「ね、役に立ったでしょ。ジャージ」
「……じゃあ一生ジャージでいろよサボり魔ニート」
「ひっでー! ぁ、いつつ……あだっ、そこやめて痛い、マジ痛い!」
病院で包帯ぐるぐる巻き。点滴も受けた少年は、飄々とジャージ姿で戻ってきた。本来なら入院レベル一歩手前だと怒られた彼は、「入院手続きと費用がかさんで面倒なんで嫌です」と跳ね除けてきたのだ。
当然、連れて行った張本人である隻が腹を立てないはずがない。けれど振り返って思う今、過去の行動が自分を責め立てる。
本当に、自分は何をしていたんだろう。
何をできたというのだろう。
ベンチで待っていた千理にうどんを渡して隣に腰掛ける。嬉しそうに平らげている少年の声と、病院内のこの公園の穏やかさに、思わずぼんやりとしてしまう。
木陰に置かれた、二人が座るベンチの近くに鳩が寄ってきた。
この影から、またあの兎のように本来ありえない奇形が出てきやしないかと考える自分がいる。
「……俺ら、こんな世界であんな連中知らずにいたんだな」
「あちっ、いい湯加減っ……んなもんでしょ。余計な学習させちまってすいません」
「誰も余計って言ってないだろ」
「余計っすよ」
うどんを
「知らずに済めばよかった≠チて思う日がね、嫌でも来るもんなんすよ。大体あいつらがいるなんて知った世界が綺麗に見えます? そんなぶっ壊れた純情精神じゃないでしょ。世界はあんな化け物を
傷に
それでも、箸で
鳩が一気に羽ばたき、離れていく。それでも灰色の鳥たちはすぐに寄ってきた。千理は冷めた麺を汁に浸し、箸を置いている。
「本当、すいません」
――なんで謝ってるんだよ
危険な目に
偶然とはいえ、彼らを見たのは、それを理由に逃げたのは、自分だ。
そうだ。自分なのだ。
なんでもいいから、見えないものでもあるなら、それのせいにしようとしていた。死んだ運転手すら
当たるものがなくて、自分のせいだと背負うのが怖くて。それなのに感情を飲み込んで向き合う恋人の両親を真っ直ぐ見れなかった。何かに当たりたかった。散らしたかった。
千理だって知っているはずだ。わかっているはずだ。
気づいていないはずがないのに。
「……あの天狗、本当にあいつがやったのか?」
「断定はできませんし、したくはないんすけどね……まあ、次狙うとしたら、オレに来てくれると信じましょう」
「信じましょうって、なんで」
「最初に攻撃仕掛けたの、オレですよ」
至極当然のように返す少年に、隻は返す言葉を見失った。箸の先を上に下にと軽く動かしつつ、彼は
「あの天狗、隻さんに神通力使うとは思ってもみませんでした。あんさんが連中の力に抵抗できるだけの器があるってのも、本音、思ってなかったんすよ。多分オレの血取り込んだ分で、体がそれどころじゃなかったんでしょうけど」
高熱を出したままバスケの試合に出た隻からすれば、そうなのか、程度しか思わなかった。それほど強烈な出来事とは思えなかった。
「頭痛かったのと吐き気ぐらいだったぞ、あれ」
「吐き気はまあ、オレの血のせいですけど。頭痛いって言葉で終わったら、今まで怪奇現象に泣かされてきた世の社会人たちが嘆きますよ。出会った連中の種族と力量と気分次第で、あんさんが死んだ運転手と同じ末路にってた可能性もあるんすよ」
うどんを啜る音が響き、油揚げに手をつけたらしい少年は、またも「あっちち」などとわかりきったことを伝えてくる。
その手が、隻の歯の
「――言いすぎました。とかく、鴉天狗は、天狗の中じゃ少し下位なんすよ。天狗そのものが元々強いんすけどね。人庇いながらの戦いは初めてだったんで、オレも結構調子乗ってた部分もあるんすけど、それ差し引いたってあいつには勝てなかったと思います」
あまりにも素直すぎる感想に、隻は目を見開いた。足元から『フム』と
『当然だな。鴉天狗を保護もしくは討伐するならば、
「うわっ!?」
心臓が飛び出そうになるほど驚いた隻の隣に、猫が飛び乗ってきたではないか。耳と尻尾がやや不機嫌そうに角度を変えている。
『隻とやら。少しは落ち着いた行動を心がけることだな。お前の反応が一々大きすぎて周りの注意を引いたらどうする』
「誰のせいだ誰のっ。あんた、ここにいたら正体ばれるんじゃ――」
「心配ないっすよ。よっぽどオレらと同じ血筋の奴か、隻さんみたいによっぽど異形の世界に激しい情を持たない限り、大抵の連中には隻さんの独り言にしか見えませんから」
凄く嬉しくない言われ方だ。隻まで不機嫌顔になったそば、千理は合掌した後機嫌の良さそうな顔。……怪我人でなければ殴りたい。
猫は鳩を追いかけるでもなく、暢気に隻の隣で丸くなっている。
『無様だなレーデンの。元の血は
「血だけで担当決める時代は終わったっすよ。あんさんいったい何年生まれなんすか? 明治? 江戸?」
『口の利き方に気をつけろ小僧』
牙を剥く猫に、千理はうどんの麺の切れ端を摘んでゆらゆら揺らしている。尻尾と目が獲物を狙う体勢になったのを見て、隻は生温かい目。千理に至っては鼻で笑っている始末。
「そうっすよねぇ、猫に対して利く口にしては対等にしすぎました。しっつれい失礼」
『
「いや……猫の仕草きっちりやってる奴が言ってもな……」
「そーそー。一般人にも言われるって
『堕ちたのはどちらかわからせてくれる!』
牙を
「へぇ、隻さん猫飼ったことあるんすか?」
『だから私を猫扱いするな! ……む、しかし一般大衆には気づかれずに済むか。仕方ない……』
納得の仕方がどうかと思う。本当に。しかも喉を機嫌よく鳴らしている辺り、一応重要な地位にいるらしいこの猫は、人としての何かが終わりかけてはいないだろうか。
青い目をはっとさせて、隻の手からすり抜けるところまで猫の仕草だった。
……やっぱり猫だ。人間じゃない。
『やるな、隻とやら。ひとまず五神には文を飛ばしておいた。処分は後々決まるだろう。それまではレーデン家本家にて預かるよう、別に文も飛ばしている』
「ちょい待った、あんさん人の報告の責任無視して何、やってるんすか」
食いかかる千理は、脇腹に痛みが走ったのか一瞬声を詰まらせかけている。隻も内心ざわつきを抑えられない。
「預かるって、俺をかよ……?」
『他に誰がいる? どうせ急には動けぬだろう。しばしこの三男坊と共にいなければならないがな。こちらで働く気があるなら、こやつと、京都にある本家に習えばいい。働く気がなければこちらも相応の手段に出る。――安心しろ。消すほどの大事には至ってはいない』
ぞっとした。当たり前のように告げられる響きに耳を疑うその隣、千理が靴裏で砂利をきつくいじったのが聞こえる。
――千理が謝ってきた意味が、やっとわかった。
あいつらと戦うか、何かしら忘れさせられるか。消すまでに至っていないのなら、その前段階程度のことは必ずやられるということだ。
「五神は本当固いっすね相変わらず!」
千理の苛立った声。猫はつう、と目を細めた。
『そう言う貴様はどういう風の吹き回しだ、レーデンの。知っておるぞ、お前の経歴は』
「探るも何もっしょ。血まで飲ませちまったんすから、相応の責任は取りますよ。けど二択しか隻さんに与えないのはお
『法など
千理が握る割り箸が折れた。片手で折られた木片と、歯の奥から響く食いしばる音に、隻は言葉をなくす。
「――言わせときゃあしゃあしゃあと……そりゃあんさんの見識でしょーが、この冷血猫。あんたの指図はこれ以上聞く気はないっすよ」
声が一段階、低くなる。頭上から鳩が降りてきた。猫が睨むと同時に、鳥型の紙切れに変わり、羽の部分をパタパタと動かしながら千理の傍に降りていく。危うくうどんの残り汁に落ちそうになった紙片を乱暴に掴んだ少年は、不機嫌な様子で文面を読んでいく。
「――なんで一々……本家直々に『隻さん預かる』そうです。っそ、人の話聞きやがれってんだ……っ!」
背中からも頭上からも、足元に至るまで黒い闇が
『闇をしまえ。今ここで幻術を使い、それを燃やしたところで決定は覆せんぞ。責を負うと言うならば相応の態度ぐらい示すんだな』
「黙っててくれませんかねー冷血猫。隻さんすいません、急場で悪いんすけど、家ついてっていいすか?」
「あ、ああ……」
無理やり戻した声のトーンが、逆に威圧してくる。自分に向けられたものではないとわかっていても、どうにも気まずい。
なんとか立ち上がる千理は、脇腹を押さえて呻いている。隻の膝から飛び降りた猫は、よくも暢気に伸びなどしてくれたものだ。
千理はうどんの汁を飲み干し、近くのゴミ箱に投げ入れた。多少乱暴だったせいか、折られた割り箸の残骸がやや遠くに外れる。
もう、千理はリアクションする気もないようだ。
「行きましょっか。親御さんに謝んないと……あんたは来なくていいっすよ冷血五神」
『逃げ出されても面倒なのでな』
「ああ、そーかい」
また低く下がる声音。隻は不安が拭えないまま、病棟を振り仰いだ。
「――なあ、本家で預かるって……結李羽とはもう会えないってことか?」
歩き出そうと準備していたらしい千理の動きが微動だにしなくなった。振り返ってくる千理は、不思議なほどに力なく笑っている。
「そんな重大にはしませんって。数年は携帯の連絡中心かもしれませんけど……会いに行こうと思えば出られますよ。オレよく外に遊びに行ってたんで」
「そ、そっか……」
「この就職氷河期中に早く職が見つかった感覚でいいんすよ。数年分は研修期間ってことで。――無理やり引き込んですいません」
なんとも、言えなかった。
それに結李羽に合わせる顔だって、今は――
「家どっちっすか?」と朗らかに声をかけてくる少年の背中に、まだ見える黒い影。ジャージよりも暗く、包帯よりもくっきりとした色は、彼の背中を覆い尽くしている。
足元をのんびり歩く猫が、事もなげに声をかけてきた。
『だから言ったんだ。知らなければこうならずに済んだだろう』
「――そうか?」
隻は千理の背を見つめながら、浄香の言葉を短く流した。
絶対に頷かない。
どれだけ後悔を抱えても。
どれだけバカに見られても。