段々と
「いらっしゃい。父さん、お客さんだよ!」
父が降りてきた。手の中のネジをポケットにこっそり直し込んで、調節用の小さなドライバーは、
だから父に呼び止められて、経営を学びなさいと言われるなんて、十歳の彼は思ってもみなかったのだ。
恐る恐る見上げて、
「いいの?」
「店の
「は、はい」
どうにも、父は苦手だ。必要最低限のことしか言ってくれないし、それも大抵、自分を
それにしてもこの身なりのいい男性は、いったいどうして、こんな寂れかけた時計屋なんかに来たのだろう。
「失礼。ようこそお越しくださいました。本日はどのようなご用件でしょう」
「いや。最近時計の調子がおかしいと感じましてな。
しっかりとした声。通りがよく、聞く人を落ち着かせるような男性だ。はぁと感嘆の溜息がこぼれそうになって、慌てて口を
父はゆっくり、
「嬉しいお言葉、ありがとうございます。よろしければ時計をお見せいただいてもよろしいですかな?」
「ええ。どうぞ。三十年ほど前の品で、同じ製品が出回ることが少ないものだと聞きまして」
父は
「――開けてみて状態を確かめないことには、はっきりと申し上げられないものですが、恐らくは歯車を留めるネジが
「ああ、ネジが。そうでしたか。小さい頃、
まるで、子供を預けるかのようで。
客人が、ありがとうございますと頭を下げてくれた。リックの頭をくしゃくしゃと撫でてきてくれ、驚く。
「小さな見習いさん。頑張って、お父さんの後を立派に
「うっ、うん! あ、はい!」
あの優しい笑顔にもう一度会った時。
男性は大切な子供が元気になって帰ってきたように、嬉しそうに何度も、何度も父に礼を
父の後を継ぐ。
小さい頃から当たり前に思っていたことを、あの男性は大切なことのように、頑張ってと応援してくれていた。
当たり前になれるものだと思っていたのに、初めて見る父の接待の姿は、色んなものが不思議に見えた。
頭を下げる時だって、床に落ちたものを
修理する時もお客に待たせるのは失礼だと言って、ひどい時は二日以上
だからリックが店番をする。客が来るまでの間が、父の
きちんと寝ればいいと思う。目の下にあれだけ寝不足のくまができあがっていれば、客だって心配するはずだ。
それでも父は、寝不足を
あんな背中をずっと見ていると、段々時計屋になりたくないと思っていたのに。
鈴の音が響いた。あの男性以来、二日ぶりの客だ。
ぱっと顔を上げ、リックは「いらっしゃい」と声をかけようとして、目を丸くした。
少女だ。リックよりも小さくてあどけない、それこそ六、七歳ぐらいの。
扉をおどおどと閉めた少女がぱっとこちらを向いてきた。リックは一瞬にしてどきまぎしていた。
「い、いらっしゃい。どうしたの?」
普通、時計の修理はお金がかかるから、大人が頼みに来るものだ。時計の修理の技術はそれだけ難しいし、価値もある仕事だと、父から聞いていた。
少女は何に驚いたのか、一瞬飛び上がるように身を
「あっ、あのっ。と、時計、壊れちゃったの。直る?」
「時計? あ、えっと――父さん! お客さんだよ!」
返事がない。どうしたのだろうと思って、階段へと少し顔を出すが、少女を待たせるわけにはいかないと慌てて前を向いた。
「えっと、直せるよ。見せてくれるなら」
言って、しまったとすら思った。少女の表情が花開くような笑みを広げた瞬間、父のあの接客の様子が頭をよぎったのだ。
簡単に言ってよかったのだろうか。直せない懐中時計の種類はいくつか知っている。ただ、ものによっては同じサイズの歯車がないことや、それを留めるための細かいパーツのサイズが合わないことだってある。
特に歯車はきちんと形の合うサイズを
この店に置いている懐中時計や壁掛け時計などの歯車やパーツの予備は、確かにある。もし歯車がイカれているならば、きちんとした品番のものが店にあるかは、リックも想像がつかなかった。あまりにも当てずっぽうすぎたと後ろめたい。
そんな彼に気づいていないのか、少女はポケットをごそごそと
やっと引っ張り出したのだろう。少女は銀色の鎖を引っ張り出し、目が輝いている。
「これ! お母さんがおばあちゃんからもらったものなの。アンナがもらったの!」
「ちょっと手にとって、見せてもらっていい?」
頷いてくれる少女から受け取ろうとして、「ちょっと待って」と慌てて声をかけた。父が普段しまっている場所から布を取り出し、
針の進みが止まっている。ネジを回してみて、
ッチ、ッチ、ッチキ、ッチ……
――何か、音が変だ。歯車が噛み合っていない? 歯車の歯が欠けている? ネジが外れている……?
懐中時計を耳から離して、「ありがとう」と言いつつ少女に返した。不安そうにする少女に、リックは微笑んだ。
「直せる……?」
「うん、直す。三日もらっていい?」
「アンナ、明日お引越しなの」
目を丸くした。不安そうな少女に、リックも思わずあたふたとしてしまう。
どうしよう。明日引越しなら、明日渡せなかったら大変だ。備品と同じ歯車が使われていなければ取り寄せに時間がかかってしまうし、とてもではないけれど明日中に修理が終わるとは思えない。
こんな時なのに、父さんったらまだ寝ているなんて!
「――引っ越すって、どこに?」
「バーミンガム」
また随分と離れた街だ。とてもではないが、届けに行くこともできそうにない。父に話も通っていないし、予算を組んでももらえないだろう。
顔立ちを見ても、恐らくは日系イギリス人だろう。名前を手がかりに探すとしても、バーミンガムが田舎だったのは何世紀も前の話だ。今や工業技術が発達して、ロンドンほどではないにしても大きな都市になっているのに、探せるだろうか。
この近くならまだ、届けられるとは思っていたのに。
「……明日引っ越すなら、引っ越した所の時計屋さんに見てもらったほうがいいかもしれないね。お兄ちゃんじゃ、そこまで届けられないから。すぐ動いてほしいだろ?」
さらに不安そうになっている。リックは頬を掻き、気まずさを心から追い払おうと必死だ。
届けられない。子供の足じゃ、あそこまで遠いのは百も承知だ。馬車を頼んで、やっと歯車なんかの部品を調達しに行くぐらいなのだ。
まだ戦争が終わった名残もあって、許してもらえる気がしない。
少女が
「お兄ちゃん、アンナの時計、お願いね」
「え? でも、引っ越した後届けられな――」
「アンナが大きくなったら、取りに来るの。アンナ、まだお金持ってないから、いっぱいお仕事して、するように頑張るの」
はにかんだ笑みが、かわいらしい。
なんだか胸を締め付けられるようで、リックはただうんとだけ、頷いた。やっと見せられた笑みで、カウンターから身を乗り出して、少女の頭を撫でる。
「じゃあ、大切にお預かりします」
「うんっ。お願いします!」
嬉しそうな笑みが、くすぐったい。
――父の気持ちが、やっとわかった気がした。
父さんに頼んで、なんとかして直してもらおう。
「――そうか」
「うん。お願いだよ、父さん。アンナの時計、直してあげて」
じっと時計を見ていた父の鋭い目が、自分を射抜いてきた。びくりと
懐中時計をすっと返された。突き返すほど乱暴ではなく、丁寧なのに、心がずきりと痛む。
「これは私が
「で、でもっ」
「仕事を甘く見るな。人の想いを預かっているんだぞ」
ランプの火に照らされた父の顔の、深い影。ただでさえ怖い顔が、
「この時計、アンナちゃんはお母さんからもらったと言っていたんだろう。そのお母さんはおばあさんから。何代も大切に使われてきた時計を、お前は預かったんだ。その子の直したいという気持ちを、お前は預かったんだろう」
胸をぐっと、押されたような気分だった。
テーブルに向かい、修理を頼まれていた時計と向き合った父は、その手を休めてアンナの時計を差し出してきている。とても狭い作業室は、机のおかげで半分も空間を埋められていた。
「ただ時間を進められるようにすればいいものではない。人の思い出のものを預かって直すとは、そういうものだ。よく考えなさい」
アンナの時計を包んでいた布ごと受け取り、
直してもらえない。自分ではきっと、間違って直してしまうかもしれないのに。
「お前はまだ接客も下手なんだ。きちんと学んでから、丁寧に修理して返してきなさい。返事は」
「……はい、父さん」
よくわからなかった。父さんが魔法のように修理していくのを、何度も見てきたのに。
俯いて、黙って部屋を出るしか、できなくて。リックは自室まで一直線に走り、扉を勢いよく閉めた。
握り締めたままの時計は十歳にはやや重みがあり、その手の中で微かに伝わる、修理師を目指しているから分かる振動が、音が、苦しい。
あの笑顔が見たいのに渡せない。直せない。
直すと言ったのに
しばらく扉にもたれて、目を乱暴に拭く。
床の板の目ばかり追っていた視界を一転させて、リックはやっと、手の平の弱った命を見やり、机に向かった。
夜もふけつつある中。
二階のリックの部屋は、一階の作業室よりも長く、その明りを
「リック。リック!」
「ぁっ……
七年が、過ぎた。
当時自分が思っていた以上に、そう複雑には感じない
集中が切れて、厚みが一、二ミリあるぐらいの小さな歯車が床のどこかに落ちてしまった。普通なら見つけられそうにも感じないが、この七年間暗い中でも修理の練習をし続けてきたリックにとっては、スコーンの中に入っているジャムの味を当てる程度に
ひょいと
案の定小さな客の相手をしていた父は、降りてきたリックを見てやや顔をしかめていた。
本当に、七年前よりくまがひどくなっている。
「遅い」
「すみません」
素直に謝っておこう。実際時間をとったのは自分だ。小さな男の子がカウンターの向こうにいることに気づき、笑顔で「いらっしゃい」と頭を下げた。元気をなくしたように、まだ遊び足りないお年頃のはずの少年は頭を下げただけ。
いったいどうしたのだろう。父の手にある懐中時計は、保護のためのケースに抜き穴があり、中の文字盤が見える形になったハンターケースと呼ばれるタイプの懐中時計だ。
抜き穴に
けれど
「どう思う?」
……そう思うのに、この父ときたら。
「――ここまで変形しているとなると、よほど大きな力を加えられたんでしょう。正直修理するにも、完全に復元できるか」
ガラス窓が割れ、
父も渋面を見せて頷いている。
「そうだろうな。よほど優れた職人であれば、話は別だろうが……」
「そ、そんな……ここなら絶対直るって聞いたのに……」
弱りきった声。リックは懐中時計をカウンターに置き、台の表に回って少年と目線を合わせた。
やや怯えた目が、おずおずと見返してくる。
「君も
少年が頷いている。
「時計も同じなんだ。沢山傷ついたら直すのは大変だよ。それに時計は君のように、自分の力で直るだけの力はない。君が骨折すれば直るだけの時間を、人の手で直すんだ。そんなに簡単に直せるものじゃないから、技術と呼ばれるんだよ」
「で、でもお父さんに怒られちゃうよ……」
そういうことかと、リックは内心溜息で埋まってしまう。懐中時計をもう一度、
「お父さんが怒るぐらい、大切なものなんだろう。ごまかしたりしたらもっと怒られるのは君だ。持ち主に気づかれないぐらいきれいな修理をするのは、僕ら時計職人にもできないんだよ」
涙をほんのりと浮かべる少年。それでも、リックは首を縦にも横にも振らなかった。
これは受けられない。受けるべきではないと、知っている。
知っているけれど、今首を動かす時ではない。
「必ずお父さんにはわかるんだ。お父さんも、君にごまかしてまで直してほしいとは思わないと思うけどな」
「で、でもお父さん怒ったら怖いんだ! お兄ちゃんのお父さんみたいに優しそうじゃないよ!」
目を丸くするリック。しばらく開いた口が塞がらず、口を
「わ、笑わないでよ!」
「ご、ごめんな。――そっか。父さんが優しくねえ……!」
咳払いが後ろから聞こえたが、そう簡単に笑いを治められそうもない。やっと落ち着いて、過去を見るような幼い表情に、優しい顔を向けられた。
「直すだけの努力は僕らもしてみるよ。ただし、それは君がきちんとお父さんに謝ってからだ。いいね?」
「で、でも――」
「お父さんにとって」
すぐに言葉を
笑みを作りかける顔を必死で真顔にして、リックはもう一度目線の高さを合わせ直した。
「とっても大事なものなんだろう?
少年は少し考えて、首を振っていた。リックもうんと頷き、肩を優しく叩いて、包んだ。
「ちゃんと謝ろうな。嘘もつかないで、きちんと言うんだ。お父さんが怒るのは大切なものを壊したからじゃない。ものを大切に扱う人になってほしいから、今怒ってくれるんだ。きちんと反省すれば、お父さんも
「……うん……ごめ、んなさい……」
怖いだろう、きっと。
――いや、絶対。
怖くないはずがない。それだけ彼にとって、泣くほどに父の姿と言うのは、大きいのだろうから。
あの子も、そうなのかな。
引っ越す前日に時計を持ってきたあの子にとっても、母も祖母も、大切なものだったからこそ。ここに、預けに来てくれたのだろうか。
男の子の背中を優しく叩き、リックは笑った。
「ほら、謝るなら早く行ってこい。男だろ。しっかり謝って、それからもう一度おいで」
「――うん」
服でぐいと顔を
――どうしても直したかったのだろう。あんなに小さな欠片まで集めて、指を切っただろうに。
男の子の小さな手にいくつも刻まれた証は、とても痛々しくて、必死なように見えた。
あの子は十分、わかっている。
ただ、やり方がわからなかっただけだ。
「――リック」
声をかけられ、父へと振り返る。申し訳ない思いが先に立って、思わず
「すみません、父さん」
「いや。――それがお前なりの答えか」
「はい」
「そうか」
ただ、それだけ。必要以上を言わないのは、知っている。
だから自分も、必要なことだけを伝える。それだけだ。
申し訳なくても、それを父は受け入れてくれた。その気持ちをきちんと
「先ほどお前にお客様が来ていたぞ。また後日いらっしゃるそうだ。きちんと準備しておけ」
ぽかんとしたリックの頭を、まだまだ彼より大きな父の手が、不器用に乗せられた。
目を見開いて、照れくさくなって。顔が
そんな歳というわけでもないのに。まったく、父の
「あ、の……すみません」
「え? あっ、いらっしゃい」
慌てて顔を上げ、手元に持ってきていたものをそっと、カウンターの下の引き出し式テーブルにしまいこもうとした。
懐中時計が
黒髪に黒い瞳。日系イギリス人らしい、十四歳頃の少女。
あの時と変わらない、おどおどとした雰囲気を見せて。
あの時と変わらない幼さを瞳に映して、あの時よりも女性になった表情。あの時以上に、はにかむような笑顔。
目を見開いた。言葉が出ない。
もじもじとした様子でこそばゆそうに笑う少女は、七年前より確かに落ち着きを覚えて頭を下げてきた。
リックも思わず、照れくさくなりつつも笑みが広がる。
「いらっしゃい。今日はどのようなご用件でしょうか?」
平成23年10月頃 執筆