境界融和世界の幻門《ゲート》

第04話 02
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 重たく踏み潰された枯れ葉の音。隠す気のない足音は力強く、音のリズムは――
 四足歩行?
 息遣いが……いや、唸《うな》り声が、獲物を見つけたと喜んでいる。
 
 咆哮《ほうこう》。
 悠里の向こう、赤い目に射抜かれ、竦《すく》む自分の姿が獣の目に映り込んで……
 
「鏡くん」
 びくりと体が震える。フラッシュバックした景色が現実ではないと気づいて、鏡は静かに息を吐き出した。
 震える。
「無理は禁物だよ」
「……大丈夫です」
 自分で決めたのだ。
 決めたことを投げ出すより、成し遂げる力をつけなければ。
「僕だって風見だ」
 介が苦笑いしていた。けれど彼はすぐに目つきを変え、悠里が睨む道の先を見据えている。
 鏡の耳にも聞こえた。
 駆けてくる。走り抜けてくる。ならば
「開け、幻門《ゲート》。我が門は風。マラカイトの輝石を以《もっ》て、力をここに具現する。顕現せよ、風。強き足を阻《はば》む見えざる障壁となれ!」
 悠里の目の前で風が動きを変えた。突進してくる四つ足の巨大な獣が勢いよくぶつかり、咆哮を上げる。
 構えていた悠里が目を見開き、唖然としている。
「おいおい、固すぎねえかさすがに……おっと!」
 爪が振るい上げられ、勢いよく下ろされる。風が霧散したと感じ取った彼は避けに転じ、難を逃れる。
 爪が地面を抉《えぐ》った。
 介はラリマーを手の上で転がす。
「開け、幻門。我が門は水。ラリマーの輝石を以て、力をここに具現する。顕現せよ、水。凍てつく刃となりて、我が障害を切り裂け」
 空気が冷えた。氷を削るような涼やかな音と共に、獣の手足に一瞬、霜がかかる。
 次の瞬間勢いよく吹き出す鮮血に、鏡の体が一瞬強張った。
 本当に、あの獣が人だった……?
 慌てて舌を噛《か》んで前を見据える。魔術で自身を強化した悠里の重たい蹴りが、獣の腹へと強く叩き込まれる。
 衝撃で横転する獣は、やはり鏡がこの世界に来て初めて目にしたあの異形ではないか。
 狼と熊をかけあわせたような、それでいて二足歩行を可能にしていた獣。今では手足全てを地面につけて唸っている。
「とっくに獣に成り下がってるな……」
 水の中でもがく手が、頭の中で鮮明に蘇《よみがえ》る。
 詰まる息を堪《こら》えられず、唇《くちびる》が戦慄《わなな》く。
「し、仕方ないん、ですよね……」
「言ったろう、輝石が壊れたらもう手遅れだ」
 冷静に言い放つ介の声が、冷たく感じられた。
 それがこの世界の当然だとしても、そうだとしても。
 割り切ったはずなのに……!
「鏡くん、今のうちにもう一度聞いておくよ」
 熊鍋がどうのと、朗らかに笑っていた青年の声ではなかった。
「君のなさすぎる覚悟で、これから先戦うのは向いていない。それでも戦うのはなんのためだい?」
 咄嗟に答えが出なかった。
 なんのことを言っているのか一瞬判断がつかなくて、立ち上がろうとする獣と対峙する悠里と介を、何度も見やる。
 介はラリマーへと囁《ささや》きかけるように詠唱する。水の網を一瞬で形成し、獣を地面に押さえ込んだ。
「おれたちがそうしているから。この世界だから仕方がない。そんなものじゃないよね。君は現状に流されて自分がこうしなければという芯を捉えきれていない。そんな状態で前に出ても死ぬだけだよ」
 どうして今そんなことを言うのだろうか。
 戦いの最中《さなか》で、余裕なんてなくて……
「君も、悠里も。自分が死んで誰が悲しむのか、まだちゃんとわかっていないようだからね――はっきり言って、そこだけは不愉快だよ」
 目を見開く。悠里が獣の腹へと鋭い蹴りをもう一撃見舞った。
 ぐったりと動かなくなる、紫の体毛に覆《おお》われた姿が、黒い光に覆われていく。小さくなっていく。
 ボロボロになった中年ほどの男が、そこで絶命していた。
「現状を受け入れ続けることは、残念ながら、おれは好ましく思わない部類でね。割り切れてもいない感情を受け入れ続けるなんて利口じゃない。君のちっぽけな器に溜め込んで、溢れられても迷惑なんだよ。君の甘さがおれたちの足を引っ張って、誰かが死んだらどうするんだい? ――昨日の、今日の彼らのように」
「――!」
 空気を求めようとして、伸ばされた手を。開けられた口を、見開かれた目を。
 目の前に彼らはいないのに、覚悟していたはずなのに、同じものを見せられているようで。
「君は何を守りたいんだい?」
 耳に入らなかった。
 怪我をせずに済んだと、魔術への集中を解いて報告をする悠里に、介は朗《ほが》らかに無事を喜んでいた。
 けれど鏡は。
 足元に散らばる輝石の欠片を呆然と見下ろして、手が震えていた。石の破片を掴んで、手の平に乗せても、頼りない微《かす》かな色は輝きを失っている。
 彼らの目の前で、中年の男の遺体は光に包まれて消失した。
 
 
 不愉快だよ
 たった一言だけ、ずきりと胸に刺さる。
 報酬《ほうしゅう》を受け取りに行く道中も、帰りの道すらも。二人の会話に入れなかったし、介と目を合わせることもできなかった。
 悠里には早速勘《かん》づかれたようだ。ただ声をかけられたくなくて、周辺を探索してみると伝えて、そのまま外に出た。
 荷物を持って出ないと不審がられるから、仕方なくスマホや軽装だけ整えて外に出て、そのまま宿の裏手に回って壁に背を預ける。
 ――体が、まだ震える。
「おかしいな……」
 ちゃんと覚悟していたのだ。していたはずなのに……。
 
 現状を受け入れ続けることは、残念ながら、おれは好ましく思わない部類でね
 
 受け入れる? そんなこと……自分は……
 喉《のど》を何かが狭《せば》めてきている。いったいなんだと言うのだろう。自分の何かが、彼の気に障《さわ》ったのだろうか。
 こんなの初めてだ。
「……やっぱり僕じゃ……あれ?」
 開けっ放しにしていた鞄《かばん》に今さら気づいて、鏡は中の暗がりで輝いた通知の明かりに目を丸くする。
 悠里にはちゃんと外に出ると話をしたのに。介から今連絡が来るなんて考えづらい。いったい誰から――
 メール画面を開いて、二件メールが入っていることに目を見開いた。
 どちらも受信フォルダに納まっている。メールアドレスを交換し合った人の中で、このフォルダに該当《がいとう》する人は最近メールアドレスを登録した人ぐらいだ。
 受信フォルダを開いて、鏡の手からスマホが滑り落ちた。
 地面を、煌々《こうこう》と光る文字が滑っていく。
 呼吸が浅くなる。震える。頭が真っ白になっていく。
「そんな……!?」
 どうして、どうして――
 三日前に来ていたメールに、そして二日前に来ていたメールに、どうして気づけなかったのだろう。
 GPSが表示されている。街からやや離れた場所にそのマークはある。
 何も考えず、スマホをもう一度手に納めるとマラカイトを手に取り出した。
「開け幻門、我が門は風!」
 震えるな、噛むな
「マラカイトの輝石を以て力をここに具現する――顕現せよ、風!」
 微かに曇った自分の石の色なんて見えなかった。
「我に疾風の加護を与えよ!」
 その石の色が淡く、薄くなっていったことも。
 GPSの上に浮かぶ、『広畑《ひろはた》御影《みかげ》』と表示された目的地だけを凝視《ぎょうし》していた鏡には、その上の電池残量のような数値は見えなかった。
 数字がまた一つ、減っていく。
 けれど鏡の目について離れなかったのは、幼馴染からの、白い地ばかりが目立つメール画面だった。
 
 助けて
 
 どうして
 どうして気づけなかったんだ……!


ルビ対応・加筆修正 2020/11/22


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