「やっと来たか、遅いぞ」
なんの話だ。というか誰のせいで眠気が来たと……
……来た、と……
嫌な予感がした。目を開けてはいけないと、本能が警報をけたたましく鳴らした。
そうだ、そのままここでも寝てしまえばきっと帰れる。あの標とかいうお偉いの寝息できっとまた眠れる。そんな気がするから揺するな、絶対揺するなっていうか本気で俺眠気酷いから寝かせろ――って
「揺するなよああもう――ビンタやめ!!」
ぺちぺちとあまりにもか弱い威力の攻撃に吠えると同時、開いた目に飛び込んできた標の表情はなんとも切なそうで。
「……だって、何回呼んでも寝ようとしてたぞ……」
「誰のせいで眠気来たと思ってんだよ人を座椅子にしやが……って……」
背中には、木の幹の感触。
少女の背景には季節はずれの枝垂桜の枝と、神社の境内を示す白い壁。
あまりにも静かで穏やかな風景の中、どんよりと湿った空気を背負う隻はくすんだ灰色に塗られたかのようだ。
「……なんであんたがここ来れてるんだよ……」
「ここも幻境の一部じゃからの」
「あ、そう……へー……」
もう何も驚くまい。というか、驚けない。
だから永咲が「干渉するのはここが限界」だと言っていたり、祖父が「ちっと細工をしてここに留まり、夢の中に邪魔している」と言ってきたりしたはずだと頭が納得した辺りで、膝を抱えたくなった。
つまり自分も、無意識のうちに幻境に足を運んでいた、と。
「お前の体からな、ここの香りがした。でもお前と同じ陣を持つほうにはなかったから、先にここに来ようと思ったんじゃぞ」
輝く顔で笑う少女に、隻の目は死んだ魚のそれだ。社の扉が開く音に疲れた色で目を向けた次の瞬間、見覚えのある男の姿にぎょっとする。
「誰だ、ここぁ俺の知り合い以外は知らねぇ場所のはずなんだがな」
相次郎の目が、鋭く少女を射抜いている。思わず睨み返すのは隻のほうで。
「じじいなんでここが幻境だって言わなかったんだよ!!」
「……お前さんいきなりなご挨拶だな。今回はてめぇの意志で来たわけじゃねぇんだろう。そいつは誰だ?」
油断なく
「これは失礼。私は
「……九尾狐、なぁ……」
あ、そういえばじじい、九尾狐に会ったら逃げろって……
もしや折り合いが悪い二人を合わせてしまったのだろうか。いや、そもそも隻は相次郎がここにいる時間すら一切聞いていない。自分が冷や汗を流しに流す理由なんてあるのかってああもう。
「まさか、戦後鬼火で俺を追い掛け回してくれた狐はお前さんかい?
「鬼火? ……あー! あの時の
「知り合いか――――――っ!!」
ってか何歳だ――――――っ!
相次郎の目が懐かしそうに細くなり、標に近づいてしゃがみ込むと笑顔でうんうんと頷いている。
「やっぱり
肩にぽんと置いたその手の平に凄まじい圧力が込められた。標はけらけらと笑いながら「久しいな、坊!」と友人に語りかけるような声音だ。
「それとそれしきのでは痛くもないぞ」
「だろうな。知ってらぁ。で、てめぇは何用だい? 俺の孫引っ張り回してくれやがって」
「おおっ、これ孫だったのか! 人間は寿命が短いな!!」
「あんたら本当何歳なんだよもう!!」
相次郎が「俺ぁ言ったはずだがなぁ」とぼやいた辺りで、標が口を広げた次の瞬間には、隻が塞いだ。突っ込みはしたがもう聞く気はない。というか聞くだけ無駄な気がする。
「……俺と、俺の知り合いの体に変な陣が現れたんだ。それで原因がこっちにあるんじゃないかって話になった。バカが一人暴走しかけて止めたんだけど、代わりにこっちが勝手にことを進めてくれやがったんだ」
「だろうな、そいつが変わってねぇなら他にねぇなとは思ってたが」
「むぅ……二人にそこまで言われるのは心外じゃ。バカのことは知らんが、動かずして話が進むわけでもなかったろう。現状に納得が行かないなら動くまでよ」
むしろ
それよりも、陣と聞いてから相次郎の顔色が変わっている。やはり知っていたかと隻は目を向けた。
「じじいの家にもあったよな、陣を書いた布。あれに似てた」
「……あれは風呂屋に行った帰り、路地裏に書いてあったのを写しただけだ」
渋面になる祖父。標が相次郎のにおいを嗅いで、目を丸くした辺りで額にデコピンを食らっている。それでも驚いた顔のまま……額は痛くなかったようだ。
「お主、レイスになっているのか! 幻術使いではなかっただろう」
「れいす?」
「……あー、標さんよ。その話はまた後にしてくれや」
苦い顔で頬を掻く祖父に、隻は
それでも、陣を見せてみろと言われた途端に頬を引き
「どうした?」
「……足の、付け根……後ろっ側……」
途端に標が大笑いだ。だから言いたくなかったのにと拳を震わせかけたが、相次郎が生温かい顔をしているほうに矛先が向いた。
悔しい。隼に呆れられているようで悔しいっ。
「ああ、まあ……ここで脱げっつってもなぁ。喜ぶ奴もいねぇか」
「喜ばれたら全力でそいつぶっ飛ばすぞ」
「俺でも殴るな、お袋さんはわからんが。そりゃあともかくとしてだ、陣の形は俺が見た奴と一緒か?」
「微妙に違う」
「
拗ねてない。
標が「見せろ見せろ」と笑いながら言ってきた辺りで拳骨を食らわせた。びくともしない顔にも表情にも心が折れかける。
「お前ひどいぞ、友達少ないだろう」
「関係ないだろ!!」
心、折られた。
孫の心傷など気にも留めず、相次郎がじっと考え込んでいる。
「……俺ぁ一回見かけたきりだが、
「寄りたくないも何も、あれは気軽に近づけば死んでしまうわ」
相次郎がにわかに表情を鋭くさせた。隻もああと頷きかける。
「そういえば
「……よく死ななかったなぁ、俺もお前も」
本当だ。自分は最近首を突っ込んだほうだから別として、祖父のほうはそれで済むレベルではないはず。いくつ魂を持っていると聞きたくなるほどにあれこれ首を突っ込んでおいてそれでは、世の巻き込まれ体質かつ、それで亡くなった人々に申し訳なさ過ぎる。
それこそ小説で読んだような、「不幸だ不運だ最悪だ」を叫ぶ槍使いや、前世から不遇なせいで異世界を渡る羽目になった冒険者とか。
「だとしたら、だ。それは俺らみたいな霊視をできる連中は無関係か?」
「無関係だったら俺に陣が現れたりしないだろ」
「ちょっと記憶覗かせろ」
「拒否」
「……そーかい。じゃあ手前の口で説明しやがれ」
頬を引き攣らせても口調は柔らかいほうだ。隻は肩を竦めて、これまで得られた範囲の情報を伝えた。
いくつか質問は飛び交ったが、あくまで確認程度のものだ。標も一緒に黙って聞いている姿に感心していた折、話し終わった隻はふうと一息ついたと同時に気づく。
青年、青年、少女。
……片方の青年は、実は八十間近。少女の方は、絶対と言っていいほど九十超えていそうな先祖返りの九尾狐と人間の混血。
本音を言うなら、これほどまでに異色を超えてシュールな風景は絶対ない。こんな光景どこを見ても奇妙奇天烈に決まっているではないか。
「――生命力を奪う陣は清水寺の連中をさらって大がかりに、か。
「それはわしも同感じゃ。天狗は自分が一番偉いと思っておるからの」
「天狗は誰に
「えっと、確か仙人だったと思うけど……
相次郎と標が一気に渋面になった。知り合いだったかと苦い顔になった隻は、次の言葉に目を丸くする。
「おかしいの、それこそ永咲には一番ありえぬ愚考じゃ」
「……は? い、いや待った、本人も言ってたぞ!? 天狗に霊薬――えっと、老化を遅らせたり願いを叶える効果のある奴を見せたら目の色変えたって!」
「それで何故天狗なんじゃ。彼女は
それに天狗にとっては老化など無縁、願いなんてあってないようなもんじゃ。
くるくると人差し指で髪を弄ぶ標に、相次郎も頷いている。
「天狗は同族でもねぇ限り、大抵上に立たれんのは
言葉が出なかった。
言われて見れば、初めてまともに会話した天狗――
天狗に階級があったとしても、自分たち以外に上に立たれるのは、よほど強い相手でもない限りなさそうだ。自らが三下だと嘆いていたあの天狗を思い出しても、そう頷ける。
「じゃあ、永咲さんがなんでそんな嘘……」
「それはわからぬが、思惑があったのだとは思うぞ。もしくはなんとなくついてみたかった冗談かの」
洒落にもならない。けれどこれで千理の言葉が裏づけされたことになる。
今回の騒動の核にあんさんがなるなんて、んなバカなこと、一番あるわけねえでしょうよ!
永咲と対峙した時に言った千理は、本気だった。そして昨日も。
一年経っても変わらない確信を彼が抱えていたのは、もしかしたら正しいのかもしれない。それでも永咲は海理を
「……じゃあこの陣、永咲さんがつけようとしたものじゃないんだな?」
「それも彼女がするにしてはおかしい代物じゃ。やる意味がない」
そうだ。それはわかる。いくら
どうして天狗を動かした張本人を庇ったのかはわからない。だが少なくとも、犯人はまだ他にいる。
永咲だけではない。そして言うなら、スヴェーン一族を
十一年前に起こった、海理と、千理たちの父を殺したというそれも。
「――標さんよ。これは隻が関わらなきゃぁいけねぇ事態なんだな?」
「そうでなければお主の目は節穴よ。事件の核にあるのは間違いなし――止めたところで無駄というものじゃ」
「だがな……」
「勘違いするでないぞ。お主は既に死人。死人に口はなし」
途端に黙った相次郎は、しかし溜息をついている。
「なんのためにこの姿になったかわからねぇだろう……俺たちは霊獣と人の狭間側だぞ」
「……だからこそ、止める権利なぞない」
「手厳しいな」
相次郎が苦笑いしている。隻は一瞬だけ迷ったが、すぐに祖父を見据えた。
「この間、ここで永咲さんと会った」