黒が、白へと。
怒りが、嘆きが、辛苦が、恨みが、妬みが、悔恨が。
痛みが、絶望が、悲嘆が、憤りが、恐怖が、慟哭が。
疲れ果てた感情をただひたすら動かし続けていたそれが、吐息を溢すように流れていく。
白が、ひび割れる。砂のように流れて、消えていく。
やめてください、娘だけはどうか、どうか!
どうしておれたちが殺されなきゃならない! この外道が!!
許さない……! 誰も助けないなんて……!
……許したく、なかったんだ……
私が僕が俺がわしがあたしが死んでも
あいつは気にしなかったことも
世界が私たち≠忘れて
歩んでいくことも
誰かひとりでも、憶えていてくれたなら
誰かひとりでも、この手で救って
あの時のように、笑ってくれていたなら
それだけで
よかったのに
それすらも
奪われたのに
白く染まった空間を見上げて、鏡は目を細めた。
歪んでいた本心は、誰かの声となって部屋を包んで、消えていく。
白く染められていく骸骨の顔は、もうじき消えるとわかる。
「――ならなおさら、恨み続けてほしくなかったよ」
どんなにどうしようもなくても。恨みたくて、現実そのものすらも嫌いたくても。
恨んで復讐しても、手に入れた未来で……大切な人が笑ってくれるわけがない。
「相手も望んでなかったと思う。あなたたちが恨むことも、囚われることも。大切な人を想うなら、なおさら……苦しみ続けてほしくないよ」
雫のように落ちて、光の中にあった緋色の魔石を白く染め上げて、砕け散っていく。
見上げ直したその時には、骸骨の顔はどこにもなかった。鏡の目の前で浮かぶ虹色に輝く魔石が、穏やかに空間を照らしている。
奏が戸惑いながら辺りを見回す中、鏡は咳き込み始めた御影へと急いで駆け寄る。
「終わったの……?」
「やめろ、それフラグ……って言いてえけど、そう信じてえな」
「けほっ……も、もう、魔術、消えてるよ……あ」
助け起こした御影が、鏡の後ろをぽかんとして見ている。つられて見やった鏡も、悠里たちも目を見開いた。
「あっ……」
「あの時の……!」
白い光が形作る、子供のシルエット。優しい微笑みを浮かべた子供が鏡たちを見据えているようだ。
『ありがとう。彼らを浄化できずに、この界をほとんど掌握されてしまっていた。あと少しで、二つの世界を融和させられるところだったんだ』
「じゃあ、ギリギリ間に合ったんだね……よかったぁ……って、そうじゃなくて! 声は取り返せなかったの!?」
「いや、なんで疎通できてんの……もう今さら驚かねえけど」
また、聞こえているのは自分だけということだろうか。
よくよく見ると口は動いても声は聞こえていないのだ。頭に直接響くような意思に戸惑っていると、子供がゆっくりと手を、虹色の魔石へと向けた。
『ううん、それが声≠ネんだ』
「これを、返せばいいの?」
子供が頷く。介たちが戸惑って、子供が何を言っているのか聞こえないと話していて、御影がひとり首を傾げていたようだ。彼女は聞こえていたらしい。
「音ってことなのに奏が聞こえてねえのに御影が聞こえてる……共通点は生命、か?」
「そうなのかも……音っていうより、穏やかな感じの歌声……みたいなのは聞こえるんですけど……」
「何も聞こえてねえのは俺らだけか……」
魔石をそっと手に取ると、ダイアモンドが魔石へと吸い込まれるように消えていって目を丸くした。子供へと還すと、顔もよく見えないその子は笑んだように感じられる。魔石も溶けるように消えていき、鏡は子供をただ見下ろすばかりだ。
「ありがとう。もう、動くだけの力も、残されていないんだ……」
「そんな……!」
「おお、やっと聞こえ……えっ、どういう展開」
あの怨念の塊たちがこの子の力を削り続けたせいだろうか。だとしたら、このままでは現実世界とこの世界の衝突は止められないのか?
目を見開く鏡へと、子供が「大丈夫」と声をかけてきた。
「君たちを、元の世界に戻すことはできる……。君たちの世界に溢れた魔力を、もう一度この世界に戻すだけの力は、あるんだ。その時に君たちを、元の世界に帰すことができる」
どうしたのだろう。子供は少しずつ笑みを失くしていく。
「ただ、この世界で起きた出来事全部、忘れてもらわなくちゃいけない」
――え?
「わ、忘れるって……どういうこと?」
戸惑ったのは奏だけではない。悠里も苦い顔になり介も顔色を変えていた。
御影も。鏡も。
「……予想はしてたが……」
「それって、ここで掴んだ関係も全部リセットされるってこと……!?」
「君たちが魔術を使ってきたことで、今ここにいる君たちの意識そのものも、魔力を持っている……」
海理たちが探し出してくれた文献の中の文章が頭をよぎった。
『反徒の種』は、魔力の流れの先にあるもう一つの世界に干渉を始めます。その世界の人々をイドラ・オルムに迷い込ませ、世界と世界を衝突させるための、綱の役割を与えたのです。
その為に、その世界に流れ込んでいた魔力を石に宿し、輝石とすることで、自分の意識の影響を受けやすくさせました。輝石を使ってイドラ・オルムに意識を飛ばし、魔力に浸りきったゲートという存在に仕立て上げ、どちらの世界も壊し、二つの世界が持つ異なる要素を混じり合わせていきます。
「このままじゃ、元の世界に戻っても、この世界と君たちの世界はまた引き合うようになってしまうんだ」
「そんなのって……!」
みんなでここまで来れたのに。
帰って、何事もなかったように生きろというのか? 自分が変われたきっかけもなかったことにして、全て最初からやり直しで、出会えるはずのなかった人々は、出会わなかったことにして……!
「これで、俺らがやってきたこと全部おじゃんになるってことか……」
そんなのって……!
「……それでも、君たちなら……」
「え?」
御影が尋ね返して、子供が俯いていた顔を上げている。
「君たちなら、もしかしたら……ううん。ぼくのような立場のものが、不確定な言葉を口にすべきじゃないね」
このまま、終わらなければいけないのだろうか。
ほかに方法がないなんて、どうにもできないなんて、そんなの悲しいなんてものじゃない。
ここまで一緒に来れたみんなのことを忘れるなんて――
「……仮にあなたたちが忘れてしまっても、私が覚えています。あなたたちと過ごした日々を、遺跡に潜ったことを」
優しく笑むエルデを、初めて見た。
言葉を詰まらせる御影と奏へと、彼女は微笑んでいる。
「それに前向きに考えてください。一度結んだ縁は切れにくいんです。たとえ、切れても結び直しやすいんですよ。ここでの経験の全てがリセットされるわけではない、と」
「でも……もう会えなくなるのに……エルデさんたちのことまで忘れちゃうなんて……」
御影が泣きそうな顔で子供を見つめる。
「本当に……忘れるしか、ないんですか? ここで、みんなで一緒に頑張ってきたこと、全部なかったことになるなんて、そんなの……!」
「――ぼくが力を取り戻しきらなければ、君たちの世界に溢れている魔力をこの世界に戻すことも叶わない。君たちがこの世界にいた時の記憶が、その間にこの世界と君たちの世界をさらに強く結びつけてしまう……そうなってしまうと、力を取り戻しても、君たちの世界もこの世界も、消えてしまうかもしれないんだ」
「けど、こっちに残るにしても、結局結末は変わらねえ……詰みだな……」
詰み。
奏の拳が固まっていく。子供を見据える目が潤んでいる。
「完全に消えるの? 私たちの記憶」
「……うん。今は。もしかしたらいつか、君たちから完全に魔力がなくなった時、記憶を取り戻せるかもしれない。夢と思うかもしれない。空想と思うかもしれないけれど、いつか……」
「で、でも……思い出せる可能性も、もう一度縁を結べる可能性も……結びやすくなる可能性もあるんだよね!?」
子供が頷いた。
目を見開く鏡へと、子供は寂しそうに笑んだ気がした。
「ぼくは、そこまで介入はできないけれど……記憶として覚えていなくても、君たちなら逢える。そう思うんだ。君たちのもとにダイアモンドが現れたから」
えっ?
目を丸くした鏡へ大丈夫と声をかけてくる子供が、優しく笑んで頷いた気がした。
「一つ確かめたいことがある。ゲートや魔物になった人たちは帰れるのか? それに……この世界で死んだ人たちは、どうなるんだい?」
あっと、鏡は目を見開いた。
きっと介が言いたいのは、彰吾たちや神崎たちのことだろうとわかったのだ。そして何より、エレヴィアという介の大切な人の。
「自我をまだ持っているゲートなら、帰してあげられる。けれど、魔物になって、自分の心を失くした人々は助けられない。死んだ人も同様に。元の世界に帰しても、体まで死ぬだけだから……魔物になった人と、この世界で死んだ人は、この世界で魔力の流れの一つとなって、完全に消える」
「……そうか。結局……火澄を見送ることはできなかったか……」
ファルチェの手には、今まで見てきたものよりもずっとずっと大きな、闇属性の一つの魔石。
「こっちで、埋葬……するものもないが。墓くらいは作ってやらないと……だな」
片手でやっと持てるほど大きなそれを抱えるファルチェに、鏡は目を伏せた。
「……あともう一つ。現実世界で死んで、この世界に留まっている人たちは?」
介は、凄いと思う。
鏡も悠里も、御影も奏も、自分たちの記憶がなくなることを受け止めることすらまだ、半分もできていない。なのに彼は、他の人やこの後どうなるのかまで考えている。
いつも決意をさっさと済ませて、今までなら薄情だと思っていたけれど……
本当に薄情なら、あんなに声を低くしないだろう。言いたいことを堪えるような、作ったような声音を保とうとしないだろう。
「彼らは、もうこの世界の住人になっているんだ。――彼らをもとの世界に帰してあげることは、できない。帰してしまったら、ゲートとして、君たちの世界にまた不和を招いてしまうから」
奏の手が悠里の手を握っていた。黙って握り返す彼の顔を見ずに、奏はじっと前を見据えている。
「絶対思い出して、探しに行きますから」
「そりゃ俺のセリフ。絶対思い出して、見つけ出して、もう一回やり直そうぜ?」
「うん……」
悠里の、奏を撫でる手が震えていても。奏の声が震えていても。
二人とも、前を向いている。
自分は御影とは、元の幼馴染に戻るだけだ。けれど悠里たちは、全く会ったこともない赤の他人からに戻ってしまう。
「三日ほど休まないと、全員を帰せないんだ。それまで、この世界で別れを済ませてほしい」
「三日……しかないんだ……」
「三日もありゃ、決意固めるには十分だろ」
そう言って悠里が見やる先は、介だった。彼はそっと中空を振り仰いで苦笑いを浮かべ、一同を見渡している。
「そうだね――三日で十分だ。整理つけて……思い切り騒ごうか」
言葉の壁も抱えて、どこで出会えるかもわからない相手と知り合った事実から忘れることになってもなお、彼は笑んでいる。
みんな同じなんだ。一度忘れて、出会えるかどうかもわからないのは。
忘れたくない。
本心だ。エゴだ。けれどその先で結局誰も幸せにならないのはわかっている。自分であのどろどろたちに言ったのだから、違えない。
僕も乗り越えていこう。
鏡はなんとか口を結んで笑みを浮かべ、頷いた。
「うん。わかった」
優しい笑みが、子供の口に浮かんでいる。
「出口まで送るよ。本当にありがとう――」
白い空間が眩しさを増し、鏡はぎゅっと目を閉じた。治まっていく光の量にほっとして目を開け、鏡はぽかんとする。
祠の前の道。
振り返ると、内部に魔石の台座を抱いた古びた祠が、優しく落とされる木漏れ日の中に佇んでいる。
なんだか夢みたいだ。手元から消えたダイアモンドの輝石と、ファルチェの手に遺された神崎の魔石がなければ。
――夢であってほしいと望んでいた一年前に想像できただろうか。夢で終わってほしくないと願う自分たちが今いることを。
鏡たちをじっと見つめていたファルチェが、微かに笑んで真剣な顔つきへと戻した。
「三日しかないなら、一つ頼みがある。――本気でオレと戦ってほしい。オレの……いや、オレたちのけじめとして」