ぎくりとした鏡と奏が慌てて走る。当番の休みが丁度重なっていた御影がおろおろと辺りを見回していて、エルデがふむと悠里を見上げた。
「ったく、俺まだ二階の掃除もあるんだからな……食器洗い結局してねえじゃねえか、鏡の奴」
「お母さんですね」
「はあ!?」
途端に介が飲みかけのコーヒーを慌てて飲み込んで
「どうしたの、これ」
「えと、エルデさんが悠里さんのこと……えっ」
御影がびくりと怯えるほど目が据わっている。誰に対してだなんて明白だ。エルデに決まっている。その彼女は無表情もいいところで、こちらを見てきたではないか。
「いえ、黒いお兄さんがここのお母さんなのかと」
ぶっ。
なるほど、介が吹き出した意味が嫌と言うほどわかった。悠里がついにエプロンを投げ捨てる。
「お前らなぁ……」
「悠里が……お母さん……!」
「お前らが生活能力
「あ、うん、それはごめん……」
ダメだ、もう
介が依頼を受けに行くまで、みんな悠里を見ては思い出し笑いをして
「ふむ」と、エルデは満足げな声だった。魔物の討伐を行った結果、エルデは介の弓の腕を測れたらしい。
その結果。
「弓の腕はまだまだと言っていた理由がよくわかりました。神崎さんの技術は改善が必要ですね」
「そうだね。きっぱり言って助かるよ――ああ、そうだ。シャッフェンさん、ちょっといいかい」
ツインテールの動きが止まった。あまりの変化ぶりに鏡は目を疑った。
「なんでしょう」
「その――おれの苗字についての話を、君にも共有したほうがいいと思ってね」
奏をからかっていた悠里が目を丸くして振り返ってきた。奏もぷっくり
鏡は困惑して介を見上げる。
「エルデさんにも伝えるんですか?」
「――ああ。遺跡に行く道中、万が一あいつからの妨害がないとも限らないからね」
「……ま、そうだろうけどな。平気か、お前」
「楽になるためにだよ。君らに言ったお蔭で踏ん切りがついた」
介さん……。
まさかそう言ってくれるなんて。嬉しい一方で不安もある。悠里も懸念がある様子だったが、やがてふと笑んで肩を
「ま、お前がそう言うならいいんじゃねえの。確かに一人だけ知らないってのもな」
「それで、お話というのは」
介は、悠里のサポートも借りながら伝えた。自分の本当の苗字を名乗ろうとすると、プラグを抜かれたイヤホンのようにそこだけ音が抜け落ちていたのだ。
素っ気なくもフォローする悠里に、介はどこか、ほっとしたような顔だった。
話を聞いたエルデはしばし黙っている。介が沈黙を破る前に、エルデが彼へと目を向けた。
「
「――それは僕も気になってました。どうしてなんですか?」
鏡も尋ねると、介は複雑そうに笑みを浮かべた。
「事情を知らず、おれに最初に会っている人からすれば、あいつは『おれと同じ苗字の敵』だろう?」
ぎょっとした。皮肉げに笑う介に驚いたが、悠里が苛立ちを隠していない様子に彼はすっと表情を引っ込めた。
「自分から囮になって周りに警告してたとか言わねえよな?」
「そのつもりで動いていたさ。おれに関わった人に手を出さないってルールがあるとはいえ、その効力がどれだけの範囲かわからなかったからね」
だから、神崎≠ヘ『遊びに来ただけ』と言っていたのか?
――でも、それって……
「それは、その敵さんのメリットがないのでは?」
「おれも昔持ちかけられた時に聞いたよ。あいつにとっては全て
舌打ちが漏れたのは悠里の口からだけではなかった。鏡の口から漏れても、御影は怯えた様子がない。
奏も青ざめつつも、悔しそうな顔だった。
「絶対許さない……!」
「あんな奴に感情を割くだけ時間の無駄だよ。奴への思考時間は危機管理だけでいい。おれたちはおれたちでやるべきことをやる――それで十分だよ」
最後の言葉が、どこか温かく聞こえた。
介が少し細めた目を戻して、エルデに向け直している。
「そういう理由だったんだ。それで……苗字を変えていた件は申し訳ない。身勝手ではあるけど、事情を伝えた相手にまであいつの苗字で呼ばれるのはね。だから、可能なら下の名前で呼んでもらってもいいかい?」
「それは……できかねますね。苗字で呼ぶのに慣れていますから。そういう背景でしたら、神田さんとお呼びしますよ」
「あー……そうか。いや、それなら神崎のままで呼んでくれ」
「よろしいのですか?」
介がやや苦笑いを浮かべて頷いていた。鏡は介をそっと見上げたも、彼はこちらを見ていなかった。
「ああ。苗字が違ったら、他の人も驚くからね」
「……そうですか。そちらのほうがよろしければ、それで」
「ありがとう」
彼なりの人への配慮は、彼自身を傷つけていないだろうか。
悠里も気がかりなようで、介に少しだけ、気遣うような目を向けていた。
一方、エルデは紅茶に口をつけて唸っている。
「……ここに必要なものがわかりました。先日も感じていたことですが……やはり急務ですね」
「は? 新しい武器か?」
「いえ。紅茶葉とティーポッド、そして砂時計です」
「……は?」
悠里と介の声が重なった。奏もえっと驚いている。
「紅茶のセット? 味おかしかったです?」
「いえ。淹れ方は一般的でした。問題はありません。だからこそ追求すべきかと」
「えと、なんで、ですか?」
きょとんと聞き返す御影に、エルデは無表情で青い目を向けていた。
「よりよい紅茶のためです」
「それは、大事ですっ!」
「ほう、お話がわかるようですね」
「なんでそうなるんだ!?」
介じゃなくても声を大にしてツッコミを入れそうになった関西出身者二人は、そっと堪えた。御影がきょとんとしている。
「アレンさんの、時みたい……」
「いや……そりゃ、エルデに失礼だからやめてやれ?」
介はエルデが帰るまで振り回され続けた。
そして数日間。介曰く「砂糖が増えた」。
悠里は何度奏との言い争いを繰り広げるのだろう。ただ、彼女を言い負かして、楽しそうに笑っている
おかげで介がげんなりしていたが、不思議と彼は悠里を
「蓋をし続けていたものを見るだけの覚悟が悠里にでき始めたんだろう。後は自分で向き合う時間を作らせておけばいいよ」
「いいのかなあ……奏さんの火に油注いでるような……」
「あの二人のやり取りなら大丈夫だよ。思ってたより早く変わったからね」
言われてみれば、確かに。
こうやって成長の適切な時期を測る姿を見ると、彼は人を育てる上で本当に凄い人だと思う。
……からかい
そして現在。
「だから、何度言えばわかるんだ! 罠とわかってるなら力任せはやめろ!!」
「頭回すよりぶっ壊したほうがはええだろ」
「そうやって強行して魔力を
あいつって、アレンくんだろうなあ。
鏡は奏と御影、エルデの女性陣たちの横からひょっこり覗き込んで苦笑いした。もうかれこれ二つ、三つほど罠と謎を解いてきたが、そろそろ頭が
介が案内してくれた遺跡は、よく小説やゲームに出てきそうな、石造りの古めかしい場所だった。
彼
だが自分たちが欲している魔術は、この古代遺跡にもとれる石造りの場所にある。
そして今度の
朝、昼、夜を示すのだろう、扉に描かれた三つの絵。それぞれの下に線が刻まれている。
朝は四本。昼は二本。そして夜が三本か。
三つの石造りの出っ張りは、恐らく押すと扉を開ける鍵となるのだろう。失敗した時は考えたくもない。
三つの出っ張りに描かれた絵は、鳥、魚、そして人か。
「朝、昼、夜……なんだろう……これ、本当の時間じゃなくて、何かの
「時間の経過の例えなことは間違いないと思うんですけどねえ……あれ、なんかこういう謎かけあった気がする」
「本当、ですか?」
奏が人差し指を口元に当てて考え込んだ。彼女の記憶から掘り起こされればいいが、自分たちも考えなければ。
介を振り返るも、聞きもしない悠里に説教を延々くどくど解いている最中だ。元々罠がの位置を教えない方針の彼に、答えを求めるのは
自分たちは今、彼に遺跡探索ができるかどうかを試されているのだから。
時間経過の例え。動物たち。進化の過程だろうか。それとも――一生?
どちらにしても、数字の意味が掴めない。それに朝から昼にかけて本数が減って、夜になると増えるだなんて……鳥や魚でそうなるものなんて思いつかなかった。人間は……
目を丸くする。
「人間だ」