確かに出口はそこにあった。
あったのに、あったのに――!
耳を何度も横切る風切り音。眼下に広がるのは雲と雲と白いどこかと……
上から順番に落ちてくる仲間たち。
「ヴぉおっ、ヴぉおヴぁっぶヴぇーっ!?」
大量に空気が口の中に入ってくるからか、翅の声が余りにもおかしなことになっている。
というか風の音が酷すぎて、音が……響基ではないが、音が……!
雲がいくつも過ぎ去った。近くに出口はないかと探しつつ、なんとか互いの距離を近づけさせられないか頭を回す。
空を落ちている時はええっと、どうすれば――あ。
千理が、一人勢いをつけにつけて滑空していった。
頭を真っ直ぐ下に向けて。
心の中で、手の平に拳を打ちつけた変わりに。隻は今日、ダウンジャケットの格好のまま幻境に来たことを最大限に怨んだ。しかしそれが正解だったかもしれないと思うのは、落ち続けて一切減速できずにいる千理を見て顔が青くなってからだ。
あいつなんで減速できな――!?
気がついた時にはもう、減速を気にするどころか、隻の頭まで下に向き始めているではないか。ぞっとし、千理をなんとか視界に捉えようと目を
雲の下にでも
「隻!」
はっと気づいた瞬間、隻の体の周辺に水が纏わりついた。途端に体が一気に引っ張られ、内臓が口のほうに向けて大きく圧し掛かる。
「っ、ぅぷっ……!」
『わー隻が吐きそうだよ、レアだよレアすぎるよ!? すっごい顔!!』
「アヤカ……だま……っ、ぷっ……!」
「……生きてる?」
「血……のぼ、る……!」
百八十度回転させられた。
「で、怒り治まった?」
「重力で血上ってたんだよ!! っそ、まだくらくらする……」
落ちている時はほとんど関係ないどころか、頭が貧血に等しかった。恐らく千理もそのせいもあって、途中で体を回転させられなくなったのだろう。もう彼の姿は影も形もない。
というか、周りにあるのは雲と空と……翅とアヤカリと……
隻しかいない。
嫌な予感がじっとりと背中に張り付いた。
「なあ、他のみんなは?」
「オフコース。いない」
「一緒に落ちてなかったか?」
「オフコース。途中から見てない」
「アヤカリは?」
『オフコース! 拾おうとしたけど俺が分離しすぎちゃって集めるのが大変で手が回らなかったんだよ!!』
ふ ざ け ん な
序盤を全部英語版「もちろん」で済ませればそれでいいのか。「当然至極」という四文字熟語に置換すれば問題は正解か?
隻の拳がミシッと固まった次の瞬間、アヤカリが『いやあああああああっ』と悲鳴を上げて思わず殴った。
水面に勢いよく拳をぶつけた痛みが隻に跳ね返ってきただけだった。
「どうしよっか」
「ほんとにな……!」
「とりあえず、ここの幻実……だっけ? フィールド、空だけっぽいな」
「ほんとにな……え?」
改めて右に左にと見渡す。
雲の平原と、島と、青い海原。
本当にここが空なのかわからなくなるほど、海と何ら変わりがない光景が広がっているばかりだ。
アヤカリが空飛ぶ
「参ったな。アラジンになっても行き先わかんないとどうしようもなくね?」
「アヤカリに謝れよ」
「大丈夫アヤカリはこれぐらいじゃへこたれないから。なんたって主成分のうざさは千理と一緒」
『えええええっ。それいやあああああああっ』
さすがに四年も見ていればアヤカリが誰の影響を受けてその性格になったかぐらいは想像がつく。やたらとオーバーリアクションで煩いところとかうざ――いや
だから、その水でできた空飛ぶ絨毯から翅の幼少期の姿をしたアヤカリがにょっきり生えてきても、別に隻はどうとも思わないわけで。
それにしてもと、そろりと下を見下ろして目が
落ちている最初は地面を探すことと千理のことで頭がいっぱいだった。が、改めて見下ろすなんてするものではない。高所恐怖症でなくともさすがに気を失いそうだ。
当然万理たちの姿などどこにもなかった。
「どうする? いきなり分裂状態だろ、これじゃ……」
「千理も万理も武器はあるし、想耀が全員集めてくれそうだけどな。で、悟子は鳳勇がいるから問題ない。結李羽さんと標さんはまあ……元々術使えそうだから大丈夫と思うけど」
「さっきみたいな神聖系の幻生と出会ったらどうすんだよ!!」
「最悪幻境からリアルのほうに
何故納得できる自分がいる。
思わずアヤカリの上に突っ伏してしまった隻は、地上と変わらない風の音の中に、奇妙な音を聞いた気がしてはっと顔を上げた。
巨大なエンジンが出しそうな音と言うべきだろうか。そんな妙な音に。
「――っつぅ……いっだぁ……!」
隻が先頭切って落ちていく姿を見かけたものだから、ついエヴェイユたちから落ちた時と同じように素早く落下する体勢をとったら、これだ。
体のあちこちをぶつけたならまだよかったはずなのに、目の前に開いていた雲の隙間に落ち込んだ途端に、鉄塔から突き出していた旗を
第二の衝撃は、その棒が折れて地面に叩きつけられたこと。
息が詰まり、咳き込む間も与えられず訪れた次の衝撃波に、さすがに千理も地面の上で伸び上がるしかない。
唯一の救いは、頭から落ちなかったことだろうか。石畳の上ではなく、広い花壇の中に倒れたことも幸いではあったけれど。
やっとまともになった呼吸を幸せに感じつつ、大きく開いた口から一気に吐息が漏れた。
「だぁぁぁぁぁ……くっそ、妙なとこでばっかり、なんで血が、発動すんだか……びっくりなぐらい、死……に損ないすぎ、だっつの……」
むしろ信憑性が増してきた。座敷童の血縁かもしれないというレーデン家混血説の。
うっすらと開けている目を、視界が通じる限りで泳がせてみる。周辺は薄暗いが、景色が見えなくもない。太陽光と思えない魔法じみた色が、どこかを薄ぼんやり光らせているようだ。
現代風な建物の作りもあちこちに見受けられ、千理はぐったりと伸び上がる。
ひとまず、周辺に仲間の姿は一切なかった。そして成月に至っては、棒にジャージを拾われたせいでどこかに吹っ飛ばしてしまっているようだ。
「成月ー……ここに落ちた時、握れてたんかな……っと」
肩に、二の腕にと力を込め、脱力する。しばらくしてもう一度再挑戦して、やっと体を起こすまでに至った。
ジャージは、恐ろしいほど破けなかったようだ。これが現実であれば今頃どうなっているか考えたくもない。
というより、よく首が絞まった中で生きているものだと、千理は身震いする。
「兄にぶっ飛ばされそー。誰かー知り合いこの辺に落ちてないっすかー……げほっ、ごほっ」
まだ肺は本調子ではないようで。思わず身を屈めて痛みに耐えていると、視線が一切飛んでこない風景に違和感が走った。
人通りは――まばらだ。それなのに、視線が合う気もしないどころか、姿を見られている様子もない。
オブジェとしても見られていないらしい暗い街の風景は、夜というより、違う違和感が……。
「……何、ここ」
ビルもそこそこ見られる。明かりもきちんとある。その明かりから不自然な上に、夜ならば見えるはずの雲は一切その
しばらく目をあちらこちらに向ける。ひとまず自分の怪我がないか確認しようと明かりを探し始めた瞬間、気づいた。
街灯がない。
現実なら当たり前に見かける、夜の不安を忘れさせる灯火がどこにもない。この薄暗い街並みはそのせいだったのだろうか。
それだけならまだいい。鉄塔を見上げても、入り口は見当たらない。今いる場所は街のエントランス部分と
――常識が違うのだろうか。感覚的には異世界と同義だ。ありえない話でもない。
渋面になって頭の後ろを乱暴に掻き、千理はゆっくり息を吐き出して、思いっきり吸い込んだ。
「ナーヅキーッ!!」
……。
…………。
……………………。撃沈した。
刀から返事が返ってこなかった。その代わりガンガンと響き渡る音に、訝しんで空を見上げた千理はぎょっとする。
天井がある。遠いため街の明かりも届かず、暗すぎて見えづらいが、間違いない。
ここは地下都市なのか。
「うっそい、近所迷惑どころか遠近両用迷惑……」
一人になる時ほど呟きが増えている本人は、その自覚もなく。
気配が変わった。
周囲に目を走らせた瞬間、大量の影に取り囲まれた。千理は慌てることなく身体強化を頭に思い描いた。
もし術であれば通じるなら、暗示としての考え方を取り払えばいい。成月がいなくとも、肉弾戦だけで戦える自信はある。
ただ、影相手なら――
「光りあれ! って言いたいんすけどね。あんさんら何もん? んでもってここのこと、教えちゃくれませんかね」
ぼそぼそと、音が聞こえてくる。耳を済ませかけた千理は
大きな斧が、千理がいた真下の煉瓦を砕いた。頬を
「げえぇ、こっちまで来てまた戦うの? マジ
瞬時に目つきを変える千理に、影が取り囲む。飛び出してきた象の形の影を軽々避け、真横に来る手前で拳を叩き込む。
痛みはなかった。手応えもない。ということは恐らくだが――
「なる。影だけしか持てなかった原形幻術
ブツブツ、ブツ
イヤホンジャックの抜き差しを乱雑に繰り返すような音に、千理は眉をひそめた。
光ヲ奪イ、我等ヲ闇トシタ
影ヲ奪イ、我等ヲ光ニ喰ラワセタ
我等住民、汝等ニ
象はレーデンでも召喚の際の文句に使うもの。その幻を幻で終わらせないための、いわゆる実体を指す言葉だ。
「象って……誰が言ったんかはともかく、おかしいじゃないすか。幻境にいる幻生は、術者が呼び出した後はちゃんと還して――」