奏も嬉しそうに頷いている。ぐっと伸びをする彼女がカーディガンのボタンを留めていないことに気づいて、悠里はそっと視線を他に向けた。
「だいたい家の中で休むか、外ぶらぶらすることが多いですしね。来れてよかったあ」
「たまにはこういうのもいいもんだな。あいつらもああしてはしゃげるし」
「そうですね。久しぶりにのんびりできてるし、楽しそうだし……戻っても、こんな日続いてくれるといいなあ」
戻ったその次にも、こうやって、か。
いいかもしれない。いや、やりたい。
「ああ。帰ってもこうやって集まってどっか行こうぜ。予定合わせてさ」
「はいっ、約束ですよっ! あ、カーディガンありがとうございました。ちょっと泳いできますっ」
カーディガンを脱いで手渡してくる奏に、悠里は苦笑した。
渡した意味をやはりわかってはいなかったようだ。日焼け以外にも色々と理由はあったが、水を吸った服が泳ぎの妨げになるのは事実だし、仕方ないだろう。
「おう、行ってこい。危ないことすんなよ?」
「はーい。うーん、やっぱりこれ邪魔っ、泳げない歩けない!」
はっ?
奏の手が腰に当てられる。黒い布スカートの結び目を解く。目を剥いた悠里はぎょっとした。
布が解けて投げ飛ばされた。
はっ!?
「結局露出増やそうとすんな! カーディガン投げつけんぞ!!」
「えっ、はあ!? ろ、ろっ、露出って……! な、何言ってるの泳げないからってだけ!! 悠里さんのばか変態!!」
顔を真っ赤にして叫ばれ、悠里はやっと失言に気づいた。言いたいことを瞬時に堪えて、仕事で培った忍耐力を総動員する。
「言い方悪かった。鏡相手にも見せたくねえから取るな絶対」
ぽかんとした奏に、忍耐力が瓦解しそうだ。
「え、あ……あの、もう取ってるし……投げたし……泳ぎたいです」
確かに投げられていた。既に水を吸い上げていたのか、スカート用の布が木の枝に引っかかっている。相変わらず力任せな奏に溜息が漏れた。
自覚持てよ……。
「取ってくる」
助走をつけて跳躍し、木の枝に片手でしがみついて布を拾い上げた。そのまま勢いを殺さず飛び降りると、奏がぽかんと見ていたことに気づいて布を渡す。
……なんで耳を赤くしているのだろうか、こいつは。
「あ、ありがとうございます。すみません、取ってもらって……じゃあちょっと泳いできます」
「だからつけとけこれ」
「あ、あはは……上がる時につけます。泳いでる時に足に引っかかるほうが危ないですし」
まあ、それもそうなのだけれど。ちらりと鏡たちを見やると、こちらを見ていることに気づいてなんとも言えなくなった。既に水の中に入っている奏のことを鏡がしっかり見ているとは思わないが、なんとなく気が急く。先ほどの場所まで戻ってくると、奏が近くまで泳いで戻ってきた。
泳ぎはそこそこと言ったところだろう。あまり長距離を泳ぐのは、普段の短距離走向きに見える奏には厳しいはずだ。
「最初からビキニかセパレートの水着にしとけりゃよかったと思うんだけどな」
「これ元々ビキニ……そのスカート、本当は水の中でまでつける必要ないですし……あと泳ぐ時も水から上がる時も、引っかかったりひっついたりして、ちょっと邪魔で」
「なんでそれ選んだんだか。似合ってたけどさ」
瞬時に顔が沸騰する奏は、顔だけでなく首や胸元まで微かに赤みを帯びたではないか。視線を泳がせる彼女は本当に分かりやすい。
「ち、ちがっ、これ御影ちゃんから……」
「へー、なるほどな。いいセンスしてるぜ。が、奏の動きたがりっぷり考えりゃミスチョイスではあるけどな」
ただでさえ赤かった顔が、とぷんと静かに水の中に沈んだ。鏡が御影を口説くような文句を言ったせいで、向こうは砂糖が量産されているようだ。
しばらく冷たい水の中に沈んで、ゆっくり上がってきた奏は焦げ茶色の髪を掻き上げて俯いている。
「どうかしたか?」
「悠里さんなんでこういう時ストレートなの……」
なるほど、どうやら恥ずかしかったらしい。悠里はしてやったりと笑む。
「俺は元々素直だから」
「普段本音隠してること多いじゃない……!」
「感想と本音は別」
「か、感想って……か、からかってるでしょ……!」
「いーや、本気」
顔を上げた奏は熟れたトマトを思わせるほど赤かった。
「あ、ありがとう……お、泳いでくるっ」
「おう、行ってこい」
「はい……」
くるりと背を向ける女性は、顔だけ水に出して少し進んでいく。たまに足元の石を蹴って進んでいるらしく、穏やかとはいえ流れに若干流されていた。
あまり悠里の近くから離れる気がないのだろうか。御影たちほど奥には行かない。
「悠里さんも水着あったら、一緒に泳げたかな……」
ぽつりとした声でも、悠里にははっきりと聞き取れた。思わず苦笑いを溢す。
「……全力で断らせてもらうわ。泳ぎは得意じゃねーんでな」
「でも……はい」
振り返っている彼女は少しだけ淋しそうだ。泳げないとか自分の線が細いとか、以前にも思うものはあったのだけれど、悠里は苦笑いを浮かべたまま水の中に足を付け直す。
「わりぃな。キャンプとかは好きなんだけど」
「わかりまし――た!」
溜められた声にまさかと身を翻せるよう構えた。
正解だった。
奏が勢いよく水をかけてきて、楽々かわした悠里は白い目を向ける。
「ったく、あぶねえな」
「あっ……あーあ……引っかかってくれればよかっ」
前に進んだ奏の沈み方が、明らかにおかしかった。
急激に沈んだ彼女が足を安定させていたとは思えない。勢いよく水が音を立てて持ち上がり、悠里は目を見開き、素早くズボンを捲り上げ直した。
「ドジじゃねえの!?」
川の中へと急ぐ。鏡達が振り返ったことにも気づくがそれどころではない。奏の傍へと行こうとしても、腰近くまで水に浸かりそうになり、これ以上は自分が転んでは危ないと気づいて顔が青ざめかけて――
水が盛り上がった。
水面に顔を出す奏は、けろりとした表情だ。悠里の頬が一瞬で強張る。
こいつ。
「っぷあ。あーびっくりした。あ、カニ見つけましたー」
「何してんだお前は……」
「あはは……いたっ! ちょっ、痛い痛いっ!」
「……戻るぞー」
「え、あ、待ってくださーい!」
指を挟まれていようが何をしようが知るか。
くるりと背を向けると、奏が慌ててカニを水の中に返し、追いかけてきた。しかしすぐに足が止まったようで、ちらりと振り返ると水中を見下ろして苦い顔をしている。奏の足元を見やった悠里は目を細めた。
尖った石で足を切ったのだろうか。血が微かに流れている。
急いで上がってきた奏の額を指で弾いて、悠里は呆れを隠さず見下ろした。
「ったく、心配かけたこと反省しろよ?」
「ご、ごめんなさい……石と石の間に足置いちゃってたみたいで……」
「後で御影に生命の術と鏡にテーピングしてもらうこと。いいな?」
一瞬ぎくりと肩を持ち上げたところから察するに、ばれたくなかったのだろう。さっきのカニも、無意識に周りを心配させまいとする彼女の悪癖が出たものかもしれない。
岩の上に置いておいたカーディガンと奏の巻きスカートを彼女に渡した。すぐに腰に結び直す彼女は、悠里を見上げると気の抜けた笑みを見せてきた。
「心配してくれてありがとう」
「心配するに決まってんだろ、ばーか。ほら、行こうぜ?」
カーディガンも放って渡す。さっさと歩き出すと、不意に腕が重たくなった。
腕に抱きついている奏は、悠里のカーディガンを羽織って顔が赤いまま笑っている。
「嬉しかったんですー」
「そりゃどーも」
「うん……次はちゃんと気をつけます」
そろりと離れていく奏に、悠里は肩を竦めた。
「別にそのままでもよかったんだけどな」
「だ、だってもうすぐ着くのに……」
公私を分けなくても、今は立派なプライベートのはずなのに。
「どうせ砂糖乙って言われるだけだろ」
小指をそっと握られる。あれだけ前に出ている女性とは思いづらい、少し細い手で。
「……なんとなく、その……恥ずかしいといいますか……」
「ま、そういうとこもかわいいけど」
奏は相変わらず瞬間湯沸かし機のようだ。
固まった彼女の手を握り直して、悠里は飄々と歩いた。
水に濡れて冷えていたはずの彼女の手は、ほんのり温かくなっていた。