水が足元に一気に迫り、悠里はとっさに傍の石杭を掴んで耐えた。けれど奏とネルクは見事に水の流れに足を取られて転び、一気に引いた流れのせいでびしょ濡れだ。悠里は指を鳴らす。
「よっし、ナイスタイミング」
「いや、時間稼ぐならもっといい稼ぎ方してよ、心配するでしょ?」
「まったくだ、大和やオレでももうちっとまともに時間稼ぐぞ」
後ろからかかった声に振り返ると、海理の怒りもたけなわな顔とばっちり目が合った。肩を竦めるわけにもいかず、後頭部を掻いてごまかす悠里を突き刺す視線が鋭い。
「人言いくるめんのは得意だけど、時間稼ぐとかまどろっこしいこと苦手なんだよな……」
「ほんっとバカだよね? 死にたいの?」
冷めた目の大和に、「んなわけねえよ」としれっと返した。呻くネルクと奏に、海理は溜息をついて少年を見据えている。
「で、ついでに墓の掃除もしちまったが、輝石奪われたガキってのはてめーか?」
びくりと、ネルクの表情が怯えて後ずさった。衝撃を受けたか、固まる海理を悠里は物珍しく見下ろす。
この人でも衝撃を受けることあるのか、人相手に。……いや、そういえばなかったわけではなかったか。忘れていたけれど。
「イラついたのはわかるけどね、威圧しすぎだよ?」
「……いや、威圧も何もしてねえ……」
声が震えている。鏡でなくともわかるぐらい、明らかにショックを受けているようだ。
珍しい。
ただ、寒さに体を震わせた奏が、思い出したように海理を見上げている。
「この子の輝石、ダイオプテーズっていう石だったはずです! 青緑色の原石……」
「げっ、パワーストーンは詳しくねえぞ……てめーちょっとこっちこい」
「は、はあ!? 人をびしょ濡れにして転ばせておいて……!」
まあ、怒りたくもなるか。転ばなかったのは自分ぐらいなものだ。海理が来るとわかっていなかったら、咄嗟にあんな行動なんてとれないだろうし。
奏が急いで、海理が持っていた輝石が大量に入った袋からネルクのそれを探している。
「だいたいは炎の術放出すりゃ乾くぞー、俺しょっちゅう介相手に使ってるから」
「それは悠里さんと介さんの喧嘩が原因でしょっ! ――あった、これ……」
ネルクの輝石が見つかったようだ。ネルクが怯えて後ずさる。奏を見てそうなったのかと思いきや、違った。
彼女の後ろにいた海理が、ショックを隠せない顔でまた固まっていたのだ。
「……ガキの頃はお守りする手も足りねーぐらいに、チビどもが寄ってきてたってのに……」
「過去の幻想か慣れてたんじゃないの、周りが」
少年はまだ怯えている。奏が輝石を手にそっと傍にしゃがんで、はっとしていた。悠里は目を細めてネルクを見下ろす。
「てめえのその疑心も全部、その石手放したのが原因だ。ちったー頭冷やして考えろ」
「もう、手放しちゃだめだよ。お母さんがあなたとこの石を、守ってくれてたんだから」
小さな手に輝石を握らせて、その手ごと包み込む奏は、優しく笑っていた。目を見開いていくネルクは、奏を見上げる目から怒りが消え果ている。
「……う……うそ……だって、お母さん、石のせい、で……」
「うん。お母さんの石、壊れちゃったから、お母さんはあなたの石まで壊れないように守ってたんだよ。お母さんはあなたにまで、大切な人を守ることを言い訳に、人を殺してほしくなかったから……人を守る強い子になってほしくて、それを助けてくれる石と、あなたを守りたかったんだよ」
「じゃ……じゃあどうして、お母さんの石は……壊れちゃったの……?」
悠里はそっと、口を閉じた。
ネルクの傍にやってきた大和が、ネルクの傍にしゃがんで、彼の手に触れた途端濁った輝石を一気に浄化した。
「それは石に無理をかけすぎたから、石が応えられなくなっただけだよ。だけど無理をしたのは君を守るため。この石は悪い子じゃないよ。きちんと休ませてあげたら応えてくれる。この石は君自身の命だ。君は命を知らず知らずのうちに人に渡してしまっていたんだよ」
ネルクの目から、雫が幾つも生まれて、落ちていく。
「……お母さん、僕のせいで……石に無理、させちゃってた、の……?」
大和が首を振り、目を細めていた。
「言い方が悪かったね。親として、子供を守りたいのは当然だよ。逆も然りだけどね。もしあの時の逆で君が戦えて、お母さんが戦えないという状態だったとしよう。だとしたら君はどうする?」
「お母さんを守るよ……絶対……」
大和の手が、ネルクの頭を撫でた。涙を流すネルクの顔がくしゃりと歪む。
「そういうこと。お母さんは君を守るために当然のことをしただけなんだ。君には生き残って欲しかったんだと思うよ。誰かを憎まず、恨まず、まっすぐに。ほら、逆の立場で考えればわかるでしょ?」
ぽろぽろと。
静かに溢れ続けた雫が、頷きを境に大きくなって落ちていった。
「……ご、めん、なさ……!」
男の子は、輝石を胸元に握りしめて、声を上げて泣いていた。何度も、何度も。「お母さん」と「ごめんなさい」を繰り返して。
奏が優しく笑んで背中を擦って、唇を震わせて、涙をためていく。やがて彼女は少年の前へと回り込んで、真剣な眼差しで目線を合わせた。
「お母さんを助けられなくて、守れなくて……ごめんなさい……」
首を振る男の子のそれは、拒絶ではなかった。
小さな手が奏の服の裾を握っていた。
悠里は内心安堵の吐息をこぼして、ネルクの傍にしゃがんだ。
「わかったならよし。参考までに聞かせてくれ。いつ、石が欲しいってねーちゃんが来たんだ?」
「う、うん……えっと、お兄ちゃんと、初めて会う少し、前だよ」
何度も目を擦って出た言葉に、悠里は口を一瞬
自分と会う前となると、二ヶ月、三ヶ月なんてものじゃない。五ヶ月以上も前になるはずだ。
「んな前……そっか、よく頑張ったな。つらかったろ?」
ネルクの涙は止まらない。泣きじゃくる少年の頭をただ撫でる。
「今までよく頑張ったな。もう泣いていい。泣きたい時に泣けなくてつらかっただろ? もう我慢しなくていいぜ」
声を上げて泣きじゃくるネルクの頭を撫でていると、どうにも苦笑いが零れた。
孤児院にいた頃、年下の子供たちが泣く度によくこうしていたのだ。……そんな弟妹たちが今、こちらの世界に来ていないか、気がかりが生まれる自分がいる。
ただ、奏がむっとした顔で隣から見上げてきていて、苦笑いの理由が変わってしまった。
「楯山さん……」
「悪かったよ、こうして錯乱した奴相手には一発命の重み知らせたほうがわかってもらいやすいからな……経験上。それに海理サンたち来る音聞こえてたし、いけると思ったんだよ」
「だからってあんなこと……!」
「これが現実なら一発思っ切り殴られて済むんだけどな……だからこの世界は厄介だよ」
頷かなかった上に肩を竦めた悠里を、奏は怒りを顔に乗せて睨んできている。
「……もう絶対しないでくださいよ……」
「悪いけど、保障はできねぇ。おいそれと死ぬ気はないけどな」
「……怖かったんですからね……本当に楯山さんが刺されたらどうしようって……」
いや刺されかけたのお前――あ。
そっぽを向いた奏の手の平に、爪が食い込んでいるとやっと気づいた。奏の頭を撫でてやっていると、ネルクがじっと見上げている。
「……素人のナイフなら怖くねえよ。急所狙ってくることはねえから」
――返事もなければ、こちらを向いてもくれないか。
本格的に怒らせたのだろうか、これは。
「……女の人泣かせちゃだめだってお母さん言ってたよ」
奏の肩が一瞬で持ち上がった。なるほどと、悠里は内心納得する。
「あー、泣いてたのか。やっべーな、俺また夢でかーさんに怒られるかもなー」
「な、泣いてないわよっ!」
「泣いてるよ」
「違うってば……!」
「そっかそっか泣いてたかそりゃ悪かったなー」
「だ、だから泣いてないですっ!」
必死に言い返そうと睨み上げてくる奏の目が本当に潤んでいて、悠里は嘘つけと言いかけた言葉を寸でのところで飲み込んだ。大和が「まるで親子だよねあれ」と呆れていた声が見事に耳に入ったがそんなつもりは全くない。
「嘘つくなってお兄ちゃん言ってたよ。泣いていいって」
「だ、だから……!」
「言ったろー? 泣きたい時に泣けなかったら捻くれて俺みたいになるぞー?」
にやりと笑うと、奏はうっと言葉を詰まらせかけて、必死に睨んでくる。
おかしくてしょうがない。肩が震えそうだ。表情を崩したらこいつが憤慨するとわかっているけれど、本当におかしくて仕方がない。
「だっ、だから、泣いてないし怒ってるだけだしそもそも楯山さんがあんなことするから……!」
「そうだよ、お兄ちゃんが泣かせたんだよ、お兄ちゃんが悪いんだよっ」
若干言われたくない一言を言い放ったネルクが、奏の背中にしがみついている。驚いた奏が振り返って見上げていて、悠里は生暖かい顔をしかけた。
なるほど、そうなったか。さて、鏡たちも来てくれたが、これはどうしようか。
「え、ちょ、どうしたの?」
「お姉ちゃんはぼくが守るんだっ!」