柔らかな布の音が、優しく流れた。
見上げてすぐ気付いた、日本家屋風な木造建築の天井は、大きな梁が重厚感と共に安らぎすら与えてくれている。
呻いて起き上がれば、縁側に座る銀髪の鬼が振り返ってきた。笑顔を見て結李羽だとわかるのは――まだ鬼の姿の彼女を見慣れていないからだろう。
「よかった、隻くん起きれたんだ!」
「眠ったままみたいに聞こえるからやめろって」
事実隣では、万理が健やかに寝ていたけれど。丁寧に薄い毛布もかけられて。
他のみんなはと見渡せば、障子の向こうの縁側と庭園にぼんやりと目が
危うく腹を潰すところだったようだ。
「ちょちょちょちょちょっ!!」
「……悪い、潰し損ねた」
「損ねたの!?」
「ちょい、
千理の不機嫌な声は、障子を開けられ、健気に支える柱の近くからだった。まだ健やかに眠る万理は、周りの煩さなど気にした様子もない。いつきが既に起きて、部屋の影からちらちらと結李羽の隣の女性を見やっていた。
昔ながらの着物と羽織り。覗くのは白く長い耳が、後ろ側から。
「……お前が渋る理由がわかった」
「そりゃどうも。……いや、一番渋りたかったのは悟子のほうのなんだけどな」
一番迷惑かかるし。
悟子が万理の隣の布団で暢気に寝ている。枕元には小さくなった作楽呑と、不死鳥が静かに見下ろしている。
そして海理はといえば――
絶好調すぎる感情が一点だけ。苛立ちしか見えていない。更紗に至っては気まずそうに小さく正座しているではないか。
結李羽の隣の女性が立ち上がり、縁側から一同を見渡し、隻へと目を留めた。
「よく、わらわと知りながら許したものよ」
「――結李羽の目を信じただけだよ。鬼のよしみだからって、あんたが簡単に相手を助けるって思えなかったのもある。あんた、ユリが俺の仲間だって知ってて助けたろ」
覗く目の紫は、映えるほどの濃い
その目が、静かに細められる。
「そうだとして、そうでなかったとして。そなたらには
「ああ。……本当に俺たちを助けてくれるなら、頼みたいことがある」
「隻さんたんま。そこまでは――」
「『万理は、本当にあんたのことを想ってた』」
水を打ったように静まり返った。女性が目を伏せる中、千理が目を見開き、むかっ腹を立てた顔でそっぽを向いて、海理の愕然とした顔に気まずそうだ。
「……聞こえてたんすかそれ」
「そりゃあ、あの時静かだったし」
「おい待て。万理がなんで
「わらわが策に
海理の矛先が女性へと向けられた。かつて
「無論その報復は受けた。貴様の弟によってな。そなたらの血に流れる憎きレーデンへの怨みも、また潰えてしまったわ」
「てめえ――!」
「落ち着け海理」
鋭い制止に、海理は苛立ちながらもいつきから目を逸らした。隻はげっそりしながら失念にやっと気付く。
ここはここで、雅殺之朱鬼に関する因縁が豊富だったことを忘れていた。
かつて封印を破った鬼はレーデン家の先祖により、体を滅せられ幻境に還された。その恨みを晴らすべく、現世に戻ってから万理を利用し、レーデンへの怨みとして千理や隻と戦った。それだけではなかったのだろう。
海理もまたレーデンの人間だ。雅殺之朱鬼を知らないはずがなかったのだ。警戒してもいたのだろうか。いつきはレーデン家と関わりが深いから知っていたのかもしれない。
結李羽が驚愕に染まったまま雅殺之朱鬼を見上げていて。隻は溜息を一つ溢し、かつての敵を見据えた。
「あんた言ってたよな。俺たちが面白いもんに
翅が鋭い目で雅殺之朱鬼を見上げている。しばし沈黙した鬼は、結李羽に中に入るよう勧めて、彼女が布団だらけの客間に戻ってくると同時に指を横に動かした。
障子が静かに閉まる。警戒する千理や海理へと首を振り、女性は一同を見渡し、更紗へと目を留めた。
「そなたは知らなんだか」
「うん。こっちで得た知識は少ないほうだから」
「そうであろうな。あそこは
言葉に詰まった。更紗へと驚いた顔のまま固まっている翅の隣、いつきが呻いている。
「坩堝だと?」
「わらわも知りえることは少ない。だがあそこに入り込んだ弱き者は、必然的に坩堝の力により存在を溶かされる。あの場を望む者の、望む
だから、坩堝。
海理が拳を作っている中、千理が「兄、ちょい我慢」と、普段なら逆の構図でやり取りが行われたではないか。
「……なんでそんな漬けもん造るみたいに、あそこに入った連中がそうならなきゃいけないんすか。ってか、なんであんさんが知ってるんすか」
「かつてあそこは京の一部。わらわも京の名残で語り創られた命。知らぬわけにはいかぬ。だがあの場が何故存在しているかは、わらわたち鬼の間でも知る者はおらぬのよ。恐らくは我らの起源より遠きいずこにて産まれた者が、力を渇望して創り出したようにも映る」
「――そいつ、手下はどのぐらいいる?」
ただでさえ不機嫌だった海理の声が、一気に低くなっている。雅殺之朱鬼は「さあ」と一言。
「言ったはず。わらわが知りえる限りはとても少なきもの」
「なら二つ目だ。創った奴の特徴は何か知らねーか」
「あくまでの噂だが、こちらで産み落とされた聖母の子ではないか、とは」
聖母の子。
隻は思わず翅と目を合わせて――いつきがはっとした。
「それは
沈黙する鬼に、翅が苦い顔だ。
「エキドナ……の、何人目か全然わかんない子供ってことか?」
「凛さんの……?」
隻まで遠い顔になってしまった。千理がげっそり顔だ。
「うわーありえますねそりゃ。ギリシア神話上のエキドナは自分の子供とも交わって、色々幻獣生み出してるんすよ。それぐらい子供沢山産むし……幻生版エキドナの凛さんが、翅に倒されたのが初めてーなんて生易しい歴史は辿ってないでしょ」
「でも凛さん、あの時腹痛いなんて言ってなか――いっだああっ!?」
「言葉を
「なんでお前が切れるわけ!?」
翅、いつきに叩かれていた。千理が「別に翅と戦ってる時の子とは限らないでしょ」と三角口で補足。
「どの時代でもいいんすよ。とにかくエキドナの腹に子供がいた時に、エキドナ自身がやられちゃうと、その状態のまま幻境に還らされるんすよ。もしかしたらその時の子供が」
「こっちで生み出されて、幻術使いたちに恨みでも持ったか……ありえそうなのが腹立つな、確かギリシャ神話のヘルメスなんて生まれてすぐで言語ペラペラだったんだろ」
一同の頭の中で一つの言葉が描かれた。
神、マジ面倒くさい。
隻は苦い顔になった。
「ある程度目星はついても、そいつがどこにいるかが……」
「あそこにいなくても坩堝が機能してやがるなら、他に坩堝を管理してる場所があるって仮定するほうが妥当だな。力が流れる場所を探すのが一番だが――」
「力なら今も流れておろう」
雅殺之朱鬼はすっと隻へと目を向けたではないか。
しばし沈黙が流れて――全員がぎょっとする。
「お、俺!?」
「まさかあの陣か!」
「そーだったそれがあってこっち来たんじゃんかよ俺ら。誰のせいだよ忘れたの――海理のせいだよ!!」
「上等じゃねーか表出やがれ!!」
「いい加減にしろ!!」
翅に飛び蹴りが入った。やったいつき本人が、着地と同時に感動で目を輝かせていた。
海理が頭の頂点に手刀を打ち込んだ。いつき、悶絶した。千理が冷めた目を兄貴分らに向けていた。その後真顔で雅殺之朱鬼を見やる。
「でもオレらそれわかんないんすけど」
「無視すんな千理!!」
「うん。幻生でもわかる子は少ないよね」
「さら――っふぅ!?」
今度は海理が直々に翅を沈めていた。無視して話を続ける一同の後ろに吹雪を垣間見ながら、隻は苦い顔で足の付け根に手をやってしまう。
またこれか。
「容易きことよ。我らと同じく、力を糸として捉えればよい」
「……全然簡単に聞こえないんすけど」
「なればこうする他あるまい」
雅殺之朱鬼の手から、一対、光と闇の糸が解けた。何度目か忘れるほどの沈黙の後、鬼は隻に糸を手渡している。
受け取った隻は真顔で硬直していた。
「え……いや、あの……」
「それを陣の傍に結びつけよ」
「なんでそうなった!?」
「力の流れがわからぬなら、流れを風として捉えるほかなかろう」
すっげ――――――――嫌。
ただでさえ、他人の体を構成する幻術の糸というだけでこちらとしては嫌なのに、なんでそうなる。
結李羽が不安げに自分の手を見つめている。
「あたしも同じことできたら――」
「いいやるつけるから! 変なこと考えるな!!」
急いで結びつける中、男連中から生温かい顔をされて怒りすら湧いた。湧いたが必死で堪えた隻は、結び目が解けないか確認して、糸がふわりと浮き上がった事にぎょっとする。
風に流されるように、一つの方向へと結んだ端を中空に漂わせている。
「これでわかったであろう」
「……雅殺之朱鬼。これ、こいつに影響あるのか?」
海理が訪ねれば、鬼は静かに「さあ」と返すのみ。
「わらわは現世においての陣の役割は知らぬ」
「――おおよそ読めてきたな」
やっと頭の痛みが治まったのだろういつきが呟き、千理が頷いた。
「力の誇示で、実験で、尚且つ餌撒きに宣戦布告。マジでエキドナの子供なら全部ありえる話っすね」
「ああ。むしろ全部繋がった」
海理が渋面で頷いている。
「もしこっちで生み出された幻生だってんなら、現世での体は存在しちゃいねーはずだ。けど幻術使いに手っ取り早く報復するなら、
「……運がよければその隙に体を乗っ取る、か。陣にあった癒着の効果はそういうことだろ」
いつきが呟き、隻ははっとする。
つまり海理も、そうやって体を奪われた可能性があるのか。
「じゃあ、なんで万理の友達が消えたんだ?」
「陣は実験段階だったんだろう。坩堝が用意されてたってことは、力をさらに蓄えようとしてたはずだ。
「抵抗される心配も減りますしね。その時に……ドッペルゲンガーで幻術使いの記憶盗んじまえば、乗っ取れるんかな。レイスならまだ、体と繋がりあるまんまだから、それもコピれるんすかね……」
ぽつりと呟いた千理へといつきが頷いた。海理が拳を作っている。
「そういうことかよ……」
「それならなんで俺たちは平気だったんだ? 俺たち坩堝の中にいたのに」
結界もやろうと思えば溶かせたはずだ。それなのに、存在を溶かされたのは
考え込む一同の中、雅殺之朱鬼は隻へと目を向けたままだ。
「まだわからぬか」
「……あんたほど全部見透かせてないんだよこっちはっ」
「彼の者の子孫とは思えぬ頭の悪さよ。そなたを溶かすほどの気を起こせなかったからこそ、そなたの周辺の者にまで手出しをするのを
耳を疑った。
穴が開くほど雅殺之朱鬼を見つめる隻の隣、千理が警戒した目の色で彼女を睨んでいる。
「ちょい、なんで隻さんのお祖父さん知ってんすか」
「祖父など知らぬ」
「あれどっち!?」
「わらわが言うておるのは聖母よ」
……聖母? 聖母って、母さんそんな言われるようなことしてたっけ。ばあちゃん? いやいや。
ほかに聖母って呼ばれるような人が思いつかない。自分の血筋の話をされているのだけはなんとかわかるが、それにしたって誰だ? あと思いつくのは幻生の血? 聖母と呼ばれるような幻生なんていたっけ……あ。
結李羽が、ぽかんとした。
隻、愕然とした。一瞬固まった一同が生暖かい顔で視線を逸らしていく。
「なんだあ、そういうことだったんだあ」
「あー納得」
「っち、一番つまんねーオチかよ。もっと面白いネタ放り込めってんだ」
隻一人がわなわなと震え始めた次の瞬間、悟子が欠伸をして起きてきて――
「はああああああああああっ!?」
凄まじい一声に、悟子は響基でもないのに硬直していた。