『さーせん用事あったんだけどまた今度来るわ! ハーゲン苺と焼きりんごパンごっそさーん☆ 千理』
これは怒るよ……というか、凄いお兄さん。
……千理……なんだろう。先ほどから引っかかりが強い。大和の目が生暖かく細められている。
「寮なのにどうやって入ったんだ……! 鍵かけてたのに!!」
「……どんまい」
片手でメモ帳をぐしゃぐしゃに潰す万理。先ほどまで穏やかに話していた、人懐っこそうな人柄を行方不明にしたようだ。申し訳なさそうな彼は、まっすぐ道を示している。
「ごめん、この道をまっすぐ行けば人体構造学の教室がある棟なんだ。本当なら安い学食の場所とか後で教えたかったんだけど……」
もしかしなくとも、今から兄に怒りに行くのだろうか。それは本人の自由だけれど……授業間に合うんだろうか。
万理が考え込んでいて口を挟みづらい鏡は、ふと顔を上げた彼に目を瞬かせる。
「よかったら二人とも、差し支えなかったら連絡先教えてもらってもいいかな? 一応僕二回生だし、ある程度授業の話とかできると思うから。千理兄さんちょっとぶちのめしてこないと、落ち着いて講義聞けそうにないんだ」
「え、えと……はいっ」
「構いませんよ。なんなら、ぶちのめすの手伝いますよ?」
万理さん、強いんだ……。
頭をよぎるバカ兄や悠里と同じぐらいだったら、この上なく気まずいけれど、どうにも武道をやっている体にしてはあまり鍛えられた感のない線の細さだ。少々首を捻るも、武道でも鍛えていたとしても、体に見えにくい人も中にはいる。彼もそのタイプなのだろう。
「あ、敬語とか気にしないで。僕も最初からこんな感じだし。それに白波瀬くんも鏡くんも――二人とも武道経験者みたいだけど、僕の兄すばしこいから……白波瀬くん、そういう人得意じゃなかったら苛々すると思うよ……?」
初見で経験を見抜かれるなんて思わず、鏡は乾いた笑いが浮かぶ。隣の大和は何食わぬ顔で肩を竦めていた。
「知ってるよ。その相手に
「魔神って……」
「え、知ってるって、兄のこと知ってるの!?」
あれ、本当だ。大和はどうして万理の兄弟を知っているのだろう。
おかしそうに笑む大和は、目を丸くしている万理を見る目が、どこか懐かしそうだ。
「うーん、突飛な話だけど、ちっちゃくてすばしっこいバカと兄ぶりたがる魔神……かな?」
「……せ、千理兄さんのことも海理兄さんのことも知ってるって、こと……? どういうこと? うちの店に来たことがあるの?」
「確か弁当屋だっけ? 僕も京都出身だけど、弁当屋にはあまりお世話になったことはないかなぁ」
なんだろう、大和の言葉に引っかかる。万理が挙げた兄弟の名前も、聞き慣れないはずなのに耳がすんなり受け入れる。
「うん、弁当屋……い、いったいどこで会ったの……? 海理兄さんなんて、僕が小さい頃に亡くなってるんだけど」
困惑する万理へと、大和は複雑そうに苦笑いを浮かべた。
「さぁ……言っても信じられないほど突飛な話だからね」
「どういうこと……?」
「門が開かない限りは秘密……かな?」
門――?
スマホがバイブを鳴らす。驚いた鏡は慌ててポケットから取り出し、二人に断ってSNSを見てぽかんとした。
御影からだ。鏡が高校を卒業した時、会いに来てくれた以来の連絡だけれど、どうしたのだろう――
『Die moisten Liebe in der Welt』
『鏡くんがちょっと前に言ってくれたこれ、意味見つけました』
『まだ思い出してないかもしれないけど、ありがとう。私もだよ』
Die moisten Liebe in der Welt――?
ドイツ語だとすぐにわかった。けれどそんな言葉、言った覚えがない――。
なんでそんなことしたの!? 大切なものなんでしょ!?
よかった……! もうあんなこと、しないで……!
……御影。えっと、今更言うのもすっごく恥ずかしいし、また勘違いされるんじゃないかって、実は今すごく怖いんだけど……
ずっと前から、好きでした
ずっと、鏡くんといる時に一番ほっとするの。一緒にいたい、の……鏡くんの力になりたいって、思えるの
私も鏡くんのこと、好き……
大好き……
Die meisten Liebe in der Welt
え? い、今の英語じゃない、よね?
約束したら、会えそうな気が、するね
そうだね。じゃあ……僕はちゃんと御影に告白し直すところから……かな?
じゃ、じゃあ……わ、私が先に、い、言う、もん……!
うん、待ってる。そのためには、絶対思い出さなきゃ……だね
うんっ!
……。
う、わ……!
あの約束から何ヶ月経った? 九ヶ月はすぎたはずだ。
しかもこの間、高校の卒業式の日、御影はなんて言ってた?
鏡くん、大好きだよ
うわあああああああああああ!!
もしかしなくても友愛の意味じゃなかったの!? 御影先に思い出してたの!?
なんで誰も教えてくれなかったの!!
絶句する鏡は、隣で笑いを堪えている大和を睨みつける。大和は何に気づいたのか、いつもの穏やかな笑みを貼り付け直して見やってきた。
「なんだ、鏡くんやっと思い出したの?」
「や、大和くん趣味悪……!」
「今さらだよ。うちのリーダーが誰だったか、忘れた?」
くすくすと笑う大和の確信犯だと認める自白に、鏡は顔が真っ赤になる。
入学式の前から思い出して、それで接触して仲良くなってくれたに違いない。東京の医大に行く気でいる話は、二人で医学について語った時に聞いた気がする。
あの時自分はなんて言った?「同じ進路だからいつか会えるかな」? 新しい友達に心浮かれて楽しみにしていた自分に顔から火が出そうだ。
その友達から、経過観察された挙げ句に楽しまれていただと。
困惑する万理をはっと見上げる。彼の苗字も思い出して恥ずかしくなった。
間違いなく海理と千理の弟だとわかったのだ。むしろどうして、あのインパクトのある兄弟の苗字を忘れていたのだろう。
海理からも向こうの世界から見守られていた気になってくる。生暖かい顔をされてそうだ。恥ずかしい。つらい。
「門……? 思い出したって、何が?」
「……これ、相当信じられる話じゃないよ? ほら、行っておいでよ、彼女のところ」
大和から背中を押され、鏡はうっと身を固める。まだ腑に落ちないらしい万理も、自分の質問を脇に置いたのか、優しく鏡を見下ろしてきた。
……兄二人は自分と変わらない背か、小さかったのに、にょっきりと高い万理を一瞬でも恨んで自己嫌悪する。
「もしかして彼女さんからの連絡? 行ってらっしゃい、講義のノート、後で渡すよ」
「あれ? すばしっこいバカのほうはいいの?」
「うん。友達のノートとバカへの一発なら、どっちが大事かなんて明白だから」
万理さん……!
たった数分だけの会話なのに、優しく言ってくれる海理の弟に感動する。大和が懐かしそうに目を細めて笑った。
「そういうところ、だよね……ほら、行っておいでよ」
「あ、ありがとう……い、行ってくる!!」
真っ赤になったままの顔で慌てて頷く。
急いで走って、御影にメールで今すぐ会えないか尋ねる。返事はすぐに了承を載せて返ってきた。
こんな時にマラカイトがあれば、魔術で足を速めて、十分もしないうちに御影が通う専門学校に着くのに……!
御影は、待ち合わせ場所の専門学校の学生寮入り口で待ってくれていた。
全力で走りすぎて息も絶え絶えの鏡を、普段おっとりとした目を驚きに見開いた御影が出迎えてくれる。慌てて走ってくる彼女に申し訳なさが芽生えた。
「ご、ごめんね……いきなり、呼んだりして……!」
「う、ううん、大丈夫……鏡くん大丈夫? 息上がっちゃってる……」
「大丈夫……! 折角鍛えたのに、全部リセットされてるのが、ここまでつらいなんて……!」
ぽかんとしたらしい御影へと、屈めていた体をなんとか起こす。優しく笑んでいる御影に、鏡は照れ笑いを浮かべた。
「もう、無理しちゃだめだよ? ――思い出してくれたんだね」
「うん――遅くなって、ごめん」
「……鏡くん」
抱きしめてくる温もりを、迷わず抱きしめ返す。嬉しそうな声が耳元で響いた。
「お帰りなさいっ」
「――ただいま!」
こんな出来事、きっとみんな空想だと思うだろう。
でも、あそこに行った人たちはみんな覚えている。今の間だけ、忘れているだけで。
ここではないどこかで、隣り合っているけれど触れられない、門を
悠里たちが思い出すまで、僕たちも黙っていよう。
門が開いた時、また同じ場所でみんな集まれると信じているから。
ほら
また、扉が開く音が、そこから聞こえる――
境界融和世界の
完