自称バイト員の少女は、清水寺の本堂に向かうわけではなく、滝を通り過ぎてなお奥へと歩き続ける。やがて石畳を外れ、人が行き交うとは思えない細道から林の中へと向かっていく。
よく写真で取られている、清水の舞台周辺の木々へと向かっているのだろうか。気づけば人の気配も完全に消え、隻は後ろへと振り返りかけて、隣を進む千理に止められた。柔らかい地面が随分と気に食わないのか、下を睨んでむっとしている。
「ここは振り返っていい場所じゃないっすよ。後ろへの未練を捨てなきゃ、
「な、なんか神隠しみたいな……マジかよ!?」
頷かれ、絶句する隻。後ろの結李羽も感嘆の声。虫にずっと驚いていただけに、また足元の昆虫に悲鳴が上がりかけていた。
「き、気づかなかった……」
「そりゃ、気づけたら誰だって入ってこれるじゃないすか。結界の中の結界、それがこの空間っすよ。普通の空間とずれた世界です。もし清水寺の外の結界が破られても、ここから張り直せばまた追い出せるってとこじゃねーかね」
「そういうことや」
少女が肯定してくれる。真っ直ぐ進む先に屋根が見え、やがて古びた小屋に着いた。先導者が振り返り、隻はやっと詰めかけていた息を整える。
なんだろう、変な気分だ。何かがおかしいというわけではないのに、自然と息が詰まる。千理も鋭い視線で周囲を見渡し、すぐさま普段の飄々とした表情へと戻す。それまで少女は口を尖らせ気味に、こちらを見ていた。
「ここは結界更新の時一番手薄になんねん。結界に送る力を一度新調する言うんは、結界を守る
「頼むって……」
「せやから護衛。そういう約束やん」
ピシリと固まるのが、隻だけで済むならまだかわいげがあったかもしれないのに。千理まで動きが機械さながらではないか。
「なんすかそれ!? 聞いてないっすよ、オレ隻さんのお
「お守り言うなお前も! 見学だけって話じゃなかったのか!? 大体護衛ってなんの!」
「
淡々とした声。隻は拳が固まっていくのを感じた。
「姉ちゃんが無事に結界を更新できたら、うちはもう役目がしばらくないんや。全力で守らなあかん。姉ちゃんに何かあったら、ただじゃ済まされへん」
「そんな急に」
「拘束時間は?」
ぎょっとして千理に目をやる。いつもと違う声音の彼は、視線まで鋭くなっているではないか。少女は気圧されることもなく、薄く笑みまで見せた。
「三時まで、やね。姉ちゃんはもう中で準備しよるさかいに、うちらはここの入り口を守る。レーデンのお兄さんは道、頼むで。二人はここや」
「なるほどね。序盤で確実に落とす気っすか。――あ、オレだけじゃなくて隻さんも中堅で。
「う、うん、了解! でも隻くんはまだ――」
話が勝手に進む中、核心を突かれて隻も苦い顔になる。千理は相変わらず表情の読みづらい笑みで、むかつくほどに朗らかだ。
「百聞は一見に
睨みつけても答える様子がない千理に溜息をつき、隻はなんとか頷く。
「わかったよ。ボールである程度応戦してやるか」
「ボールって、お兄さんもしかして幻術下手なん?」
言われたくない言葉を。隻は固まっていた拳を腰溜めに構えそうになって、堪える。結李羽と少女から離れ、隻は前を歩く千理に溜息を投げた。
「おい。さっきの、理由あれだけじゃないんだろ」
配置についた隻の言葉に、千理は一瞬驚いたのか、気の抜けた笑いで返してきた。
「ははっ。さすがっすね。もしかしてオレの行動パターンコンプリートされちゃいました?」
「さあな。そこまで言うほど自分に自信があるほうでもない」
意外そうな顔をされたのが腹立たしいけれど、ボールは出さない。千理が前を向き、遠くの少女に目をやったのがわかった。
「――おかしいと思いません?」
「思うよな、そりゃ。こっちの人の気配ないんだろ。散々お前確かめてたろ」
頷く千理。足元で鼠が小さく鳴き、千理の足から耳元まで一気に駆け上がって、何か仕草をしたかと思えば消滅した。
「ご明察。あの子も霊感は多少あるかもしれませんけど、一般人なんすよね。何か引っかかるんすよ。この神隠しの空間だって、随分と新しいんです。古びた小屋なんてオーソドックスな仕掛け、ごっこ遊びしてるみたいで
「新しいのか?」
「腐葉土っすよ」
地面を軽く蹴る幻術使い。柔らかい土の下に隠れていたらしい、黒い昆虫たちが慌てて散り散りに隠れていった。
「神隠しとして『創られた』空間は、確かに現実の世界と似せて創られはします。けど、一度に多くの生き物を幻術で作り出して、動きも生態も似せて、現実と変わらない世界を作り上げるのは無理なんすよ」
「そうなのか?」
「とーぜん。まず幻生の管理ができなくなっちまいますからね。しかも虫なんて、種族繁栄で一気に野生化が進みます。種類ごとに統率者が必要になるんすよ。だから決定的に変なんです。こんなに栄養が豊富な腐葉土、いつからここで作られ続けてるんだってね」
言われてやっと気づいた。理科の実験で微生物が、昆虫が、それこそ数えたくもなくなる数でゆっくり分解し、腐葉土にすると習ったのに。
神隠しと言っても結界。つまりは幻術で創られた世界。その世界の創造物一つ一つにどれだけの時間をかけても、間違いなくここが自然界の姿を完全に再現するのはまず無理だ。
隻もそうだけれど、生物一つを幻術で作り上げ、維持するだけで普通は精一杯。二つ三つと操れる者は、術者たちの力量をピラミッドで表すなら、中層・上層の人間だ。幻術の才に秀でた者、長年創り続けてきた熟練者や相当努力し続けた者ぐらいだと教えてくれたのは、それこそ千理の弟で。
作り上げたにしては違和感がある世界。幻術で創られた
けれど新しいというのは、何かが――
「隻さん、神隠しの空間作りの方法はいくつかあるんすよ」
ぴんと指を立てられた一つ目。千理は少女から目を離さないまま、平然と伝えてくる。
「隻さんもオレの言葉である程度想像してると思います。『一から空間を創るやり方』。もう一つは、『元々ある空間を切り取って創るやり方』」
「新しいってそういうことか! ……待てよ、それなら腐葉土があるのだって普通――」
「地形全部を術者が頭に叩き込まないといけないんすから、普通もっとあの小屋に通じた細道いっぱいあるでしょ。大体、あの子が平然と歩くぐらい慣れた道っすよ? 小屋建てるための木材や機材の運搬、どうやるんすか」
言われてみればと、周囲にそれらしい細道を探すも、森が無造作に広がっているように見える。
「幻術使っても確実に人手間かかりますし、腐葉土があれだけ柔らかくて踏み固められた様子がないのも妙。結界更新が頻繁な寺にしちゃあ変でしょーよ。小屋の放置具合もいただけないって思いますけどね」
一度だけ、結李羽へと振り返る。笑顔で手を振ってくる彼女に脱力してしまうが、振り返すだけに留めた。千理へと声のボリュームを落とす。
「じゃああの子もここも、なんなんだよ。まさか幻生だなんて」
「それは確実にありえないっすね。清水の結界はきちんと機能してます。それにあの巫女さんも、人間です。原型幻術──正真正銘の幻じゃあありませんよ。まあ、オレらを試してるのか、
口の中に含むような呟き。少女を見やり、隻は言葉を探すばかりだった。
幻想生物ではない。自分たちのように幻術を使う人間ではない。
霊感がある程度で、真美という人を守る。結界更新に携わる人の気配はない。神隠しの空間。
――なんだろう。
「……つつき始めましたね。結界更新の時間みたいっすよ」
つつく?
周辺を見渡して、隻はぎょっとした。
「なんだあれ!?」
少女のさらに向こう、道の先が淡い光で満たされている。辺りを見回して、自分たちを、奥の古びた小屋を囲むように、光が取り巻いていることに気づいて絶句した。
大きすぎる。なんだこの光は――
「やっぱりあの小屋、ダミーっすね。なんだ、急
「どういう――」
「上、上」
言われて見上げ、ぎょっとする。木々の間から見えた薄く霧がかかったような空。その上を影が飛び回っている。まるで何かを探すような……
「……ここ、新しいんじゃなかったのか?」
「ここだけ新しいんかな……柱人を守るために、年輪みたいに重複して結界を張っているのかもしれないっすよ――そういうことかい」
重複結界を張るなら……人は奥? 術者が見当たらないのは、そのため――
総毛立つ金属音が響き渡った。ノコギリが金属を切り落としている最中みたいだ。耳を塞ぎたくなる怪奇音が空を満たし、千理が隣で背中を闇で満たす。
衣を纏った。
「隻さん、衣だけは剥がさないよう気をつけてくださいよ。オレらの姿が他人に見えたら激マズなんすからね」
「……あ、ああ……うわっ!?」
突風。木々が激しく煽られ、踏ん張る千理の目が鋭くなったのを確かに見た。つぅ、と孤を口に描く青年の顔は、あまりにも狂喜じみた笑みを顔に乗せている。上空を睨んだ千理につられ、顔を上げた隻は目を丸くした。
鼻高で背中には鳥の翼。人の成りと服を身に纏ってはいるが――
「縁がありますね本当!
「
少女の声が響き渡り、結李羽のさらに奥から声が響く。柔らかな光が背後から差し、少女の身に触れ、包んだ。
千理が目を見張っている。
「あれは――
「れん――は?」
聞き返すと同時、はっとした千理が素早く術を紡いでいる。
「我 闇に沈み 闇に生き 夜の住人たる者を
ずず、ずずずず
ず、ずずず、ずず……
闇が、黒が、千理の腕へと集まる。掴むような手の中に納まった闇は、黒い日本刀のようだ。
「夜の住人 名は
黒塗りの刃。反り返った刃は日の光すら黒に沈めるほど深い闇を映し、夜をそこに具現化したような――。
刀を構えず、少年がひたと見上げるは、空にて
「あれ、鴉天狗じゃないよな?」
「普通の天狗っすね。前のあれとは格が違う――マジもんで鞍馬山からの天狗だったら、ちっと性質悪いですけど。あそこは天狗の伝承でも強い奴で知られてますからね」
冷静だ。三年前ならば一人ででも打ち落としにかかろうと動いていたほどなのに。
本当にこいつはわからない。行動も、考えも。狩ることに関しては
その
「へぇ、あの巫女さんやるじゃないすか」
言われ、目を向けてぎょっとした。人が空を跳んでいる。千理を手助けしていたあの黒馬のような、生き物を使わずに。
高く跳び上がったように見える体勢のまま、天狗目がけて勢いよく蹴りを見舞った少女は、弾き飛ばされて木々に掬われたではないか。隻が慌てて駆け寄ろうとしたそば、千理に止められる。
途端に木々をミシミシと唸らせて、少女がまた弾丸のように飛び出して行く。
「あれも幻術の戦い方っすよ。術者の幻術を他人に宿して、身体能力なんかを上げるサポートをして一緒に戦う戦法です。確かにこれなら、多少霊感ある人でも戦えますけど……すっげ」
今のは本心なのだろうか。一瞬にして肝を抜かれたらしい千理に焦れ、隻も見上げて口がぽっかり空いた。
力強い拳。少女とは思えない一撃に空気が震え、鉄砲の発砲音さながらの音が響いた。さらに少女の手に光が集まるではないか。
天狗が避ける先、少女が不可思議な動きで刻んだ印が網のように鳥人を捕らえる。
「滅したる」
「
凛とした声。背後から響く声が、確かに天狗を捕らえたように思えた。
「
天狗が、消えた。