで引き止めるかのように重なったそれは徐々は実体化していき、セイバーの篭手だと分かった。

「………」

彼は黙していた。言わずもがな、と思っているのか。或いはなんと声をかけていいのか迷っているのか。
すぐ背後に立つ彼の顔は見えず、私には分からなかった。

「セイバー」

「ああ」

「…セイバー」

「………」

それきり、セイバーを呼ぶ声は途切れた。それに応えるセイバーの声も途切れる。
エントランスホールは静寂に包まれる。
その静けさを破らんと喉元から込み上げる音を必死に噛み殺す。代わりに、握りしめたドアノブからギュウとか細い音が鳴った。

「マスター…」

力が篭もりすぎて白くなった私の手の甲に、優しく力がこめられた。その感覚に無性に縋りたくなった。あの聖杯戦争を知っている存在に、全てを吐き捨ててしまいたくなった。
後ろから肩ごと抱き寄せるように回った彼の腕を空いている片手で握る。この温かさに、今は。今だけは。そう心の中で何度も繰り返して目を瞑った。

うなじあたりに柔らかな髪とかたい額の感触。

ななし――

閉じた瞼から雫が零れたような気がした。
2019 02 09
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