歩き慣れた廊下の先、リビングへの扉を開ける。毎日ついている朝のニュースの音と共に、父と母の
「おはよう……」
「また
「だって医学関連は本気でやらないと……人の命を預かるんだから……」
テーブルについて、出された朝食の味噌汁をぼうっと
「広畑さんのところの子は、もう学校に慣れたか?」
え?
味噌汁を
味噌汁なんてなかった。
体はベッドの上だ。ホテルと民宿の中間を思わせる一室は、明らかに自分が生まれ育った家ではない。
しかもだるい。睡魔が激しい。
わかったことは、たったそれだけだった。どんどんと、うるさく鳴らされるノックに応対する気も起きないぐらい、体を動かしたくない。頭も回したくない。
同時に夢の中で飲みそびれた味噌汁を残念に思って、鏡ははあと吐息が零れた。
「夢かあ……飲みたかったなあ、みそし」
「介ー起きろー!! エロ本探すぞ!!」
ぶっ。
いきなりなんてものを言い出す人だ。朝っぱらから吹き出さないはずがない。
それにしてもいったい誰だろう。聞いた覚えがある声だが、どうにも思い出せない。
介がうなされたように、
「うるさい、黙れ……探しても出てこないって、何度も――はあ!?」
飛び起きた彼は絶句して部屋を見渡している。けれど目的の人物がいないせいか、彼は顔が真っ青だ。
「は……アレン……?」
「あの人アレンって言うんですか……」
「あ、うんおは……え、夢じゃないのか」
そんな夢、絶対見たくないなあ。
介の手首にいくつも見えた昔の点滴の名残に、鏡は目を
「たーすーくー! 出やがれ! 女に荷物持たせたままの
「な、なんでこの宿にいるんだ、あいつ……!」
悠里ですら、
かわいそうだった。
「るせえ」
ああ、ただでさえ寝起きの悪さは人一倍の
悠里が開けた扉の向こうに、鏡とさほど背が変わらない少年がいてああと納得した。
介曰くアレンという名前らしい少年は、彼の元同じパーティとして活動していた一人だったはずだ。その後ろに相変わらず
アレンが金髪を揺らして、青の目を
「あの時の上から目線野郎じゃねえか」
「てめえも十分同じ穴のムジナだ
「一緒にすんな。お前らのパーティだろ、この女。扉開けられなくて困ってたぞ。じゃあ」
言うだけ言って、少年剣士は
「す、すみません。一応作る前に声かけたんですけど、寝てたんですね……あの人、知り合いですか?」
「あー……まあな。そりゃこうなるわ……」
後半は、頭を抱えきって沈黙している介へと向けられていた。苛立ちも彼の様子を見ていると
奏が作った朝食を盆ごと受け取る悠里を手伝うべく、鏡もベッドから起き出して、介の背中を少しだけ叩いた。
「朝から大変ですね……」
「あいつ……まだあれ言うなんて……!」
聞こえていないようだ。結局皿をテーブルに並べきった悠里が苦笑いを
「介、宿変えるか? ここに居座ってるのばれた以上、何回もこうなるぜ?」
「さすがに今のが何回もは……」
ないと思いたいが、もしあったら……嫌だ。いくらなんでも介がかわいそうだ。
白目を剥いたような、心がどこかに吹き飛んだ様子の介に、悠里が目を据わらせる。
「マジでエロ本探すぞ」
「悠里ちょっ」
「探してもないからどうぞご自由に……はぁ……」
返事しただと。
ここまで消沈しているとかわいそうなんてものではない。奏はそそくさと御影を起こしに行ったようだ。悠里も憐みを浮かべている。
「聞こえちゃいる、と……」
「一応ね……今のうちに着替えなくていいのかい、二人とも……」
「今日休みだろ? ジャージで構わねえ」
「着替えるの面倒になっちゃって……」
苦笑いを浮かべると、目が死んだままの介が「だよねえ」と無気力まっしぐらな声音。
「おれもだよ。もうなんか、気にしてもねえ……」
それには奏を思い出すと深々頷けるが、今は介の状態が非常に心配だ。
昨日打ち上げという名の外食で、悠里と飲み比べをしたり、疲れていながらも笑っていた彼はどこに行ったのだろう。一撃必殺の
「ってわけで、住むとこ考えようぜ……
「……それもそうだね。そろそろ宿泊費もばかにならなくなってきたしなあ……シェアハウスと思えばいいか……」
「一軒借りたほうが安いかもだしな……活動拠点みたいなもんと思えば問題ねえだろ」
一軒家……。
思わず頭を過ぎる実家の夢に、鏡はテーブルへと目を向けた。
スクランブルエッグ、ハム、そしてレタス。ピラフと、オリーブオイルとガーリックを効かせたフランスパン。オニオンスープ。
……味噌汁も卵焼きもなかった。
ホームシックかなあ。そんな年齢じゃないと思ってたのに。
扉をノックされ、鏡は開けてああと笑った。奏はやっと、部屋に入る時にノックしてくれるようになったようだ。隣で御影が眠たそうに目を擦っている。
「連れてきましたよ」
「おはよう……」
「おはよう。今日お菓子作るんだっけ?」
「あ、うん。久しぶりだから、頑張るね」
眠たそうにふんわりと笑む彼女は、テーブルへと向かいながら首を傾げている。どうしたのだろうかと見やるも、悠里たちが食事をとり始めたので、素直に席に着いた。
介は今日一日空き家を
一方悠里は外に出る気がないと言いながら、昨日の依頼で随分とボロボロになったレガースをまた修理に出しに行くことにした様子。御影は菓子作りの材料を買いに出るようで、久しぶりのオフタイムは全員行動がばらばらになりそうだ。
ただ、奏が道場に行って練習してこようかと言った時には、御影と二人で止めた。途端に抗議の声を上げる彼女に、鏡は冷めた目で一言。
「昨日肩あれだけ痛めてたのにいいわけないでしょ」
「うっ……」
「腕だって
「……」
論破完了。
彼女が舌戦を苦手としているのは薄々感じていたし、諦めてくれたなら何よりだ。少なくともあの怪我で道場なんて行かせられない。今でも肩を動かすと痛いのか、顔をしかめているのに。
「その痛みでトレーニングしようとするんだから驚きですよ、まったく……それで身体壊したら余計にダメですよ」
御影が完食して、鏡へとおかしそうに笑っている。どうしたのだろうと目を向けると、彼女は立ち上がっていた。介も食べ終えて
「鏡くんの言う通り、です。奏さん、今日は体動かすの、ダメですよ」
「……はあい」
「ご
溜息が重たい。
服を着替えに脱衣所へと向かう、彼の背中にのしかかる空気が重たく見えた。御影も準備しに部屋へと戻っていく。悠里が手持無沙汰の奏へと目を向けた。
「別についてくるぐらい構わねえけど、どうする?」
「え? あ、はい。じゃあそうします」
少し意外だった。彼女のことだから、てっきり悠里と二人きりになることをしなさそうだと思っていたのに。一人で時間を潰しかねな――
……一人。
ぱたぱたと戻ってきた御影の服装は、この間買ったお嬢様を思わせる可愛らしい服装。楽しそうな笑顔を向けられて、どうして鏡の笑みは
「それじゃ、お買い物、行ってきます」
「え、あの、御影……独りで行くの?」
「え? う、うん。だって鏡くん、今日お休み……だよね?」
「やっぱり一緒に行くっ!」
ぶっ。
悠里の肩が勢いよく震える。鏡は顔が赤くなりかけたも、急いでパーカーを掴む。すぐに外に出られるような服装で幸いした。急いで飛び出すと、御影はきょとんとしている。
「で、でも、きついんじゃない……?」
「荷物持ちいるよね、それに女の子一人で出るなんて危ないから!」
「え、え? あ、ありがとう?」
「どういたしま――」
不思議そうに見つめられる。やや大きな、おっとりとした目が自分を見ている。
清楚なお嬢様を思わせるワンピースは、何度見ても似合っていて……
顔が一瞬で
急いで扉を閉めた。
途端に従兄の大きな笑い声が響いて、恥ずかしさで顔から湯気が出そうになる。
いつか、必ず、あの従兄に好きな相手ができた時にやり返す――
……好きな、相手? やり返す? 待った。どうしてそう思ったんだろう。
一度湧いた疑問は、御影が嬉しそうに手を繋いだ時に頭の中から吹っ飛んでしまった。