二階の一室は狭く、男が二人そこにいた。
一人は厳つい体躯の、中年頃の男性だ。ヨーロッパの出身を思わせるすっと整った鼻筋と青い目。髪色も金に近い明るい茶髪で、少し刻まれたしわから三十代から四十代だろうと推測できた。
だがもう一人を見やった途端、相手から絶句されて介は怪訝な顔になる。
「神田……!? 彰吾、なんでこいつを連れてきた!」
「は? お前ら知り合いか?」
彰吾が驚いて薄茶髪の男と介を見比べてきたも、介は顔をしかめたまま黙考する。
顔は整っているほうだ。恐らく日本人だとは思うけれど、あんな顔の男が自分の近くにいただろうか。覚えがない。
黒と灰色のモノトーン構成で、スカイジャケットを自分のベッドに放り投げたまま寝転がっていたその男は、介の怪訝そうな顔を思いっきり嫌そうな目で睨みつけた。
「知り合いも何も、小中高全部一緒だ! そいつだけは勘弁ならない!!」
「へえ、幼馴染なのか! よかったな、知り合いに会え」
「どちら様ですか? 全く身に覚えがありませんが」
部屋に氷河期がやってきた。中年の男が目を見開いて、まるで昼のサスペンスドラマを見守る中年女性のような表情で沈黙している。
隣のベッドで体を起こしていた薄茶髪の男の拳が震えた。
「神崎だ……っ! 何故覚えてない!!」
「……覚えてません。小中高……失礼ですが同じクラスになったことありますか?」
「あるから吠えているんだろうが!! お前と殴り合いの喧嘩をしたせいでクラスから孤立した上にキモオタと学生時代呼ばれ続けたわ!!」
殴り合いの喧嘩……なんだかした気はするけれど、どちらかというと一方的に殴られそうになったから足払いをしていなして避けた覚えしかない。
というかそういうのを殴り合いの喧嘩と言うなら、学校外でも嫌と言うほど吹っかけられたのだけれど。
「……すみませんが覚えてません。アルバムも全部実家に置いてきたので確かめようもありませんし」
「ふざけるなよ!! お前のせいでオレのレッテルは――!」
「お、落ち着け神崎っ! よく言うだろう、踏まれた奴は痛みを覚えてるけど踏んだ奴は忘れるって!」
まるで自分がその男の足を踏んだような言い草に、介は露骨に苛立ちを顔に載せた。
「それにお前
「は? そんなものはない」
「その絶対的自信でもの言ったら、だいたい間違ってたよな? お前」
彰吾が呆れ果てた顔で釘を刺した。ちらりと介を見やる目に、介は思わず困惑する。
まるで心配する兄のような目だったのだ。
「それに、踏まれた痛みは大抵の奴が覚えてるけど、痛みに慣れた奴は骨折したって気づかないからな」
何が言いたいのだろう。
神崎が苛立ちを顔に残したまま、ふんと鼻を鳴らして顔を背けた。参ったなと言いたそうな彰吾が頭を掻いていて、介はただ黙って成り行きを見守った。
やがて中年の男性がふうと溜息を漏らし、彰吾を見やった。
「彰吾はもう少し、纏め方を学んだほうがいいな」
「だよなあ……いつも悪いな、カルフ」
「いや。気にしているわけではない。見ていて面白いからな」
愉快犯を自称するような言葉にも、彰吾は笑って返していた。すぐに神崎と介を見やる彰吾は、うんと頷いている。
「じゃあ、部屋分けるか。カルフ、神崎、それでいいか?」
「ああ、私は構わないぞ」
「はあ!? まさかそいつを引き入れる気か!?」
「そうじゃなきゃここまで連れ帰ってこないぞ?」
「断固拒否だ!! それならオレは抜ける!!」
「そう言うけどお前散財肌だろ。もう小遣いカツカツなんじゃないのかー? ぶっ」
にやにやと笑う彰吾に枕が飛んだ。呆気にとられる間もなく投げ返された枕が神崎の腹を撃ち抜いた。悶絶する男をげらげらと笑い飛ばして指を差す彰吾に絶句する介だが、カルフが近づいてきてはっとする。
手を差し出され、恐る恐る握手を交わす。
「やかましい面々だが、悪い連中ではない。カルフ・マークスマンだ。よろしく頼む」
「か、神田介です。……よろしくお願いします。あの、引き入れるという話ですが……おれ、冒険者一択なんですか……」
「うん? ……彰吾、ちゃんと説明したのか?」
「ははははっ! ん? ああ、今からする!」
神崎を笑い飛ばした彰吾の、すっきりしたいい笑顔を向けられ、介の表情が完全に消え失せた。カルフがだろうなと言いたそうに彰吾を見下ろして、介を見やると軽く頭を下げてくる。
「バカが何も言っておらず申し訳ない」
「カルフ!?」
「神崎。駄々をこねるようなら神田くんと同じ部屋になってもらうぞ」
「対価が見合ってないぞ! どう転んでもパーティに加える気なのにどうしてオレが全部我慢しなきゃならない!」
「これから我慢するのはむしろ神田くんのほうだろ……神田と神崎じゃ呼びづらいな。なあ、介って呼んでいいか?」
「え、はあ。どうぞご自由に……」
「ありがとな。それじゃあ俺女将さんに話通してくるなー」
「彰吾聞けえええええ!!」
耳を塞ぎながら、介は彰吾を見送った。げらげらと笑い飛ばす男が、廊下に出た瞬間女性から頭を叩かれた挙句にバカにされている姿も見送った。
閉められた扉に遅れて投げられた枕が飛び、ドアの足元を直撃して沈黙している。
拳を震わせる神崎に、カルフが呆れた顔で
やかましい人たちだなあ。
失敗した。そう痛感したのは、部屋を分けるという一言の意味を自分が測りかねていたことが全ての原因だった。
「よし、これで全部移動させきったか」
「あの」
「ん? 質問か? もうちょっと待ってくれな」
「そうじゃなくて、おれ独りで寝れます」
なんでこの男と相部屋にならなければならないのか、本気でそこが嫌だった。彰吾はぽかんとして、介に手を振ってないないと言いたそうにしている。
あの手首を折りたい。
「お前の部屋代浮かせてもらってるって言っても、部屋一つ借りるとなると話は別になるんだ。だからみんな相部屋にしてたんだよ。まあ、元々三人であの部屋は狭かったからな。久しぶりのベッドだなー」
「久しぶりって、あの二人はベッドで寝て……」
はっとした。嬉しそうな彰吾は、けらけらと笑うと、人差し指をそっと口に当てている。
「言うなよ。それでいいって言ったのは俺なんだ。あ、床で寝るって言ってもちゃんと布団借りてたぞ。あと畳の小さい奴。この世界で生活してるとな、元の世界で暮らしていた当たり前の保証って言うのがほとんどないんだ。だから少しでも互いに助けるために、多少の無理は言いっこなしなんだよ」
それは、ゆっくり休むための空間ですら自分に与えないほどなのか?
そんな生活をする必要がどこにあるのか、介にはよくわからない。会社の寮で暮らしている時だって、独りの空間を持つことを許された。なのに彰吾はそれを自分からなくていいと言うなんて。
「さあて、聞きたいこと色々あるだろ。もしないならこの世界でお前がやれそうなことをある程度目星つけたいけど……それは明日でいいか。何から聞きたい?」
この人は、自分がやってきたことを他人に知られなくてもいいと思っているのだろうか。
きっと自分の思うような理由ではない。他人と関わる機会がまた増えるからとか、そういうものではないとわかる。
「……昼間火の柱がいきなり立って、消えていましたが、あれはいったいなんなのですか?」
「あれは魔術だな。ここが異世界って話は夕方、ここに着くまでにしただろう? 輝石っていう俺たちの命綱は、俺たちがこの世界に順応できるようにしてくれてるみたいなんだ。同時に、俺たちにこの世界にある魔力への適性も高めてくれている。そうだな……ちょっと見せてやるか」
彰吾はおもむろに立ち上がると、旅装らしい鞄の脇に吊るされていたランタンを持ってきた。テーブルの前の椅子に腰かける介にそれを持たせる。
冷え切った小さな灯台は、内に灯すはずの温かさをまだ与えられておらず、沈黙している。あの深い赤色の石を手に、彰吾はランタンを軽く撫でた。
「中を見てろよ。――開け幻門。我が門は火。カーネリアンの輝石を
ランタンの
「みんなこうしてやって見せると、そういう顔してくれるんだ。わかっただろ? 何もないところからでも力を取り出して使えるように、お前もなっているんだ。明日輝石の属性を確かめに行く。気をつけておいてくれ、絶対に他人に輝石を取られたり、触られたり、使わせてもだめだからな」
「昼間も仰っていましたが、なぜですか?」
「……自分にも使った相手にも、いいことなんて絶対にないからだよ」
「それとだ、輝石については絶対に属性を知っておいたほうがいい。使える属性に対しては幾分か無理が効く。ただ、相性の悪い属性で魔術を使う機会があれば危険だからな。まず魔術を使わない生活はこの世界にはありえない。大なり小なり使う機会があるから、俺たちと一緒に冒険者をやるにしろ、街で働くにしろ、今のうちに教えていくよ」
「……おれは赤の他人ですよ」
彰吾の顔色が変わった。介はランタンを見つめたまま、戸惑う自分の表情が映るガラスを見つめる。
「そんな手のかかるようなことをする義務は、来栖さんにはありません」
「義務がないからやらないのか?」
鋭い声音だった。驚いて顔を上げる介に、彰吾の目が怒っている。
「責任がないから放っておけって? バカ言うなよ。そんな生き方してもさせてもたまるか」
「……は……?」
「お前が奏と同じタイプの人間だって言うのはよくわかったよ。絶対考え方ねじり変えてやるからな」
見ず知らずの他人と、同類だと言われた。
ピラフもらってくると、彰吾は素っ気なく伝えて出ていってしまった。介は呆然と男が去った後も、煌々と燃え続ける灯火を見つめる。
消し方は、知っている。
なのに消せなかった。
ピラフを持ってくる頃には、彰吾はまるで先ほどの出来事を忘れたようにご機嫌だった。介が戸惑って身を引きたくなるほど、彼の一喜一憂はとても大きい。ピラフを美味しそうに平らげる姿はさながら子供のようで、介よりも二つ上だとは感じられない。
ついでに介の営業口調は堅っ苦しいから嫌だと、彰吾から言い渡された。他の話し方なんて忘れていた介は、とても困った。
ずっと黙っていた介に気にも留めず、彼は自分の言いたいことを次から次に言うのだ。
来栖という漢字で、読みが「くずみ」と言うのは珍しいってよく言われる。境途って碁盤の目みたいな街並みで現実世界の京都みたいだよな。はたまた、神田って苗字、神田川から来てるのか――介からすればどうでもいいことばかり。
端くれとはいえ、営業をやっている介からすれば、まさしく相手にするのが面倒臭い先方に感じられて、早速距離を置きたくて仕方がなかった。あの神崎という、自称同級生が吠えていた気持ちに少しだけ同情する。
その間にも、彰吾は自分のペースで言いたいことをどんどんと言っていく。
きっと、昔から周りに聞き上手が多かったのだろう。自分の意見を素直に聞いてもらえていたのだろう。話し方、聞き方に人柄はよく現れるものだ。よく喋る様子から見るに、一人っ子ではなさそうだ。恐らくきょうだいがいるのだろう。
「――でな、下にいた他の連中がお前のこと知りたがってたよ。早速引き抜きが始まりそうだったからなー、『もう俺のチームに入れたからな』って言ったら、みんな笑って『苦労するぞ』って言ってきてさ。酷いと思うだろー」
「はあ……」
苦労するのか。まあ興味はない。一人で生活できるだけの力が身につけば、後はどうということは考えていなかった。
「そういえば、お前の『たすく』って字、どういう字なんだ? 珍しい名前だよな。下のみんなとも話してたんだけど」
問われて、介はスマホを取り出して入力してみせた。画面を大きくして彰吾に見せると、目を丸くされる。
「へえ、介護の介の字で『たすく』って読むのか。面白いな」
「……そうですね。介護って言われたのは初めてですけど」
「お、そうなのか。普段はなんて言われてたんだ?」
「……業界の界の字の下。おれもそのほうが説明しやすいので、そう言っています」
「ははあ、それ会社での説明だな。さてはお前、学校じゃ下の名前なるべくバレないようにしていただろ」
にやりと笑う彰吾に、介は目を丸くした。
これだけ自分のペースで話す人だというのに、まさか見抜かれるだなんて。
「当たりだな。いい字なのに勿体ないなー」
「……どこがですか」
「介って字は助けるって意味だろ? 人を助けるとか、
「……別に」
スプーンを握る手がきつく固められる。彰吾がそれを見てか顔色を変えた。
「……なんだ? どうした?」
「名前に興味を持ったことはありません。だいたい、そういう親の期待みたいなもの、一々負う気もない」
「な、何言ってるんだ? 親が一番にお前に与えてくれたプレゼントだろ、名前って……親御さんと何かあったのか?」
「関係ありません。少なくともあなたに言う必要のないことだと思います」
「お前――っ!」
「プライバシーの侵害です。ご馳走様でした」
ピラフを食べ上げて、食器を持って行くべく下に降りようと立ち上がる。だが腕をきつく掴まれて、介は強張りかけた体をなんとか動かして、彰吾の手を払いのけた。
「あなたが良かれと思って動かなくても、おれは自分でできることは自分でします。助けていただいた恩もこうしてお世話頂いていることも感謝していますが、プライバシーまで踏み込む必要はありません」
「そうやって他人を斬り捨てて生きてきたってのか、お前」
目の色を変える彰吾に、介は微かに身が強張った。持ち前の虚勢で睨み返すも、彰吾が苛立たしげに溜息を溢す。
「なるほどな。神崎の足も知らずに踏めたわけだ」
「――は?」
「覚悟しろよ。この世界じゃそんな生き方もできない。現実世界みたいな薄っぺらい繋がりで生きていける世界じゃないんだ。お前のその独りになろうとする生き方これ以上させてたまるか」
信じられなかった。耳を疑って、困惑して。何を言われたのかさっぱり頭が理解できない。
彰吾の目が怒って、自分を睨み据えている。
「明日輝石屋に行った帰り、徹底的に魔術やこの世界について教えてやる。その後は一度俺たちのパーティと一緒に外で依頼だ」
「は?」
「決定事項。カルフたちにも通してくるからここでじっとしてろ」
食器を奪い取られ、介は固まった。言葉が出ない彼を振り返って、ひょいと入口傍の左側の扉を示している。
「そこトイレな」
「は? あ、はい」
「んで、風呂も一緒の場所な。洗面台もあるからシャワー浴びたかったら先入っとけ」
「は、はい。わかりま……」
いい笑顔で手を上げられた。微動だにしない介を気に留めずに扉を閉じられ、介は固まる。
あの人、なんなんだ……。