「隼! 母さんが呼んでる――えっ」
「あ、うん。行く」
「行くって、ちょっ、どうするんだよこれ!」
泥だらけのバスケットボールが、そこにあった。
玄関に置き去りにされたそれを見て、置いて行かれた隻はたまらず自分の部屋へと一目散に走る。扉を閉め、開けられないよう扉にぴったりと身を寄せて座った。
また怒られる。隼がどこからか持ってきたって言っても、絶対怒られるのは俺だ。
案の定大きい足音が二階まで上がってきた。ノックされた音にびくりと体を震わせ。必死で小さな体を扉に押しつける。
「隻? ちょっと、出てきなさい」
「……な、何……」
「ボール買ってもらったの、あなた知らないでしょう。一緒に仲良く使ってね。あなたもバスケ、好きでしょ?」
気が抜けた。一瞬のうちに、視界がぐしゃぐしゃになる。
「隻、返事は?」
「……うん」
ありがとうとまで、言えなかった。
言いたくなかった。
ぽっかりと、何かが抜けてしまったような感覚が胸を支配する。小さな足音がやってきて、母に「あら、綺麗に洗ったわね」と褒められている。見せたものごと双子の兄が自分の部屋へと向かっていく音も、遠ざかっていった。
学校でもただひたすら、怒られ続けた。
「
「え――? ま、待ってよ先生、俺じゃ」
「また隼に押しつけるのか!? 中学生だろう、いい加減責任という言葉を覚えないか!」
怒られるのは、常に自分だった。
遠くで仲間と何事もなく笑う隼へと目を向けても、ふいと何も知らないように顔を逸らされるばかり。誰も助けてくれない
頭がよければ、普段がよければ何も言われないのか……?
頭悪かったらそいつが問題児なのかよ……!
ずっと抑えられていたリミットが外れたのは、別に今に始まったことでもなく。
「――いいよ、謝ればいいんだろ……」
「反省もないのかお前は。兄はあれだけ頭がよくて真面目なのにな」
これ見よがしに吐き捨てられた言葉に、拳が固められた。
頭はいいさ。
頭は下げない。下げる必要すらない。自分が悪くないことは自分が一番よく知っている。
「で、俺が何したって?」
「忘れたって言うのか」
「ああ忘れたよ、そもそも知らねえから!」
初めて心から怒鳴った瞬間だった。
教師と散々口論した。掴みかかられたのは自分だったのだ。自己防衛しただけなのに、教師を殴ったと親まで呼ばれた。
問題児のレッテルを貼られた。貼られたからどうだと、もう気にもしなかった。
周りの陰口も睨んで黙らせた。バスケでの友人だけが唯一わかってくれていた程度で、それ以上の介入はしない。
当然だ。隻よりも隼のほうが、バスケも人付き合いも上手いから。レギュラーだから。
ほんの少しの差で弾き落とされたたった一つの椅子は、随分と高い場所にあったのだ。他のどこかに自分の椅子なんてない。なのに何も知らない連中からは「兄を
比べられるだけで自分の場所はない。映りの悪い鏡みたいな扱い、誰が喜んでされに行くだろう。皇女に彼女の美しさを延々語らされるだけの、魔法の鏡なんかじゃない。鏡だって正直に自分の意見を言えたのに。
学校から帰る時にそのことを溢した友人は、一人っ子だった。友人は「兄弟がいることは羨ましいけど」としか言わない。それ以上を言う必要がないから。
一度そいつから教えてもらった先生は、笑って隻に問いかけてきた。
「隻、お前いつも隼のいたずらを肩代わりされてばかりだったんじゃないか?」
「――な」
見抜いてくれた先生は、笑って目を指してきたではないか。
「お前の目、世の中の人全員を疑ってる目してるぞ」
地獄に仏のようだった。
その国語の先生は、元は学童の心理カウンセラーを目指していたという。研修を受けるうち、全体の流れを変えることを望んで、その先生は教師になったそうだ。
そんな先生でも、この学校では肩身が狭かったのだという。
だからこそ、隻を知ってよかったと言ってくれた。その友人にまでありがとうとまで言っていたほどに。
最初は反発して、授業を抜け出した。その度に、空き時間中に隻を見つけては引っ張り回すその先生に、尋ねたこともあった。
「なあ先生。どうして俺のこと、気にかけるんだよ。余計肩身狭くね?」
「元が狭いんだ、慣れた。あとな、俺の部屋汚いから余計気にならないな」
関係ねぇー……
丁度コンビニに買出しに行くからと、バスケ部の帰りに一緒に歩いてはいるものの。車通りの多さに咳き込む先生を見、隻はげんなりして、道端の店をぼんやり眺める。
「部屋ってのはな、その人の心の余裕だな」
「また始まったよ……国語
「ははっ、いいだろ俺の話。聞き
こういうところは国語教師とは思いがたい。笑う先生は、慣れた様子で手持ちの紙を中空で折っていく。
「部屋が汚くて安心する人っていうのは、元々自分にゆとりが持てない人だ」
ただの紙切れが、しっかりした折り目の
「完全な部屋の中にいるとどうしても、余裕がない自分が浮いて浮いて仕方なくなる。逆に綺麗に整頓された部屋が好きな人は、きっぱりはっきりと物事を完結させられる人だ。それだけ自分にも自信がついてる人が多い」
「……結論」
「今のお前の部屋、汚いだろ」
車が排気ガスを二人に浴びせて去っていった。大型トラックが震動だけ二人に届けて、荷物をよそに運んでいく。
隻の頬が
「あんたあれだけ
ぎゃんと吠えれば、先生は笑い飛ばした。
本当にこれで国語教師かと言いたくなるぐらい腹が立つ。おまけに、先生から鞄ごと突き飛ばす勢いで背中を叩かれ、隻は思わず呼吸が詰まる。
「汚くていいだろ部屋なんて! 余裕なくてなんぼだ。お前はそれだけ余裕がなくても、周りをしっかり見ようってできてるんだってことだ!」
「……論点ずれてる……ってぇ……!」
「まあ一つ言えるのはだ」
もういい面倒だから。
「もうお前は怨まなくていいんだ。恨んで世界が変わることはなかったろう」
鼻で笑い飛ばしたくなった。それができるなら、最初からしている。
「隻の字、先生にも子供がいたらつけたいって思うなぁ」
「はぁ?」
「一人とか、一つとか、一羽を表す字なんだが。ご両親はこうつけたんじゃないか?」
よく言われる言葉だと聞き流そうとして、思わず言葉に詰まった。
「――」
言われたことのない意味を、先生は口にしていた。
車の音すら遠くから聞こえた気がするほど、先生の言葉ははっきりと聞こえた。
「お前の字に怨めっていう言葉はない。ご両親は確かにお前のことをきちんと見やれてないかもしれん。だったら、今のご両親に尽くさんでもいい。兄ちゃんに尽くさんでもいい」
ぎょっとして、足が止まった。
教師は常に、「親を大切にしろ」とか、「兄を見習え」とか、そればかり言ってきていたのに。
「お前は不出来だ」とか、「隻はダメな奴」だとか、言ってくる人種がなる職業と、思っていた。
「ただな。お前がこのまま荒むことは、一生を賭けてお前を産んでくれた親の、その時の本気を滅多切りにしてるんだ。お前を産んでくれた昔の両親に、『生まれてきてくれてありがとう』って心から言わせてやれ」
「……結局、いい子≠ノなれってんだろ」
「違う違う。犯罪さえしなけりゃそんなもんにならんでいいさ」
耳を疑った。口が半開きどころか、あんぐりと開いた。
その国語教師は、からからと笑うのだ。
「全員同じ型に
それは――そうだ、けど
「人に迷惑さえかけなければ、後は自由なんだ。自分の進みたい場所を他人に譲り渡すなよ。堂々と顔を上げられる歩き方をしていけ。バスケだってそうだろう? 得点を入れるなら、ゴールを見上げて投げなきゃなあ」
それを、許してくれるのか。
それを、やっていいと言ってくれるのか。
「
「……教師のご高説じゃないだろ、それ」
「はははっ! 確かになあ。人生の先輩からの助言なら問題ないだろ」
なんだそれ
バカみてえと本気で言いたかったのに、バカすぎて笑えた。
大人の言葉に耳を貸さない子供に、一部だけを聞けば背徳一歩手前の凄まじい説教をする教師は、くたくたのシャツで、恰好なんて全くつかない姿で、笑って歩いている。
「バスケの強いあそこに入学する気だろう? 先生は国語と英語ぐらいしか力にはなれんが、頑張ろうな」
「……いろんな意味で教師じゃもったいないだろ、先生」
「お、
「惚れるかバーカ。あとコンビニ過ぎてんぞ」
おおっ! 慌てて振り返った先生の、本気で焦った背中を見て、笑い飛ばしてしまった。
「――な、昨日まで志望校違うって言ってただろ!」
「もう願書は出てるのよ。またごたごた言わないでちょうだい」
疲れた様子で溜息をつく母に、口が震える。
まただ。なんで、もう違う場所にいられると思ったのに――!
後ろから聞こえてくる足音が、扉を開けた。廊下を飛び出し、足音の主を突き飛ばす。部屋に戻り、壁をこれでもかと殴りつけた。
その跡も、もう何度壁をへこませてきただろう。
「……またかよ……!」
隻の字、先生にも子供がいたらつけたいって思うなぁ
自分の進みたい場所を他人に譲り渡すなよ。堂々と顔を上げられる歩き方をしていけ
「――やってやる」
恨む時間が必要ないなら、どうすればいい。簡単だ。
やる気に転化させるだけだ。昔からやってきたのだから。
バスケが伸びなかったらどうしたらいい。簡単だ。
高く飛べばいい。強く地面を蹴ればいい。相手の動きをより正確に読めばいい。技術を上げればいい。
「隻、ご飯よー」
「後で食うよ勉強する!」
声が返ってこなかった。
次に返ってきた声に、隻ははっとして瞬きした。
「よく感情を抑制した。と言いたいところだが――」
目の前にいるのはと言えば、今の教師である
中空に書き物をする格好で、手が止まっていた。
瞬時に顔が赤くなり、体が震える。
「あ……そ……そ、その……」
「プラスの感情に転化するやり方がよかったな。その後幻影を振り払えるか。なるほど。確かにこれならば、記憶操作から抜け出す余力を作ることも可能だろうな」
いやそんな考えてやってないんですけど……!
喉に残っている。「勉強する」と声を張り上げた感覚が。
いくら錯覚でも残っている感覚はとどのつまり、現実でも体が動いていたという証明であって。数学でも算数でも習わない方程式ではあっても、経験則という名の解が、そこにあるのでは言い逃れの欠片もできそうにない。
「今日はここまで。次は千理の修行をつける」
「は、はい。ありがとうございました……そ、その、先生」
修行中は必ずそう呼ぶことを決めていた隻は、ぶっと噴き出す多生に顔が
「私のことは名前でいいだろう。――いい先生に出会えたな」
「……ダメ教師っていう名の、ですけど……っつか、今言わなくていいでしょ!」
思いっきり笑い飛ばされた。去り際、仲居から茶をもらって一服する男性を睨みつけるまではできず、顔を背けて真っ赤になった頬の火照りを落ち着かせようと深呼吸する。
……ダメだ、呼吸まで震えてろくに治まらない。
「なんなんだよ……! そんなに微笑ましいかよ……!」
大爆笑するほどに。にやけるほどに。茶を噴くほどに……!
「いーやぁ微笑ましいっしょやっぱ。ふぐぅっ!? せ、隻さっ、たんっ、たんま不可抗力っすから、聞いたのは!! いやボール投げんなっつの!?」