「――っ!」
呼吸が詰まりそうになる。目を開けて、震える呼吸のまま必死に喘ぐ。
仲間が倒れていく夢を、もう何度見ただろう。ここ最近は見なくなっていたのに。
酷い汗で湿った布団が寝苦しく、介は顔をしかめて起き上がった。ぱたりと力なく落ちる白いハンカチに、介は目を丸くする。途端に冷えたのは、額だった。
誰かが、置いてくれたのだろうか。……いや、こんな繊細なレースを効かせたハンカチ、一人しか思い当たらない。
ベッド横の小さな棚に置いていた輝石へと手を伸ばそうとして、介ははっとした。
ラリマーが
「……こんなに、濁っていたのか……」
――待った。濁っていたなら、どうして現実世界に帰れなかった?
彰吾たちが言っていたではないか。輝石を酷く消耗すると、夢の中で現実世界に帰れていると。
帰れたはずではないのか? 憶えてないだけなんて、そんなわけない。
なのに、どうして戻れなかったのだろう。そういえば、エレヴィアに残念なナンパ男が絡んで術を使った後も、現実世界には帰れなかった。
まさか、自分の現実世界の体は、死んでいるのだろうか。
帰りたいと強く願ったことはない。けれど彰吾たちが帰りたいと望んでいるのに、そんなことを言う気がなかっただけなのだ。
彰吾たちが帰りたいなら、自分がそれを支えたいと思っただけで……。
エレヴィアたちも帰りたいと願っているからこそ、戦う道を選んだのだろうか。
彼女たちだけでも帰せるだろうか。もうあの世界で自分は生きていないのだろうけれど、皆の帰りを待つ人々の下に、早く彼女たちを帰したい。
それが叶わなくなる前に。
「おはよう……」
「おはよう」
寝不足は二度寝で見事に取り払えた。この世界に来てからというもの、二度寝に慣れたなあとつくづく感じる。テーブルを囲んで真剣な目で会話をしているのはカミナことカミシナと、アルさんことアルバーノだ。その隣で千聖は、ご機嫌に黄色い液体がかかった白米を平らげている。
エレヴィアは千聖の脇に積み上げられた卵の殻を見て、呆れていたらしい顔を介へと向け直していた。介は呆気にとられて、自分の席に置かれるご飯と、生卵に目をやる。
「本当にTKG……エレヴィア、ハンカチありがとう」
「気にしないで。それよりも、大丈夫なの? その、昨日顔色悪かったし……」
気にかけてくれているのだろうか。微かに
「もう大丈夫だよ。輝石も戻ったし、体調に支障はない」
「そう? それならいいけど、あんまり無理するんじゃないわよ?」
「ありがとう。倒れるようなヘマはしないよ」
今朝のことを話すわけにもいかない。笑みを見せるも、エレヴィアの表情は綺麗に晴れてくれなかった。
――取り繕い方まで、境途で忘れ去ってしまったようだ。つくづく、あの人たちには変えさせられたのだなとわかる。
「大丈夫って言い聞かせて、倒れたなんてバカみたいなことはしないでよね」
踏まれた痛みは大抵の奴が覚えてるけど、痛みに慣れた奴は骨折したって気づかないからな
似たようなこと言われたな。前にも、あの人に。なのにまた、こうして人に心配をかけてしまっているなんて、情けない。
もうあの人たちはいないのに――
いるはずないよな
お前のせいで死んだんだ
お前が生きている限り、お前の周囲にいる奴は狙われ続けるぞ
介はなんとか笑みを浮かべて、首を振ってみせた。声≠振り払いたくて仕方がない。
「……それだけは、絶対にしないよ」
エレヴィアを見て首を振ったはずなのに、視界の中に彼女の顔が映らなくなっている。
「ほんとでしょうね?」
「……ああ。よく、怒られてきたからね。もうそんなことはできないよ」
「それならいいけど。つらいなら絶対言いなさいよ? いいわね?」
一瞬、言われた意味がわからなかった。
やがてその意味がわかって、合っているか自信がないまま、頭半分に頷く。
「……あ、ああ。わかった」
手を、差し伸べてくれたのだろうか。
朝食と言う名の卵かけご飯を食べるよう勧められて、あまり食欲がなかった介は、食べやすい食事に安堵した。食事を作れるか否かの話を数日振りにしたが、しかしまあ出会う人仲間になる人、皆から残念そうな目で呆れられてしまう。
しかし介はサラダさえ食べられれば十分だと思っていたのだ。その結果は、栄養管理ができていないからもやしなのだとエレヴィアに言われたし、千聖からは「お昼ご飯、もやし炒め?」ととどめを刺されることとなった。
エレヴィアに呆れた様子で溜息をつかれてしまい、介は卵かけご飯を咀嚼していた口を空にして、首を捻る。
「それに今は、美味しく作ってくれてる人の料理があるのに、作りたいって思わないよ。エレヴィアやアルさんの料理の味好きなのに」
一瞬顔を赤くしたエレヴィアの目が一気に気力を失くした。
……何があった。また怒らせたか。またビンタ……は、なさそうだ。
「まー、やっぱそーなるっスよねー……」
「そうなるって、あの狼の対策か?」
ちゃぶ台にぐったりと伸び上がる青年……だろうと思う男が、アイスブルーの目をこちらへと向けて、見上げて頷いた。カミシナと話していたアルバーノが、神妙な顔になっている。
「まぁなぁ。昨日から気になってたんだが、あの狼ども以外、あの森だとかこの町の外に動物が少なかったろ? それが気になってな」
「柵を囲う必要がなかったから、柵が壊れたままになってたって考えっスよ。んで、あの狼どもは餌求めてここまで降りてきたってとこっスね。人間襲ってないだけまだ救いっスよ、家畜が相当やられてたっスけど」
なるほど。元々修繕費用がないだけで、あの壊れた柵を放置していたというわけではなさそうだ。昨日の会話でそのことも懸念していたのだが、害たる獣が少ないために、その危機管理意識も薄れたのだろう。
「……けど、家畜だけじゃ満足できなくて、逃げ惑う人にも目を向けようとしたか……魔術に反応していたところを見ると、ただの獣というより、魔物の線もあるよ」
「魔物に変異しかけてるってのはあると思うっスよ。ただ、昨日の段階じゃまだただの動物だったっス。なんにせよ、あの洞窟にこっちから入ったら袋叩き不可避っスからねー。向こうさんからこっちに来てもらってなおかつ分断させるが吉なんスけど、狼は基本群れ行動っスから」
群れ行動。かつ分断。
狼は基本夜行性のはずだ。種によって差はあるだろうが、群れの行動を分断してしまうならこのほうが早い。
そして群れの規模は……基本狼の狩りは、オスが行う。子供を身ごもる季節であれば、狼のイメージでは一夫多妻ではないだろう。つがいのはずだ。
ならば、あの洞窟の中に残っているだろう狼は、七頭、多くて十頭か。
そして魔物。もしこれらを退治するとしたら……
「分断なら、おれの氷の壁ならどうかな。手前の狼と奥の狼を分断するならそれで十分だ。奥を誘き出すなら……燻し出すのは? 獣なら、充満した煙は嫌がるはずだ。風のあるところに逃げてくれば、奥の狼もおれたちのところにくる」
自分の計略の立て方は、随分とあいつに染まっている気がする。
残酷だとか、そういう考えを必死に振り払って、今何をすれば最善を掴めるかを脳からひねり出す。
「氷の壁を一部溶かして、一匹ずつ仕留める構図にする。それで奥に逃げる狼は、背中に向けて術者組の魔術で追撃が、こっちの被害を抑えられると思う」
「その方法で、介は本当に大丈夫なんスか? 今もキツイのは変わってないはずっスよ」
気づかれていたようだ。確信を真実と疑わない声音に、介はしっかり頷く。
「大丈夫だよ。輝石の濁りは取れてる。厚みのある壁は出さないし、おれはサポートに徹する。魔術しかできない以上、無茶をして役立たずになる真似はしないよ」
「引く気はないんスね?」
「ない。――約束したからね。それに、相手の数を制限しながら戦うなら、おれの魔術ならなんとかできると思う。やれることをやらせてくれ」
カミシナが微かに眉根を寄せて沈黙した。アルバーノが穏やかに笑っている。
「いいんじゃねえの? 引く気は本気でないみたいだしなぁ」
「アルさん……わーったっスよ。それで行くっス。最終手段に取っときたかったんスけどね……」
介はほっと笑って頷いた。
「ありがとう」
「危険だと判断したらすぐ下がってもらうっス。戦えるようになってきたって言っても千聖とレヴィはまだ新人っスから」
「ああ、深追いはしない。最悪危険な時は、氷の壁で狼たちの追っ手を防ぐ気でいるよ」
「そーいうのが心配なんスけどねー……」
ぼそりと呟いたカミシナの言いたいことは見えたも、首を振った。
自分が無茶をする可能性があると言いたいのだろうが、今この辺りで戦える人間は限られている。無茶は絶対にしないし、自分がゲート化するような真似は……ここにいる人たちを傷つけるような真似だけは、絶対にしない。
「相手を
「昨日時点で奴らにやられたのは家畜と食料庫っス。いつ人間を食糧と見るかは時間の問題っスよ」
カミシナの指が、ぴんと二本伸ばされた。
「対策方法としては二つ。狼は強い奴に従うっスからオレらで
「
「大正解」
みじかく返すカミナは、恐らく自分の意見も待っているのだろう。アルバーノとの付き合いは長いようだから、きっと先に意見を煽って話を聞いたに違いない。
とすれば、後は介の考え次第か。
「……テイムはまず無理だ。魔物化しかけた動物なら……魔物が周囲にいておかしくないんだろう? だとしたら、そいつを叩いたとしても、危険に身を
「若いのがやる気出してんだし、やらねえわけにはいかねえでしょ」
「待ってアルさん、オレ年少組」
「……あ、そうだった。すっかり年上かなあって気でいたよ」
「日本国憲法とやらじゃ未成年っスよ! 一応成人してるっスけどね!」
そういえばそうだった。日本の成人年齢をよく知っているなあと介は舌を巻く。本人曰く、千聖や介以外にも、このイドラ・オルムにやってきた日本人からそういった知識はよく聞くのだそうだ。
そも、このイドラ・オルムは、日本に似た名前や風土を持っているからか日本人を見かける率が高い。必然なのかもしれないなと感じた。
少し吠えてすっきりしたのか、カミシナは冷静な自分にあっさり戻っていた。
「ま、その話は置いといて、っスよ。飢えてる狼の駆除っスね」
「巣がある奥に追い立てて、狼たちが逃げられない状態で倒すのがセオリーだ。けど、おれたちの今の状況じゃ、
正直、カミシナが言うように飼いならす道もあるだろう。
だが今は動物でも、群れの中に魔物化しかけているものが紛れ込んでいるのなら、その種が広がっていないとは言い難い。それを殲滅するとなると、最大十頭以上の獣を相手にするのだ。
――現状、今までで最大の戦いだろう。カミシナが前線にいる分安心はできるが、策としてはやはり、数頭ずつ相手にする形を取るべきだ。
最悪、実力を敵の目の前で見せつければ、なんとか優劣を察してくれないだろうか。
「おびき寄せるにしても不特定の個体数を相手に持久戦になりかねない。最初に言った通り、入口で網を張って、着実に特定個体数ずつ相手に出来る形が理想だと思う。それでいいかい?」
「っスね。おびき出すのはオレがやるっスよ。飢えてる相手に餌を
餌を撒くという言葉に、介は内心顔をしかめた。
表に出さずに、ただただ言葉を
「頼むよ。けど、君も無理はしないでくれ。数の制限はおれがやる。壁じゃなく網にすれば、魔力の消費も抑えられる」
餌を撒く、か。
囮という意味だとわかっていても、あまり聞こえはよくなかった。
「アンタたち異界の民より無理はしないっスよ。オレは魔石割るだけっスから」
昨日カミシナが尋ねた墓の主たちは、彼の昔の仲間だったのだろうか。だからこそその言葉が出たのではないかと考えるのは、自分の都合のいい早計だろうか。
「心強いよ。だからこそ、お互いにしっかり警戒していこう」
「お互いじゃなくて全員でしょ?」
「そうそう、仲間外れは寂しいもんだぜ?」
目を丸くしたのは介だった。
アルバーノがおかしそうに笑って言った言葉が、自分に向けられたものとは、わからなかったのだ。カミシナがぷっと吹き出して笑いを堪えていて、やっと介ははっとする。
「なんつー顔してんスか?」
「え? あ、いや……どんな顔してたのかさっぱりだけど……その、ありがとう」
「素直じゃないっスねー。とっくに仲間と思ってるっスよ」
「――もったいない、くらいだよ」
声が小さく掠れかける。それでもカミシナは耳ざとく聞き取ったのだろう。目を細めて笑っている。
「価値があるかどうかなんて決めるのはオレらっスよ。その価値があると少なくともオレは思ってるっス」
「だから心配もするし、援護もする。そういうことだよ、若人よ」
「価値……って、あの、おれ確かにアルさんからしたら若人ですけど……撫でられるほど子供じゃありませんっ」
頭を撫でられ、振りほどくわけにもいかず身を引いて逃げた介に、アルバーノは抑えた笑いを響かせる。
「お前さんあんまりこういうことされ慣れてないだろ?」
「な、慣れてはないです……けど……」
「行くなら行きましょう? 千聖が寝そうよ?」
よかった、有り難い助け舟だ。介は転寝をしている千聖に目を向ける。彼の頭が舟を
「ち、千聖起きててくれ、行かないと……」
千聖の眠そうな目がやっと開いた。擦る手はやはり、前を務めるにはまだ細いように映る。
「……むにゃ、おはよう……?」
「おはよう……そろそろ行こうか」
「くくっ、そーっスね……!」
カミシナの笑い声に、介は首を捻って振り返った。腹と肩を震わせる男の忙しさに思わず呆けてしまう。
「どうしたんだ……? あ、でも卵かけご飯でお腹足りない人いるなら、しっかり食べていこうか」
「三杯食べた」
「さっきエッグトースト焼いたから」
「アルさんチーズ食べたから」
「オレだけ食いっぱぐれてんスけど!?」
なら行きがけに食べられるものを食べるかと聞いたも、気にしないと言われて微かに顔をしかめる。カミシナが目敏く気づき、苦笑している。
「三食食えなかったことなんてザラっスから」
「まあ、問題ないならいいけど……空腹抱えるよりしっかり食べるほうがいいと思うよ。おれほど少食じゃないだろう?」
「まぁ介相当なら酷いと思うっスけど」
面喰って言葉を詰まらせてしまった。カミシナの隣でアルバーノがぶっと吹き出して笑っているし、エレヴィアは深々頷いているではないか。そんな彼女を見たのは介だけでなく、千聖もだったようだけれど。
「い、いやでも、ちゃんと生活できてるぞ……! まあ、鍛えろとは言われてるけど」
「もやしっスもんねー」
「もやしね」
「もやしだなぁ」
「……き、鍛えるよ……せめて誰かがきついときに、肩貸せるくらいは……」
無理無理とカミシナから手を振られ、ついに介の導火線の横で火花が散る。
「今からは無理じゃないっスか?」
「望みは薄そうね」
「や、やれるところまでやってみるさ……! せめてエレヴィア抱えられるぐらいには!」
「はっ、はぁっ!? なんでアタシなのよ!?」
「まぁ確かに嬢ちゃん軽そうだしなぁ」
「ちょっと、セクハラよおっさん」
「あ、ごめん。そう言われればおれのもセクハラ発言か」
こういう時に冷静な自分が帰ってくるものだから、カミシナからにやにやと笑われて、「むっつり」と言われる羽目になるのだろうか。
でも、仲間と認めてもらえたからだろうか。
狼退治の時、昨日より魔術をたくさん使っても、輝石は昨日よりも濁っていなかった。
あの声≠焉A全く聞こえないまま。