「い――」
誰だろう。
「おい、鏡!」
僕の名前を……知ってる? 聞き覚えがある声、だけど……
「起きろっての――ああ、くっそ頼んだ! これ以上は俺でもしんどい!」
誰か――いる?
うっすらと開いた細い世界。大量の緑が視野を奪う。空を
「ああ、起きたよ。よかったねえすぐ目が
悠里……あ、ああ、兄と読みが一緒の……いと……
……はっ!?
「よっし、なら鏡引っ張って逃げるぞ!」
「え……え!? 悠里!? というかなんの話――」
というかなんで森に――
……森。
先ほど自分がいた場所はどこだった? こんな場所だったか?
何がどうして森にいる?
大きな吠え声が高らかに響いた。昔バカ兄と共にやっていたゲームでよく聞いた、獣の雄叫びのような。
首をぎこちなく回して……
大きな体躯。紫の鋭い体毛。
赤い目が鋭くこちらを睨んでくる姿は、熊と狼を掛け合わせような異常な容姿。
それが――どうして直立している。どうしてそれと、見覚えのある長身の黒衣の青年が対峙している。傷だらけなのだ。
現状に頭が追いつくよりも早く、ぞっと恐怖が体を駆け
振り返ると、茶髪に穏やかな黒い目の青年がおかしそうに肩を震わせているではないか。
「まあ、初めてここに来たらそうなるよねえ。大丈夫、おれは味方だよ。自己紹介してる時間もないし――」
「お前は話が長い省略!」
「――って、言われるから、ちゃっちゃと逃げようか。ここで全員ゲート化なんて洒落にならないしね」
「え……ゲート……?」
聞き覚えがある単語に戸惑ったも、即座に腕を掴まれ立たされる。膝丈で切られたローブの下から
「さあて、悠里。抵抗したら置いてくよー」
「抵抗なんてしねえよ。頼んだぜ!」
重たい蹴りの一撃。
獣の腹部を、毛皮の上からでもはっきりわかるほど波打たせた悠里の蹴りは、目を見張るほどの威力で間違いない。その間に隣の青年の手の平に石が一つ、冴えた青い色の不透明な石が転がった。
「開け、
石が淡く輝く。光が青年を取り巻く。
「親和せよ、風。我らに疾風の加護を与えよ」
風が、目を見開く鏡の周りを軽やかに流れ、髪を揺らす。
「こ、これって……!?」
「さあて、走るよー。あ、それとも悠里の代わりにあの熊もどきと戦う?」
「は、走ります!!」
またからかいが始まったと生暖かい顔をする悠里が、手に何かを握って熊を睨みつけたではないか。
「開け幻門。我が門は闇。ブラックスターの輝石を以て、力をここに具現する。顕現せよ、闇。
振るい上げられていた獣の爪が、体躯が、地面に勢いよく叩きつけられる。
悠里が「やりぃ、今日は成功っと」と不穏な言葉を
「え、ちょ、速!? ま――ええええええええええ!?」
慌てて走ろうとすると自分の足まで異常に速い。
緑が流れる。植物の姿を追えないほどの速さで、ただの色になって過ぎていくではないか。元々足が速い自信はあったがここまでではなかった。そもそも人間の出せるスピードじゃない。
けらけらと笑って追従してくる茶髪の青年に絶句する中、悠里はしれっとした顔で見下ろしてきた。
「いやービビったビビった。まさかお前までこっちに飛ばされてるなんてな」
「こっちってなんの話!? っていうか、今の何、それとこれどうなってるの!?」
「まあ街に着くまで早く逃げるぞ。俺の魔術そんな長いこともたねえから」
「悠里の魔術は切れかけの蛍光灯みたいな集中力だからなあ。あっはははー」
魔術。
平然と笑い飛ばした青年にもだが、悠里にも言葉を失った。
連れられるがままに森を突破する。あそこに自分がいたんだと思うと頭がパンクした。今歩いている道だって、土が剥き出しで踏み固めて
やっと歩き始めた二人に唖然としていると、悠里が昔の感覚のまま頭に手を置いて軽く叩いてくる。
「ま、何はともあれ無事でよかったよ」
「……こ、ここ、なんなの……」
「まあ、平たく言えば夢の世界。ただ現実に直接影響しちゃうっていう、変な夢の世界かなあ」
のんびりと笑う青年の言葉にさらに耳を疑う。悠里は鏡の腕から手を放すと、慣れた顔で黒く輝く石を見せてくる。
「お前もなんか石持ってねえか?
「え、石なんて――あ!」
思い出した。気を失う前誰と会っていたかも、どこに行っていたかも、そして鞄の中に転がっていた奇妙な石も。
慌てて手の平を見下ろすも、当然石が収まっているわけなどない。ポケットをいくつかまさぐってようやく、深緑色の石を取り出した。
あれ……なんだろ、これ……
あの時の石が、ここにある。
どういうことだ……?
「その石、
「どういうこと?」
「その石は、おれたち異界の民≠ノとっての生命線ってことだよ」
青い石を見せてきた青年は、へらりと笑っている。
「改めて初めまして、鏡くんだっけ? おれは
「と、飛ばされた……? あの、待ってください。話が見えないんですけど……」
「地元でも話題になってただろ、変な生物やら事件やら」
それは嫌でも耳につく話だ。ゲート≠ニ名乗る超常能力者たちが突如現れて……
……その能力者たちが暴れたり、異常な生物たちを本人の意思の有無にかかわらず、生み出して、社会はその度に混乱して……
……その生物たちを倒すのもまた、超常能力者たち便りでしかない、のだけれど……!
「悠里……介さん。さっき、
「そうだよ。君も、おれたちも、幻門になりかねない可能性を抱えた人間ってことだね。まあ話長くなるからさ、そこのライフルキッカーがそろそろ宿で休みたいって言い始めるだろうし、ひとまずは街でゆっくり説明するよ」
目まぐるしい。
何がどうして、こんなことになっているのか。ただただ訳がわからなかった。
音の感じもさることながら、商業施設や人の往来なども、少し時代を巻き戻した東京を思い起こさせる。夏休みの最初に、医大のオープンキャンパスに出向いていなかったら、こんな感想は思いつかなかっただろう。
ただ、中世を思わせる人々の服装と、現代人らしい服装が入り乱れている姿には目を何度も
そういえばと悠里の服を見やれば、彼は現代の服装と近代の服を掛け合わせたような、機能性を重視したものだ。それでいて現代で着ていても遜色はない。暗いモノトーン調で色を統一した、Pコートにシャツ、ズボン。ネッククロスは赤、タイピンとなるボタンは金色と、クラシカルに
介と名乗った青年も、膝丈までのローブの下はジーンズ。たくし上げた袖の下から覗いているのは現代でもよく見かけるTシャツときた。
二人の服のセンスの天と地の加減がひどいが、それはチェック柄のパーカーにシャツ、ジーンズの自分が言えた義理でもない。普段外ではニット帽を被ってお洒落としているけれど、今あるわけもなく。
悠里は食堂を兼ねているらしいロビーで、適当なテーブルを確保すると、店主に料理を注文していた。
とても慣れた様子に、ただ鏡は黙って見やって――料理が到着するなり悠里が代金を払うと、それを持って一室へと案内された。
どうやら、ここが彼らの泊まっている部屋らしい。簡素な木のテーブルに料理を置いて、悠里は肩を
「ビビったろ。いきなり異世界って言われてもピンとこないだろうしな」
「ほ、本当にここ異世界なの……?」
「本当も本当だよ。まあおれたちも最近来たクチなんだよねえ、これが」
楽観的に笑う介には、生返事を返すのがやっとだ。悠里は早々にサンドイッチを手に取ると、説明は任せたと言わんばかりに食事にありついていた。
介はノートとシャーペンを取り出して、「手始めに仕組みを教えるよ」と、図を描き始めた。