「ここよく使う抜け道なんすよ。人通り少ないからぶつからないし」
病院へと続く細い路地裏。車は通れないが、人の行き交いにはさほど問題がないように見える。それこそここの一本隣の道路に出れば、果物でも昼飯でも買えるだろうに。
そんなに大きな家が立ち並ぶわけでもないのに、やけに薄暗い道だ。精々二階建ての家ぐらいしかない。病院の塀に程近いとはいえ、こんな密集した住宅地の裏道なんて、なんで選ぶのだろう。
「……一本道間違えてるんじゃないのか?」
「もうすぐですって。信用ないなーオレ。どんと頼って乗ってくださいよ!」
「
「えっ、ひど!? ひどいよーこの人。水先案内人に喧嘩売ったらただじゃ済まないんすよ!」
「売る前から済んでないだろ。そうじゃなきゃ昨日窓から入られてないよな」
「うーわーそーでした」
がっくり
「でもね、頼るぐらいはあっていいと思いますよ初対面でも!」
「初対面で頼ったらゴミ捨て頼まれて、明らかに食い残しの朝飯もらって、職業病を疑うぐらいに会話がかみ合わないのにな。大体朝っぱらからこんなジャージ姿でうろついてる不審者じみた奴に、ここまでついてきた俺は褒められていいだろ」
「……今度服、真面目にリサーチしてきます。部活中の学生に紛れてたつもりなんすけど」
「どこがだよ……その格好でよくコンビニで警察呼ばれなかったな」
見事に落ち込んでいる。おかげで
「いや、ね? さすがに寝巻きで来るのはまずいとは思ってたんすよ?」
「はっ!? それ寝巻き!?」
「あ、いや違う! 寝巻きは違うジャージですから!」
「ちょっ、あんたジャージから離れろよ!! どこのニートだいったい!」
「ひっでー、ジャージ
「目立ってるだろ、街中でのお前の視線見てみろよ! まだ黒Tシャツにジーンズのほうが目立たねえよ!!」
「え、うそん。そんなバカな」
「嘘じゃないしバカだろあんた! 救いようのないバカだろ!!」
「うっわーひっでえ! バカって言ったほうがバカなんすよ、カバに謝ってきなさい!」
「カバッ……いつの小学生だお前!!」
互いに息を切らし、睨み合う。ここまで主張が合わない奴とも思わなくて、隻は脱力した。途端に、千理の笑い声が
れ出ている。
「くくっ……はっ、ははっ……!
「……
「いやいや、最上級に褒めてます」
相手はひたすら笑いこけている。こっちの気も知らないで。
やっと笑いが治まってきたのか、緩んだ顔でこちらを見てきた。
「そんじゃあ、服の指導お願いしますよ。オレ見ての通りなんで」
「……俺もセンスあるほうじゃないんだけどな……」
「まったまたぁ。
しばし黙る。黙って、微妙な思いばかりが渦巻いた。
なんだか、上手いこと引っ掻き回された気しかしなかった。
ふと千理が立ち止まる。遅れて隻も止まり、少年へと振り返った。
「どうした?」
「んー……このままじゃあ病院だから面倒だなぁと」
「はぁ? 病院に帰るから向かって――」
羽音。
黒い翼と前に突き出た長い鼻の面で顔を隠した小人。その背に大きな鴉の翼が生えている。高下駄に、歌舞伎役者が着るような修験者風の和服。よく見れば頭は黒い羽に覆われているではないか。
何度か絵本や小説で出てきた、誰でも知る特徴に、隻は愕然とした。
「て、
「
またわけのわからない単語に、隻は振り返り、さらにぎょっとする。
千理の周辺の影が、塗り潰されたような闇に変わっている。本人は平然と腕を持ち上げ、懐中時計を取り出した。
「――まあ、この時間だからケリはつけられるか」
「は――?」
「隻さんは病院まで走ってください。ここにいたら死にますよ。恐らくこいつが呪縛り――神通力使った張本人っすよ」
目を見開き、頭上へと振り仰ぐ。鴉天狗は平然と屋根瓦の上で、片足だけで立ち睨み据えてくる。手に収まる葉団扇がかすかに揺れた。
にっと笑う千理の目つきが鋭く変わる。
「そんじゃ、
「ちょっ、おい!」
「我 闇に沈み 闇に生き 夜の住人たる者を
ず、ずずずず
ずず、ず
影の中から、光へと姿を現す黒馬。足先は雲のようなものに隠され、頭には一度歪んで前方を貫くように延びる角を頂き、黒い稲光が
「夜の住人 名は
馬が高く
「お、おい」
「駆れ」
千理の姿が溶けるように消えた。けれど馬だけは、確かにそこにいる。
隻が絶句した次の瞬間、馬は高く鳴くと一直線に、空を駆け上がって天狗に突撃する。
雷鳴。閃光と強風。
鋭く風が吹き荒れたかと思えば、馬の足元を隠す雲から黒い稲妻が天狗に襲いかかり、天狗は背中から大きな扇を取り出して食い止めたではないか。
〈葉団扇を使ってくるか――はっ、三下ってことかい。羽の団扇持ってから出直せやい〉
ぞっとするほどの冷たい声。耳で聞こえたわけでもないのに、身を震わせたくなるほどの冷気を纏った声に、隻は目を見開いた。
「千理!?」
〈あ? ……あー……近くいたら巻き込まれるっつったっしょ。病院には昼の連中も通院者に紛れて見回り行ってます。早くしないと、羽根針食らって死んじまいますよ〉
「けど」
〈あんさんが死んでぇー〉
低い声。一度だけ復活した、あの飄々としたバカっぽい声が、また冷気を纏っている。
〈一番悲しむのが誰か。何人いるか。よぉーく数えろ〉
風が、隻を宙に投げ出そうとするかのように、なぶってきた。
大きな
〈
羽根が、黒馬に突き刺さった。黒い水が幾滴も風に乗って、隻へと降り注ぐ。
目を見開いた。黒い水がぞっとするほど生温かく、舌に乗った瞬間背筋が粟立った。吐き出しかけて
ぎょっとして顔を上げた。上げると同時に喉が焼けるように熱くなる。
「な……がっ……」
〈つぅ……あーもう気が散る! 隻さんさっさと――え、あれ? ちょっ、隻さんどうしたんすか!? くそっ!〉
気持ち悪い
頭が痛い
大きな羽ばたきが真っ直ぐ自分に向かってくる
黒い稲妻が、鴉天狗の影と繋がった。すぐ目の前に落ちてきた鳥人をなんとか確かめた途端、頭痛が止む。黒馬が間に割り込んできて、後ろに庇ってくれる。
〈あーもう! さっさと逃げろっつってるのにもー! オレのかっこいいセリフの後『後は任せた』ぐらい言えないんすかあんさん! くっそ、頭くらくらするよこっちまで……〉
黒馬から黒い水がまだ滴り落ちている。まさかと顔を引きつらせる隻も膝を立てることすらままならないのに、なんて無茶を言ってくれるのだろう。
「……それより、そ、それ……」
〈ん、オレらの血っすね。……れ? ねえ、隻さんちょっと待って。あんさんまさか〉
「やっぱりお前のか……! 逃げるならお前だって」
〈いや神通力使われたら逃げるも何も! ……ねえ、そうじゃなくて。隻さんまさかオレの血見えてる? っつぅか、やっぱり雷駆見えてるんじゃないんすか? ねえ!?〉
「見えてるよ! お前の血浴びたよ飲んじゃったじゃねえかよ!!」
〈はいぃ!? うっそ冗談きっつー! うわお!?〉
鴉天狗が片羽を扇いで羽根針を飛ばしてきた。避けられるわけもなく、
こんな量出して、体が持つわけがない
黒馬が弱々しく鳴いた。蒸気が離れていくように馬の姿が溶け、血だらけの少年が四つん
「げっ……幻術、解けちったよ……っつ……!」
「お、おい」
あれだけ余裕を見せていたのに。動きも天狗と互角にすら見えたのに。
俺のせ――
「夜の住人 名は
闇が再び少年へと集まる。強風が吹き、咄嗟に隻は千理の腕を掴んで横に逃げた。
黒い羽根がいくつも路地裏の向こうへと駆け抜けていく。千理の右腕に集まりかけていた闇が解けるように霧散した。
「無月! くそっ……助かりましたけど逃げろって言ってんでしょうがよ!」
睨んでくる黒い
隻は青い顔のまま、鴉天狗と目が合った。面の奥の黄色い眼光が射抜いてくる。ふわりと宙に浮いた天狗に、思わず身を竦める。
途端に飛び去っていく姿に、隻も千理も目を疑った。
「……見逃し、た……?」
「んなバカな……天狗は一度目つけたら、よほどのことじゃないと
『そのよほどだからだろう。昼と夜が動くならばな』
ぎょっとして振り返る二人。青い目の三毛猫がこちらへと歩いてきた。
「さっきの!?」
「うっげぇ……」
『レーデン家の三男坊が天狗
え
微動だにしなくなる隻の隣。千理は完全に腹を立てている様子だ。
「るっせえやい! ……つっ……大体天狗自体はランク高いでしょーよ、空ん中でも。オレの担当範囲超えてるんすよ。それに学歴社会じゃねえでしょうよ、オレらの業界は!」
「って、お前中学中退とかいつの時代だよ!? 国民の義務だろ!?」
「いいでしょーよ別に! 術の修行してたら行くの忘れてただけっすよ!!」
『間抜けな』
「猫に間抜け言われるなんて激烈ショックっすよ!!」
開いた口が塞がらない隻。はっとして首を振ったのは、猫が見せつけるかのように欠伸をしてきた時だ。
『間抜けだろう。一般人に正体を明かし、
千理が面白くなさそうに睨んでいる。
「そーかい。ずっと見てたんすか」
『夜がこの時間に動くほど、よほど興味のあるものなら見ておくべきと思ってな。ただの情に流されて、喰われかけたのは結局誰だったか、よく考えておけ』
押し黙る少年。かっとなった隻は猫を睨みつけた。
「情けは人のためならずって言葉、知らないのか。こいつの善意の何が悪いんだよ」
『今日の情けは明日の
名前まで聞かれていたのか。隻は言い返そうとして千理に遮られる。
「相応の罰は覚悟してます。上にどう言われようが、この管理体制の雑さも結局、上の責任でもあるんですから。果たして先なのは卵か鶏か、ね。――あんさん、
猫が口の端を持ち上げ、小さくも鋭い牙を見せた。笑っているのだろうか。
『私に会えたこと、幸運だったな。レーデンの』
鼻で笑う千理。服がまだらに見えかけるほどに出血がひどそうで、隻は顔をしかめた。
相応の罰? それを受けるべきは、本当に千理なのか?
腹が立つ言動をする奴ではある。自分みたいに何も知らない人間に見せてはいけないものを見せた。
けれどそれ以上に踏み込んだのは、この三毛猫の言うとおり自分だ。
「恩着せがましい猫に会って、幸運も不幸運もあってたまるかってんですよ。大体五神ならそこはかっこよく白龍か
『万に一つそれをやれば、貴様嬉々として首を落とす気だったろう』
「ちぇっ、ばれるっすよねー。さて、と」
立ち上がり、ややふらついた少年に隻はぎょっとした。さすがに痛そうな表情を見せる彼は、手をひらひらと振っている。
「慣れてますよこんぐらい。ちょいと、五神さん。オレの代わりにこの人、病院まで送ってやってくださいよ。まだ一般人扱いで考慮してもらえるっしょ」
「お前も行けよ病院。ひどいだろ、これ」
「行って転んだとでも言うんすか? 竹林に突っ込んだりして? っつ……そりゃあ面白いや」
脇腹を押さえつつ、少年は肩を竦めている。
「一応こういう系で
「行くって、さすがに今日は病院には泊まらな――」
「え、じゃあケー番教えて。交換交換」
『ふむ。なれば私のケー番も登録させろ』
ぎょっとする千理。隻も耳を疑った。
「持ってんの!? 猫なのに!?」
バカにするなよ! 猫が毛を逆立てたのを見て、隻も千理も言葉をなくした。
『ついでに言うが、今は化けているが我が名は
「え、ケー番登録するなら本名くださいよ本名。そんな中二臭いコードネームいりませんっていっだーっ!?」
ああ、引っ掻かれた。
ぶらぶら遊んでいた右手についた赤い格子模様を、冷めた目で見た隻は千理の頭を叩き、腕を支えてやった。
「事情はどうでもいいから行くぞ、病院。竹林に突っ込んだでいいだろ。早くちゃんと看てもらうぞ」
目を丸くして見上げてくる千理と、猫と。なんだか気持ち悪くて、嫌だと顔に露骨に出したのに、千理はおかしそうに笑ってきた。
「ははっ……いいっすよ。大人しく連行されますか。あ、そうだ」
ごそごそとポケットをまさぐり、財布を取り出して渡してくる少年。驚く隻は、戸惑って突き返す。
「いや、さすがに人の財布は」
「腹減ったんで昼飯よろっす――あだっ!? え、ちょ、置いてかないでくださいよ隻さん! さっきの友情クーリングオフ! ギブミー!」
「意味繋がってないだろ! あと病院に獣は入れたらいけないんだよ、ついてくるな!」
『なっ、誰が獣だ!!』
「お前だ!!」
二人揃って吠えた少年たちは、その後目を光らせた三毛猫に、路地裏を出るまで追いかけ回されたという。