「ありがとうね、隻くん。それから――」
「あー……千理って言います。千の
恥ずかしげに笑う千理に、隻は生温かい顔で見下ろす。無事に想耀とも合流でき、結李羽の両親である荻野夫妻の家で茶までもらってしまっていたのに。
「お前バカだろやっぱ」
「ひっでー! だから言ったでしょうよ、バカって言うならカバに謝らないといけないんすよ!?」
「だからいつの小学生だよお前! いい加減歳と恥を考えろよ!! ほんっとうすみませんこんなアホつれてきて!!」
「あっ……アホまで……! 断固抗議っすよマジでもう! たっ、たんまボールなし!!」
ギンと睨みつけて黙らせた傍、結李羽の母はおかしそうに笑っている。
「いいのよ。賑やかでいいわねぇ、男の子って。千理くん、いい字をもらったわね」
「あ、あざーっす! ほらねオレアホじゃないんすよ――あだっ!?」
「名前でアホだのどうだの言ってねえよ、行動のことを言ってるんだよ気づけ! ――それで、準備は大丈夫ですか?」
結李羽の父が頷いてくれた。最初は想耀を見て本気で腰を抜かしていたという彼も、今はそのシマリスの頭を撫でて和んでいるではないか。
「結李羽から連絡をもらってね。この子が来て確信できたよ。結李羽は今どこに?」
千理がぎくりとした。隻も一瞬言葉に詰まるが、すぐに口を開く。
「あ……その、代わりに俺の家に行ってもらってて……」
「――そうか。気にするなよ、隻くん」
「す、すみません……」
なんで謝る必要があるの。母がおかしそうに笑っている。
「あなたが悪いわけじゃないでしょう? 理由、あの子から少し聞いたわ。悪いとは思ったんだけれど」
手の平に力がこもってしまう。
ということは、あのことも――
「今改めて言えるわ。君は問題児≠カゃないのよ」
目を見開いた。
千理が嬉しそうに、自信満々な様子でこちらを見てくる。結李羽の母も千理へと微笑んで、こちらに頷いてくれた。
「結李羽があんなことをしても、あなた許してくれてたじゃないの。あなたはあなたの世界の人≠凄く大切にしているわ。だからこそここに来てくれたんでしょう? だから、私たちはあなたに結李羽を任せられるの」
「君が
でもあのプレゼントは、まだ――
言いかけた言葉をぐっと堪えるしかできない。
「当然っすよ。オレの兄ちゃん≠ネんすから。問題児なわけないっすよ!」
――隣は隣で、随分と調子がいいし。
おいと不機嫌気味な声を出したのに、荻野夫妻は目を丸くした後笑っているではないか。
「ふふっ、そうねぇ。結李羽のことよろしくね、弟くん」
「まっかせてくださいよ! 隻さんの兄弟子なんすからね!」
「兄か弟か、いい加減どっちかはっきりしろよ」
笑い声が増える。大きくなる。ぐったりしかけた隻は、そんな時間じゃないと慌てて表情を変えて千理を睨む。
「それより本当にこの周辺は大丈夫なのかよ」
「あらあら、お兄ちゃん厳しいわね」
「本当っすよねーあだっ!? ちょっと待ってなんでオレ!? と、とりあえず移動するのおやっさんに連絡しますね。想耀よろ」
『あーい、じゃあまたね、おじちゃん』
「ああ。行っちゃうのか……」
可愛いもの好きか結李羽の父さん!!
想耀が幻術の世界へと一度帰ったのを見送りつつ、別な意味で衝撃が抜けず結李羽の父と目が合う。茶目っ気たっぷりに笑われてもぞっとしない。
窓に固いものが当たる音が響き、素早くリビングの椅子から立ち上がって窓を睨んだ隻は目を丸くした。
雀だ。人間と目が合ってもじっと見つめ返してくるなんて、おかしい。ベランダの前で右往左往し、また窓を叩いてきた。千理が納得して窓へと近寄る。雀は逃げない。
「さーとーこちゃん」
ガツンッ!!
隻だけではない。結李羽の両親も心底固まった。
雀の本気の体当たり、初めて見た……。
しかもスカスカの骨でできているはずの雀は、痛くも痒くもなかったかのように、小さな翼を羽ばたかせて威嚇のポーズだ。
窓を開けてやれば、雀は案の定千理をいやと言うほど突かれている。白髪を発見されては勢いよく抜かれて千理が悲鳴を上げ、隻はぽかんとした。
「お前白髪あったのかよ」
「ってぇ……苦労してます!!」
苦労より日頃の不規則極まりない生活リズムのせいではなかろうか。
テーブルに飛び乗る雀は一度白髪を足元に置いた。清らかな鳴き声と共に千理を見上げている。彼に意思疎通を図ろうとしているらしい。千理も頭皮を押さえながら頷いた。
「――な、なるほ。とりあえず若白髪抜かないでって主人に言って。そっち向かうんで。じゃないと焼き鳥にしますよこんちくしょう」
けたたましく何度も鳴き始める鳥は、絶え間なく水笛を鳴らしているようだ。さすがにこの意味はわかる。隻は生温かい顔で千理を見下ろした。
「お前、バカにされたよな」
「されましたね鳥に。くそう物覚えのよさなら折り紙つきっすよ……! 翅たち、隻さんち見つけたらしいっすよ。んでまあ……お母さんがついにフライパン手に」
「だから
慌てて飛び出そうとしたその時、千理が慌てて「いやそうじゃなくて!!」と止めてくる。
「昼食作って待ってくれてるそうなんすよ!!」
「――
よく見れば、もう二時を回っていた。
「あった、あれでしょ!? 雷駆、よろっすよ!」
『調子づくな。姿勢を低くする。気をつけろ』
憑依連身で雷駆に宿っていた隻はわかったと声をかける。頭上で同じように千理たちも。隻が馬になったと朗らかに楽しんでいた荻野夫妻の肝の据わりようには舌を巻いた隻だが、なんとなく、結李羽の育った家なんだなと温かさも感じていた。
ふとよぎった翅の顔に、苦い顔になった。確か、翅たちが向かった隻の実家は、昼食を用意していると……。
「……母さんたち、本当に殴られたのか……?」
隻の家族が殴られるよりむしろ、翅たちのことだ。家の飯が尽きるほどに、もりもりと平らげていそうで、なんだかいたたまれなくなった。
小さな庭、というより車用の駐車場へと降り、千理が先に飛び降りる。結李羽の両親を降ろしてもらい、隻も憑依連身を解いてやっと、地上に足をつけた。足元で爆ぜる電気の流れを感じなくて済む世界に安心すら覚える。
雷駆がこちらに頭を下げてきた。
『隻よ。想耀はもう呼び出せるか?』
「え? ……ああ、まあ。もう絵描けるぐらいにはなんとか……」
むしろ雷駆を描ける自信のほうがある。黒馬が『この件が終わり次第、我か想耀を呼び出せ』と伝えてきた。理由を察して黙って頷き、千理が雷駆を還したのを見て苦い顔になる。
雷駆が話をしたがるような様子を見せる内容なんて、一つしか思い当たらない。
同時に千理と連身をしたあの時の記憶が頭を掠める。
次期当主の多生が言っていた、記憶は本人の意識の中では忘れたと思っていても、脳には刻まれているというもの。そして幻術で作り出された生物や意思ある武具らは、その主人の記憶が反映されて作り出されたものだとも。
千理が作り出した無月を思い出し、眉間に
急に衝撃を食らって地面に倒された。目を白黒させて胸元にしがみついている誰かを見やり、ぎょっとする。
「よかったぁ……ありがと、隻くっ、ありがと……!」
「ユリ……!? お、おいどうした!? ユ、ユリ! ――ちょっ、お前ご両親見てるっておい!! 落ち着けよ待てって、泣くな!? わ、悪かったよ、な!? 泣くなって――おい!!」
「泣かせるなんてさいてー」
にやりと笑いつつこちらを見下ろしてくる青年を睨みつけ、かっとなって衣を出そうとして――結李羽に気を取られ焦る。
「翅てめえ!!」
「ダイヤモンドボールさいてー」
「上等くれてやる!!」
「隻!?」
鋭い声に体が強張りかけた。走ってくる音が玄関を飛び出し、こちらに向かってくる。その音が隻の視界に入ってくる前に、結李羽が一度だけ強く抱き締めてくれた。
すぐに離れた彼女は、そっと隻を助け起こしてくれた。気まずくなったけれど、それでも結李羽の頭を撫で、大丈夫だと伝えられるほどには、不思議と落ち着いている。
別に予想していなかったわけではない。サンダル姿で、エプロンをつけて、髪を結べるほど長くもない髪を一生懸命バレッタで纏めた母は息を切らして見下ろしてくる。
顔を背けかけ、それでもやや睨み気味に母を見据えた。
一度だけ身を竦めたのは、隻ではなく母のほうで。
それである程度察することはできた。そう思って翅を見やれば、彼は手を振って「違う」と伝えてくるではないか。
戸惑いながらも母を見た途端、母の口元がきゅっと引き締まっていた。
「……お帰りなさい」
「……ああ」
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
ただいまと言うのも違う。久し振りと声をかけるのも合わない。
家に帰ってきたというより、他人の家にやってきたような感覚しかしないのだ。
「支度、できてるのか」
「……まだお父さんが手間取っているのよ。避難っていっても一時的なんでしょう」
固い声。
隻よりも強張った声にはもう、怖いと感じなかった。むしろ感じるのは
「そう手間取るものもないだろ。特に趣味多いわけでもないし。写真ぐらいで」
「本当にね……全部持って行くだなんて言い出すんだから。トランクに一枚一枚整理し直すなんて、むちゃくちゃだわ」
こんなにこの人、小さかったっけ……
疲れた顔をして、やつれて、歳食って。幻術の記憶操作で見せ付けられた全てに出ていたこの人は、こんなに小さかっただろうか。
あれだけ大きかったのに。怖かったのに。
「……あいつは。いるのかよ」
「ええ。あなたの部屋のもの、必要なの出してやらなくていいのかって……もう必要なもの持っていったはずだからいいでしょうって言ったんだけど……」
言いよどむ母にまさかと顔が引きつる。慌てて上を見上げた瞬間、隻の部屋の窓が開いているのが見えた。
叫びそうになって堪え、結李羽が慌てて手を掴んできて、加減して握り返す。
大丈夫だ。大丈夫だ。
どうせ大したものなんて――
「やっぱりな。おーい、隻。忘れすぎだし埃被せるなよ」
ベランダから、金色の光が跳ね返って目を射る。
眩しさに細めて顔を強張らせた。
高校大会のトロフィーを握る全く同じ顔。抑えていたものが全て口を突きそうになったその時、響基が同じ場所からひょっこり顔を出してくる。
「すっげえ、隻さんトロフィーの数凄いな!
「そこか!? トロフィーにまでそこか!?」
いつもの勢いで言い返して、隻ははっと気づいた。
埃まみれ? 嘘だろう。それならどうして、あんなに光が跳ね返って――
「何をおっ、トロフィーのフォルムは綺麗な音が出やすい設計だぞ! ワイングラスを使った音楽芸術知らないだろ、あの音を美しく出せるぐらい理想的なフォルムなんだよ! ああああ埃被せるなんてもったいない!!」
「お前語るなあ。なあ、後でギターのチューニング頼んでもいい?」
「任せろどんとこい!! 手入れから指導してやる!!」
「げっ、おれ片付け得意じゃねえぞ……」