「本当に出ていくんだなあ。ちゃんと部屋料滞納しない、いいお客さんだったのに……」
「四か月もの間ありがとうございました。またお世話になりに来ますよ、家のコンロが壊れた時とか」
途端に、見送りに来てくれていた宿屋の従業員が笑っている。悠里も知り合いが多いのか、調理場のほうで談笑していた。この宿では二人とも有名だったようだ。ただ、悠里に関しては安い食材の店を聞かれたりと、内容がなんだか主夫じみていた。
挨拶が一通り済んで、随分と増えた荷物を詰めたキャリーケースと鞄を運ぶ。
あの宿で過ごした時間が、鏡にとってはこの世界で過ごした時間そのものだった。心を休められたし、全部があそこで始まったようにも感じられる。
忘れられないのだ。起きたばかりの自分が見た、悠里と介がとっていた朝食の風景も。助けた御影が、ほっとして寝ていた姿も。
あの時――自分は全く自覚していなかった。
命のやり取りをすることも。その選択を躊躇うことで、誰が危険な目に遭うかも。
仲間が自分に命を託してくれていることも。
これからはもう、仲間たちだけで生活していくのなら、自分のやれることを一つずつこなしていきたい。
しっかりと。
新しい家に着いた。御影が引越しした時の気持ちが、今なら少しわかる気がする。
「――よし」
介が、悠里が。奏が入っていく、モダンな黒の扉。
御影が嬉しそうに振り返ってきて、笑いかけてくれ、つられて鏡も顔が綻ろぶ。
一緒に扉を潜る。ちょっとだけ、荷物がぶつかって手間取り、笑い合った。
悠里たちはさっさと自分たちの荷物を上に持っていったようで、一階の廊下はがらんとしていた。玄関先で揃え損ねたらしい靴が乱れて重なっている。
あれだけの荷物を抱えていたら、こうもなるかな。
笑って、鏡も御影も靴を脱ぐ。片腕に荷物を集中させて、彼女が重たそうに抱えたうちの一つを開いた手で抱えた。
「持つよ。上まで運ぶから」
「あ……ありがとう」
微笑んで、荷物を運び上げる。颯爽と降りていく悠里の速さに目を剥いた。
「え、もう終わったの!?」
「しわになりそうな服だけかけた。後は今いいだろ。先に飯で使いそうなもん中心に買い足してくる」
「え、じゃあ僕もてつだ」
「介から勝手聞いとけ、ここの勝手把握できる人間増やすのが先だ」
ということは、もう自分が必要だと思った範囲は既に聞いていたのか、悠里は。
言葉に甘えることにして、御影の荷物を彼女の部屋の前まで運んだ。男部屋になった大きいほうの部屋へと荷物を入れると、介が欠伸をしている。連日手続きをやっていたからか、彼は目の下にくまが出来上がっていた。
そろそろ一人の時間がほしいのではないだろうか。そう思うと申し訳な――
「あ、鏡くん。隣の部屋、あそこおれ一人になりたい時籠るから」
……。
申し訳ない思いが、一瞬で退場していった。
「……あ、はい」
「おれじゃなくても独りで集中したい人がいたら、自由に使えるようにって空けてるからね」
「わ、わかりました」
勝手って、まさかこれのことか。十中八九介専用の部屋になりそうだ。
荷物は悠里ほどではなくとも、片付けるのは簡単だった。元々本が
新しい生活が始まるのだと、なんだか嬉しくなる。
「介さん」
「うん? なんだい?」
「改めてよろしくお願いします」
目を丸くした介が、おかしそうに笑っていた。
「こちらこそ。律儀だねえ君も」
「え?」
「さっきは悠里からも言われたんだよ。さすが似た者同士だね」
少しだけ目を瞬かせて、鏡はぷっと笑った。チェックを終えて、介がベッドの上に伸び上っている様子に苦笑いが零れる。
「僕、悠里の手伝いに行ってきます」
「ああ、うん。よろしく。悪いね、ちょっと休むよ。あんなに見送り来るなんてな……」
「それだけ介さんがやってきたこと、大きかったってことですよ」
「料金の無滞納だけだよ」
「あと新人教育でしょ?」
途端に介が黙ったではないか。おかしくて笑いを堪えていると、彼は苦笑いを溢して見下ろしてきた。
「後でちょっと話があるんだ。悠里と君には言っておこうと思ってね」
「え?」
「まあ、食事終わった時にでも」
「あ、はい。わかりました」
彼がこんなに短く言葉を切ったことで、少しだけ察することができた。
御影か奏には聞かせたくない内容だ。もしくはその両方に。
軽く持ち上げられた細い手が、そのままぱたりと、買ったばかりの布団の上に沈んだ。
相当疲れているのだろう。ゆっくりしたい時なのに、それでも話をしたいことがあると言ってくれたのは、鏡からみれば大きな変化だ。
廊下に出てすぐ、途中の御影と奏の部屋をノックする。
「僕、悠里の買い出し手伝ってきます!」
「あ、行ってらっしゃい」
買い足しに出ていった兄貴分にメールを打って場所を確認しながら、鏡は外へと飛び出した。
さすがに引っ越して間もない段階では、食事を作る体力はそんなに残されていなかったし、調理道具も揃っていなかった。必要最小限は悠里と共に買い込んだが、夕飯分はさすがに作る体力はない。せめて温めるだけのものにしようと鏡が提案していた。
「僕もうお腹空いてて……」
「……まあ、たまにはいいか」
連日家具の運び込みもやっていたから、疲れはピークなのだ。悠里は身長のおかげで一人で持てる家具を持たされていたためか、筋肉痛を数日間訴えるのを堪えていたようだし。
……奏が、悠里が腕を震わせないように持っていったはずの机を、軽々持ち上げて階段を二往復した姿には鏡も居た堪れなかった。同じことをしてのけた時に悠里から睨まれた。
おかげで、全員に机がある。鏡は本棚も。悠里は冷蔵庫代わりの保存庫も既にあって、気分が違ったようだ。ただ、疲れた。
だから、帰って来て早々、熟睡する介を起こす時に悠里が悪戯心でエロ本と呟き、危うく介の拳が顔面に入りそうになっても。それを止める気が起きなかったのは、仕方ないと思う。
挙句、口論どころか魔術書を投げる介がいても止める気がなかった。彼がそこまで感情を表に出してくれるようになったことは、ちょっと嬉しい。
一方で、鏡は被害が来ないよう、真ん中の机から二段ベッドの下へと避難する羽目になった。
「ちょっと正座しろ!」
「はっ、お説教なんて聞く気ねえな!」
なんで魔術と蹴りの押収まで始まっているんだろう。奏が温めてくれているポトフの匂いが立ち昇ってきて、鏡は空腹と頭を抱えて耐えた。
「正座しないなら縛りつけて的にする!」
「おっせえよ!!」
わあ、介さん凄いや。今詠唱なしで魔術使ったよね。
……新しい家の壁が水浸しになったのは、ちゃんと拭いてくれるだろうか。
修学旅行でよくある、男子同士の喧嘩を思い出した。よく巻き込まれていただけにもう面倒だ。風魔術で二人を縛り上げようか。そのほうが早い気が――
「うっるさああああああああああい!!」
扉が勢いよく開けられ、鏡は溜息が零れた。
ですよね。むしろすみません。
「なんで大人がガキな喧嘩してるの!! 下まで響いてたし近所迷惑、うっさい!!」
「いやお前の声のほうがうるさ」
「誰が原因? また同じことするなら甘味一ヵ月没収するから」
「その分違うストレス発散するけど?」
ああ、もう。反省の色がない。
冷静になったのは介のほうだったようだ。彼の溜息が聞こえてきた。
「やめよう。五人での生活で一々喧嘩の売り合いするだけ疲れる」
「つーかこれ原因なんだっけ」
「ちょっと、元凶」
思わず突っ込んだ。ベッドの影から顔を出すと、悠里がそうだっけと開き直ったすっとぼけを溢している。奏が頭痛そうに首を振った。
「あーもう、怒るだけ疲れる……大人に限って大人気なさすぎよ、これ。一日目からやらかすなんて思っても見なかったっ」
「この二人が大人げないところがあるのは事実ですけど……これでストレス発散してるところあるんですよね、二人とも……」
「……ばれてたか」
介が弱った顔で頭を掻いている。そっぽを向く悠里のその態度もある意味肯定だった。鏡は苦笑いする。
「何回も見てたら気づきますよ。それわかってて悠里もいじりに行ってたでしょ?」
「なんでそれもバレてんだよ……」
悠里の苦虫を噛み潰したような表情に、わかるよと生暖かく笑んだ。もう二ヶ月も経つのに、そこがわからないほど鈍感じゃない。
奏はまだ頭が痛そうだ。扉にもたれていた背をゆっくり起こして、疲れた様子で溜息をついている。