葉を増やした枝の隙間。思い出したように咲く忘れ桜が散る中で。
巨大化したオコジョが、女性を背に乗せてレーデン家へと走っていく。
茶金髪の髪のサイドを後ろで結わいた、二十代前半頃の女性が、オコジョを
門の向こうの桜が微かに揺れる。
ヨシ子が門へと勢いよく飛びつき、インターホンを鳴らしている。応答も待たずして、女性は
「佐藤です失礼します!」
門を自分で開け放つ。中に入るなり首を右に左に必死で振っている。
姿はない。人の気配も――ほとんどない。
一年前の騒動で、千理が師匠を亡くして苦しんだのは風の便りで聞いていた。その後夏に海理と千理が再会したのも知っていた。
東京で色々とあったのも聞いたけれど――まさか、本当に。
「天理……!」
「あ、バレた――わけじゃなかったか」
目を見開く女性は、慌てて桜の木を見上げた。
姿はない。その隣、塀の上の小さな屋根瓦に腰かける着流し姿に、ヨシ子が目を見開いた。
ほんの少し、成長した面立ち。
それでも優しく笑うその笑顔は、今も昔も中学校の同期生女子たちが黄色い悲鳴を上げても不思議ではないほど、貴公子のようで。
それでも、いたずらっけの見え隠れする素顔のせいで、少年にしか見えないまま。
カラン。
飛び降りた少年の
はにかむように笑う姿に、顔がくしゃくしゃになる。
「ただいま」
「……っお、かえり」
カラン、カラン
音が、幻ではないと、教えてくれる。
目から
「やっぱりまだ抜き損なってるか――った」
ぴしりと、頬にデコピンを受けた天理は不服そうな顔。
そのままヨシ子は天理の頬を突いて、むっとした顔で摘んで引っ張り、さらにむくれた。
「何このもちもち肌……!」
「ヨシ子……」
生温かい声と顔で、はっとして手を離すヨシ子は顔が真っ赤になっていた。
「……ねえ、いい加減出ていい? マジ駄菓子買いに行きたいんすけど」
「も、もうちょっと待ってやろう。な?」
千理と響基が、玄関へ続く小道の脇の奥で問答している隣、隻は疲れた顔で空を見上げた。
裏口から出ればいいのに。
予告通り、千理は出ていった。
レーデン当主となった多生の部屋に挨拶に向かうヨシ子に付き添う天理の笑顔が、いつにも増して糸が
「よかったね、お二人とも再会できて」
「だな――天理の連絡ミスなんて口が裂けても言えないけど」
むしろ言ったが最後、これが二人の亀裂の原因でした、なんてことになったら洒落にならない。隻の強張った笑みに、結李羽がくすくすと笑っている。
「そういえばさっき、いつきさ――いつきさんもいらっしゃってたよ?」
「敬語抜けてないって怒られるぞ、また。にしてもなんで?」
多生が当主になった祝いなら、いの一番に響基と一緒に祝ってくれたほどだ。他に用件なんてあっただろうか。
隠し通路から突然阿苑家に侵入している連中への苦情? いや、いつきにとっては今さらだろう。特別いつきが足を運ぶようなことがあっただろうか。
考えあぐねていると、万理が欠伸をしつつ廊下を通る現場に遭遇し、目が合って姿勢を正される。
「おはようございます、隻さん」
「おはよ――ってかもう昼だぞ、大丈夫か?」
「やっぱり……時計壊れてて気づかなくて」
苦い顔の万理に、隻も乾いた笑いが浮かんだ。
電池切れだろうか。
「そういえばいつきが来てるらしいぞ」
「えっ!? 今日お越しになる話は
ぎょっとする万理の見事な尊敬語の使い回しに隻は視線を逸らし、結李羽は静かに拍手を送っている。困惑するレーデン四男は、「そのことは後ほど」と改まっている。
その姿に、隻も結李羽も顔を見合わせた。
「どうした? いつも以上に外口調じゃないか?」
「いつも敬語は抜けていないつもりなんですが……そうじゃなくて、海理兄さんがまだ来ていないんですが、何か伺っていませんか?」
「伺うも何も、あいつケータイ持てないだろ」
そもそも何時に来るという話すらせずに、昨日瞬きと同じ速さで霊園に帰った海理の心配事だなんて、万理もどうかしている。
苦い顔で俯く少年に、結李羽が不安そうな顔で見上げている。
「どうかしたの?」
「いえ……すみません、
「いや、些事ってわけじゃないと思うけどな。何かあいつに用だったのか?」
「はい。数二がいまいち理解できなくて」
「悪い、それは力になれない」
「ですから海理兄さんに聞こうと思ってたんです」
「だからそれオレじゃねーの! マジ違うんですって、天兄が携帯貸してって言うから!」
「天理――――――――っ!!」
ずどどどどどど。
凄まじい足音が、片や笑いながら。片や必死の悲鳴を上げながら。
男子棟に突進してくる音に、隻と結李羽と万理は即座に隻の部屋に避難した。
――が、千理が顔を真っ青にして開け放ったのも隻の部屋。
開け放ったのはいいものの、彼は見事に開け放った姿勢のまま横滑りをして消えた。靴下のせいだろうが、滑りながら絶望する顔がよく見えた。
見事空いた隙間を縫って天理が入ってきた。
着流しの腕が
ガタガタと扉が叩かれる。なのに開く気配はない。
隻は冷めた目で、襖の前で背を震わせて笑う千理の兄を見下ろした。
「て、天兄開かない! なんか開かないんすけど、どうしたの!? え、ちょ――いや待ってタイ
隻、万理、目を白けさせる。天理が腹を抱えて床を叩いている。
襖は、震えはしても開く気配が全くない。さすが結界の専門家、政和手製の札だ。
……こんな光景で実力を再確認したくなかった。
「ちょっと開けなさい!! ねえ!!」
「天理お前……」
「っく……ぶっ!」
だめだ、笑いすぎで話すら聞ける様子ではない。千理の弱りかけた猫の悲鳴がか細く響くばかりだ。
だから、がらりと襖を開けて、しかもジト目で見下ろしてくるのがいつきだなんて、隻は予想だにしなかったわけで。
「お前は、十年
「や、やあ……いつ……ぶはっ!!」
「天理!!」
顔を真っ赤にして怒鳴るヨシ子に、いつきが苛立たしげに舌打ち。そして天理は――
腹を抱えて畳の上に転がっていて。
万理が冷めた目で、ヨシ子に
「兄さん、バカですか」
「だからオレ、悪くないぃぃぃぃ……!」
最早耳を
『――相っ変わらずてめーらガキか』
「ガキって言うんじゃねえ!!」
ヨシ子がものを言う前にいつきが海理に噛みついた。天理は壁にもたれて未だに肩を震わせている。
笑いで。
「――もう万理の数学見てやれば、お前」
『そう言ってられるか、万理には悪いが後回しだ』
他人や天理や千理であれば、その『悪い』という言葉は一切つかないくせに。
海理は隻の机に腰掛けたまま、天理のほうに声をかけようとして――先にヨシ子のほうに気まずそうに目をやっているではないか。
『ヨシ子、ちょっと席外せるか?』
「え、珍しいぐらいの高待遇だね海理兄ちゃ」
『てめーが天理の
「へんたああああああああいっ!!」
顔を真っ赤にして疾走した女性に、男全員が耳を塞いで苦い顔だ。丁度部屋に戻ってきた万理は肝を抜かれた顔で、廊下で呆然としているではないか。
「……な……んだ、今の……」
「か、海理変態だって……ぶはっ!!」
『
頬が引くついている海理に、天理がさらに床を叩いての大笑いだ。千理がそっと手を下ろし、真顔で「うわー」とぼやく。
「タイ姐、本当純粋ですよね」
「お前が言うと違和感だらけだよ」
「一応オレも男なんすけど。ってか、海兄ー。どうやって後遺症云々調べるんすか?」
『そりゃ体見て異常確かめるしかねーだろ。どこに何があるかわからねーから、ヨシ子に大丈夫かって聞いただけだってのによ』
確かに濡れ衣か。
いつきが渋面になっている。ある程度万理から事情を聞いたのか、しばらく黙り込んでいる彼はじっと天理を見据えた。
「
『否定はしねー。そもそもの否定材料からねーな。今のうちに調べておく必要がある。一年間待つっていうのも結構考えたぜ、これでも』
想像できる。多生と海理が激論――いや、怒鳴り声を交わした姿が。
だから別に、体を調べると言われてもそれほど抵抗はなく。医者に見せる感覚で服を
翅と響基だ。悟子は――いないということは、今日はまだ遊びには来ていないようだ。
「あれ、真昼間から何やってるんだ?」
「
「――ああ、昨日言ってたあれかあ」
響基が納得してくれたのに、翅は真顔で「何かあったっけ?」ときたか。千理が説明する合間、万理と海理といつきが隻と天理を見比べている。
……なんだか気まずい。
「――特に問題は見当たりませんね。今までの傷口も塞がっています」
「そういえばレーデンの
「でもあったとしても、天理と隻なら原因余裕でぶっ飛ばしてそうだよね」
「おい
『――おい天理。てめーどこでぶつけた?』
海理の言葉に、天理が「どこ?」と
天理の背中、右の
『右肩甲骨の辺りだよ』
「……寝てる時に角にぶつけでもしたかなぁ」
『
逆。天理と海理の寝相は、どう考えても逆。
顔を
「――上は特に何もないか。くそ、点滴の跡だらけで判別しづらい」
「うるせ。悪かったな、注射と点滴の常連でっ」
「今の隻からは絶対想像できないよ……」
隼なら想像できたとでも。
「上はいい、足」
「言い方あるだろもう少し。これで結李羽やありか――悪い、未來さんいたらアウトだろ」
「ヨシ子はもう逃げたから今さらだしなぁ」
成人女性であの恥じらいぶりもどうなのだろう。相手が恋人なら……仕方ないか。
指示を受けて服を着直していると、いつきが「おい」と声をかけてきて苦い顔になる。
勘弁してくれ。
「お前も寝相悪かったとか言うなよ」
「むしろよかった試しからない」
「隻さんアウト……さーせん待ってボールなし!!」
「ってか、隻スタイルいいなー」
男に
「天理、痣見せてみろ」
「どうぞ」
呉服屋の当主だけに、色彩感覚に優れたいつきはしばし考え込んでいる。
「……本当に痣か? これ」
「ってか俺のどこにあるんだよ」
「
なんでよりにもよってそこ。
苦い顔になっていれば、千理が携帯のカメラで撮影して見せてきたではないか。天理と隻、両方の痣を見て二人揃って苦い顔になる。
「うん、似てる」
「ね?」
「まず、撮るかな普通」
「じゃないと本人見えないじゃないっすか」
鏡でも見え辛い位置ではあるが、微妙な気持ちだ。翅が居た堪れなくなって出て行こうとしたその時、ぎょっとして慌てて扉を閉めたではないか。
「ご、ごめんちょっと待って!! なんで今来る!?」
「は? 誰が――」
「えー? なんで? 何かやってたの?」