呼吸が震える。
何もしてないのに。自分じゃないのに。
きつく目を閉じた途端、母親の声が遠ざかっていった。締めつけるように握り締められていた手が緩んでいく。
振り払い、頭を抱えたくなって、感触が変わった気がした。頬に当たる冷たく固いものに驚き、はっとして目を開けると、視界が縦一直線に割れている。半分が砂利に埋め尽くされている。
何が、どうなったのだろう。
起き上がろうとして膝も肘も震える。力が入らず、次期当主に助け起こされた。青い顔のまま
やがて顔が熱く
「記憶操作は音を介してやるものが多い。視線による
頷くしかできなかった。返事もろくにできず、目も合わせられない。
目の前に茶色い何かを差し出され、ぎょっとして後ずさってしまった。気づいてぽかんとする。
チョコレート……?
「食べるといい。確か好きだっただろう」
「あ……ありがとう、ございます……」
言った覚えがないのに、どうして。
板チョコを受け取り、のそのそと食べる。まともに味がしない。飲み込んで、次を口にする度に響く乾いた音以上に、心が無感動になっている。
「いきなりで酷だったとは思うが、現実、敵は容赦なく、君に同じ手法を用いるだろう。今のような場面になれば、誰でも幻術が持つはずもない。気づかないうちに憑依を解除してしまい、そのまま奴らの餌食になる可能性も考えられる」
「……千理も……」
口を突いて出てきた言葉に、隻自身がぎょっとした。多生から相槌を打つように、促すように言葉をかけられる。チョコを食べ終えてやっと、隻は顔をしかめた。
「……あいつも同じように、兄のこと出されたりして……記憶操作されたかもしれないんですか……」
「可能性はあるな。――誰からそのことを?」
「……本人から聞きました」
ほうと、驚いた声音。やっとチョコの甘みが口の中に広がってきた。
「そうか、あいつが……」
「……半分無理やり、問い詰めたんですけど……」
「そうだろうな。幻術を使うエネルギーを全て吸い取られたのなら、あれも目にしただろう。問いたださないままであるなら、千理も、今日のように君の部屋に入り浸る真似をしなくなっていただろうな」
「……あれ、からかいに来てるわけじゃないんですね。やっぱり」
三年前から掴みどころがないと思っていたけれど、本当に掴めないのかと言えばそうでもないのが千理だ。それはおじの多生の目から見ても同じなのだろう。
「少し、休憩しよう。立てるかな」
「は、い――っと」
立ち上がろうとしてよろけた隻の腕を、力強い腕が支えてくれた。
縁側まで歩くのを手伝ってくれた多生は、不思議と今まであまり見たことがないほどに穏やかな顔だ。
ぼうっと、砂利だらけの道を見下ろしていると、多生が懐かしむように目を細めていた。
「千理はな。小さい頃は自分の兄たちを尊敬して、ひたすら真似ばかりしていたよ。歳が離れている分遅れはあったが、あいつも術者としての能力は高かった。雷駆が怒って蹴飛ばしても、周りが慌てるだけで本人はけろりとしていてな」
「事実千理もまた、強い才能を早くから開花させるだろうと、周りから期待の目で見られていた。だが何を思ったのか、千理の口癖は『次の次の当主は海理と天理だ』と、そればかりだったよ。自分は隣で手伝うのだと言ってな」
上の二人も、千理には甘やかしが酷くてな。
困ったように、懐かしむように笑う多生の表情の中に、小さな陰りがあることに、嫌でも気づいてしまう。
「小学校に行っていなくても稽古をつけ、勉強を見てやっていたよ。――海理も千理の父も、当時のレーデン家では一と二の実力の持ち主だった。天理ですら、その次だ。大人の私ですらその実力には叶わなかった」
それなのに父は、一番上の兄は死に、二男は――
死んでいるのかも、生きているのかもわからないまま、ついに十年の月日が流れていた。
「ここを飛び出すまでの七年間、あの子はずっと京都府中を捜し歩いていたよ。外の者が、私の次の当主をどうすると騒ぎ、慌てる中でも、ずっとな」
言葉が出なかった。
それに、万理の千理に対する態度に疑問も湧いてしまう。千理と三つ違いの万理なら、ぼんやりでも千理より上の兄弟のことを覚えているはずなのだ。
なのになぜ、あんなに。
「じゃあ、なんで万理は……」
隻の考えを見抜いたのだろう多生はふと笑い、首を振っている。
「万理は千理ほど、海理と天理を知らなかった。海理と天理の願いもあって、兄弟ごと幻術の世界から遠ざけたんだ」
「は!? なんで――!?」
「隻くんや結李羽さんのような目に遭わせたくなかったのだろう」
はっとした。
千理と初めて会ったあの病室で、彼が結李羽を見ていたのを、思い出した。
「じゃあ……万理は、上の兄さんのこと、知らないんですか? 全く?」
静かに、ゆっくりと頷かれた。
当時の万理の気持ちを推し測りきれないまま、隻は呆然と多生を見上げるばかりだ。
「ああ。父の顔も知らなかった。あの子にとっては、初めて顔を合わせられたのは遺影になってしまった」
兄たちは、万理が成長してからその世界と自分たちの話をするつもりでいたそうだ。
千理が早くから幻術の世界に憧れたことに、兄たちは心配を覚えていた。一番上の海理は危機感を持って、多生に万理から離れることを相談しにきたそうだ。
当時まだ小学生の子がそんな決意を固めていたと知って、隻はぞっとした。
そこまで弟のことを案じて、彼が成長してから会うと決めたのに。
父と一番上の兄は、棺の窓を隔てて弟に会うことになってしまった。
「その上、一番上になった千理は、自分は当主にはならないと言って兄を探し続けた。結果的に万理が分家の当主候補に担ぎ上げられ、苦しんでいる」
ついには、父親のことも、兄三人のことも、元から赤の他人だと自分に言い聞かせるまでになってしまったのだという。
その兄や父との思い出を大切にする千理を、許せなかったのではないだろうか。
――千理は恐らく、万理のことをちゃんと見たことがないのだろう。
「あんさんも相当っすね」なんて言葉、自覚がなければ出ない言葉のはずだ。
「千理が家を出たその時も一番冷たかったのは、万理だった。あの二人は見ている世界が違うだけで、本質は同じだよ」
「……六人兄弟だって聞いたんですけど、下の二人は?」
「あの子たちは養子に出してしまったんだ。この家の守りが薄くなった以上、赤子が狙われるのは当然だった。これ以上を防ぐ前にと、物心つく前に、私たちの判断で他の家に頼んだんだ」
うちの跡取りまで、あんなことになったりでもしたら
……そんな言い方、ないだろ。
他人事を他人事で終わらせないなら、他に言葉があったはずなのに。
多生が腰を上げている。驚いて見上げた隻は、慌てて立ち上がろうとして抑えられた。
「長話をしたな。よければこの話、君の心の内に留めておいてくれ。今日の修行はここまでだ。風呂でゆっくり体を温めてきなさい」
「――はい。あの、ありがとうございました」
気にするなと、あっさり去っていく姿を見送る。姿が見えなくなってやっと、隻は自らの頬を力強く叩いた。溜息までこぼれてしまう。
「……らしくねえー……え?」
視線を感じて振り返る。ぼうっとこちらを見てくる青年の目が、少し気遣わしげに笑んでいた。
その後ろに、茶髪の髪の少年が引っ込んで見えた。
「――うん、聞こえてたよ。千理、隻さんと結李羽さんにちゃんと話せてたんだなあ」
響基の懐かしむような声は、どこかほっとして聞こえた。隻はもらった茶に目を落とし、寝て浮く茶柱を見つめる。
「響基も知ってたんだな」
「うん。まあ――少しは。俺は海理たちが死んだ前後は会いに行けなかったから……十年経つんだなあ……」
「お前から見たその海理さんって、どんな人だったんだ?」
あまりに懐かしさを滲ませた声にそれとなく尋ねれば、響基はきょとんと振り返ってきた。その横で、少年が何度も隻を見上げては、目が合うなり響基の後ろに引っこんでいく。
……人見知りだろうか。あまり声をかけないほうがいいかもしれないし、隻にその余力はまだなかった。
「どんな人……うーん、そうだな。改めて聞かれると……俺はさほど海理との思い出はないから。――悲しい音をたくさん作った人だよ」
あの頃は本当に、とだけ響基は続けた。隻はまた茶柱に目を落とす。
そんなに
「……思い出はなくても、そうやって呼び捨てにできるぐらい仲がよかったんだろうなってのは、わかった。――多生さんも随分かわいがってたんだろうなってのも」
あんなに懐かしんで、まるで自分の子供の話に錯覚するほどの言葉は、自らの子同然にかわいがっていたとわかる。
わかるのだ。
「……千理、天理さんのこと諦めつかなくて、東京に出た話も聞いたよ」
「それは……うん、そうかあ……千理もなあ……その件については、俺から言えることはあんまりないな」
「そっか。言わないでくれるのは、言っておいてなんだけど助かる。――あいつの口からちゃんと細かいこと聞かない内で判断するのは、やっぱ違う」
きょとんとして、響基は眉を寄せて笑った。難しい顔をして笑うものだ。
「隻さんはちゃんとしてるなあ、翅にも見習わせたいくらいだ」
「そうか? ――いや、翅と同列かそれ以下になるのは確かに嫌だな。けど、俺は別にちゃんとしてねえよ」
「いやいや、十分ちゃんとしてるよ。報告連絡相談はまめだし、書類はちゃんと書くし、誰にでも礼節があるしな」
「……社会人になった以上基本のキって言われるレベルのことだよな? あいつやってないのかよ……?」
「え? 気づいて――ああそっか、隻さん聞こえないもんな、多生さんのお怒りの言葉……まあ千理よりマシなんだけどなあ」
それはつまり、千理よりマシなだけであると聞こえるのは隻の耳の問題だろうか。響基はちらりと、隣で小さくなっている少年を見下ろした。
「サトシもそう思うだろ?」
「同意です。同意以上の言葉がないです」
思った以上にはっきりと言う子供だったようだ。中学生か高校生ぐらいの子だろう。ずっと響基の隣で小さくなっていた彼は、利発そうな顔で自分の湯呑みと
ちゃんと口の中のものを空にしてから喋る辺り、確実に自分なんかより礼儀正しい。
「それでサトシはいつ自己紹介するんだ?」
「むぐ――げほ、ごほ!」
「あー……いや、それ俺が先にすることだよ。ごめんな――」
出会った頃の万理もこんな手……だった、だろうか。消毒液とピンセットの先の脱脂綿ばかり思い出す。
「げほ――すみません。あの、ぼくの方から言うべきなんです。
「それ言うなら俺も新参者の養子だからな? ――こっちの幻術使い、なんだよな?」
「はい。
深々下げられる頭に、隻のほうが驚いて肩が跳ね上がった。その途端に湯呑みの茶が多少零れても気にならないが、響基の笑みがまったりとしたものになる。
「い、いやそこまで頭下げるな!?
「いえ、そういうわけにはいきません。レーデン家では実力主義かもしれませんが、ぼくの家は年功序列主義です。たとえ就業年数が違えど、隻さんに礼節を欠くことは
「そ、そっか……ど、どうも……そんな俺相手に
武士みたいな子だなとさえ思っていたら、響基が一瞬すっと眉を平たくして見てきた。
「――畏まられるのが苦手、っていうわけじゃなさそうだなあ。嫌なのか?」
「……お前エスパーか?」
「超能力者じゃないよ。音で心臓のリズムや筋肉の動きが聞こえるからなあ」
エスパー級だ。隻は苦いものを飲んだ思いで、首の裏を掻く。
「……まあ……体のあちこち
問題児だからと言いかけて、そっと飲み込んだ。
響基から問いこそ来なかったが、その奥でサトシが首を捻った。
「でも、翅より礼節がしっかりしてて考えがまともな大人ですよ。十分尊敬できる人です」
「サトシは……ストレートだなあ」
「……本当にな」
何か違う方向から槍が刺さった気持ちだ。大人という言葉に、今さらながら視線が砂利の上へと向く。
――大人、か。いつの間になったんだろう。
いつからなったんだろう。
まだ半人前の自分は、いつから大人の仲間入りをしたのだろう。
「……まだ先と思ってたのにな……修行、頑張らねえと」
「頑張らなくても大丈夫だと思います。翅があんなですから」
響基が隣でぶっと笑った。茶を飲んでなくてよかったと思いたくなるほど鮮やかな吹き出しだった。
隻は一瞬にして真顔になって、そっと少年を見下ろす。
「ありがとな。自信ついた」
「お役に立てたようで何よりです!」
この純粋で力強い自信だらけの笑みを、自分は守っていけるといいなと感じた隻である。