「ぶえぇっくしょい!! さっ、さび……!」
「お疲れ様。でもどうして千理くんだけ川に落ちたの?」
「……耳栓、俺とあいつだけつけ忘れてて……俺にかかる
二人揃って姿がないことに怪訝になった傍、ぐったりした様子で両親の寝室から戻ってきた隼に目を丸くする。青い顔の彼は目が疲れているではないか。
「なんか聞こえてきたと思ったら体が重くなって」
響基が視線をそらした。
「その後吐き気が来て」
響基に視線が行った。
「最後は体が金縛りにあって――って、久々の怪奇現象フルコース」
響基が土下座した。
「ご、ごめんなさい忘れてました!」
「お前もう呪言禁止!!」
「呪言のせいだったんだ……あたし全然わからなかったのに」
『結界はこの部屋にしか張っておらなんだからな』
浄香が、テーブルの上で笹カマを食べながら、ふてぶてしく尻尾を振っていた。
『台所に出入りしたそいつらだけやられたのだ。阿呆めが。呪言に耐性のない霊媒体質が、
三毛猫が
「それで、確保したスライムがこれ?」
隼の部屋着を借りて着替えた千理が尋ねる。タッパを使ってスライムの術式の核を捕獲した未來が、
「開封厳禁」と、日本語で丁寧に。
真空パック状態のスライムに動く余地もなく、色を何度か変化させている。千理が
「……本当にこいつだったんかな……オレの腕切り落としたのって、あんさんの本体?」
鏡の材質を作っているスライムに映り込んだ千理の顔が、必死で首を振った。千理の隣に隻たちが興味津々に群がったからか、鏡の中の千理も現実の千理もぎょっとしている。
「な、なんすかいったい……熱苦しいんすけど、ねえちょっと」
「なんでお前意思疎通できてんだよ!」
「そこ!? なんなんすかこの珍獣扱い!!」
鏡の中の千理まで一緒に怒っている。感激した一同から拍手が巻き起こった。どちらの千理も苦い顔。
「……ちょいと……ねえ、スライム。オレ以外の姿じゃだめ? あ、そうだ思い出した! あんさん本当に
鏡の中の千理が戸惑ったように見えた。一瞬にして姿を変えたかと思えば、今度は千理よりも人懐っこそうな顔立ちの、中学生頃の男の子になったではないか。その顔のままこくりと頷いたのを見て、顔を青くした千理は複雑そうな顔になる。
「やっぱり……」
「なあ、これお前の兄貴の――」
「そうっすよ。
一斉に吹き出す音がそこかしこで聞こえ、むかっ腹を立てた鏡の中の天理が頬をひくつかせているではないか。腕までは隠れて見えていなかったのに、わざわざ拳を持ち上げている。
納得顔の千理は、
「やっぱりね。天兄が何度か『やっぱりいぶしかな』って言ってたから。英語で長ったらしいから略称で、とか言ってた気もするんすけど……当たりかい」
腹立たしそうに頷いている天理の顔。隻も響基も、悟子まで生温かい顔になる。
「そりゃ、創造主から逃げたくも……え、違うのか?」
スライムに映る顔は必死に首を振っている。出すよう訴えてきてはいるものの、猫が真上に陣取って牙まで見せ、にいっと笑っている。
『開けてたまるか阿呆め。この場で解放するほど状況は優しくないとわからんのか』
天理の顔が苛立たしげに見上げている。千理はひょいと猫を持ち上げ、結李羽へと放り投げた。
「そりゃともかくとしてっすよ。あんさん人の言葉喋れる? 意思伝達能力ないみたいっすけど」
天理の顔が首を振っているではないか。しばし考えるようなポーズをとり、鏡の端から取り出す仕草をしたかと思うと、何やらジェスチャーをしている。勘付いた隻は少しだけ考え、上の階へと見上げた。
「なあ、今来れるか!?」
「って座敷童呼ぶんかい!」
小さな足音が聞こえてきた。降りてきた少女は、注目されるとぽっと顔を赤らめ、慌てて結李羽の後ろに逃げている。隻が手招きして、近くに来てもらった。
「ごめんな、寝てたんだろ? こいつが言いたいこと、わかるか?」
座敷童は少しだけスライムを見つめて、頷いている。喋ることが苦手なのだろう彼女へと、紙とペンを渡した。
互いに何か通じ合ったものがあるのだろうか。子供らしいたどたどしい字を覗き込み、隻は言葉に詰まって翅と顔を見合わせた。彼の表情も険しい。
「それで暴れてたってわけか……」
ますたあは、いまねむれ、ってされてる。ねむってる。
そと、でたい。でも、でたらころされる。いてもりようされる。
たすけたい。でも、すらいむは あれ から、ころせって、めいれいされる。
ますたあがおきたら、たすかる。
ますたあ、めいれいした。おとうと、まもって。
たすけたいけど、ころさないと、ますたあがころされる。
「……え、ちょ、それでなんでオレ?」
「お前何見たんだ……」
推測、千理の兄は敵に捕らえられている。何かしらの力で無理やり眠らされ、敵はこのスライムを脅して多くの幻術使いや一般人を襲わせていたのだろう。
そしてスライムの性質上、姿は変幻自在だ。生き残っていた者の証言も
スライムは何度も千理に接触し、この状況と意志を伝えようとしたそうだ。
しかし仕事人間の千理には
東京に分裂体を多く置いていたのも、千理がまだ東京にいると思い込んだ結果だった。
さらに書き進められた文字を見れば、スライムは伝達能力を敵によって封じられたとも言っているのだ。
浄香が苛立たしげに戻ってきた。
『私たちに情報をもたらす恐れがあるからと封じられたんだろう。主人のいない幻生の多くは、幻術使いに意思を伝える能力を剥離したものが多い。そうとも見せかけることも可能だからな。座敷童が味方についていることは計算外なのだろう』
隻と結李羽に起こった交通事故も、そうして引き金を引かれたのだろうか。
――仮に、そうだとして。こいつは……無理やり命令された被害者だ。討つべき仇はこいつとは思えない。
問いたい気持ちを一度脇に置き、隻は固まっていた拳をほどいた。
「――なあ。お前の本体、もしかして伏目稲荷にいなかったか?」
千理がぎょっとしてこちらを見てきた。スライムは天理の顔で首を振っている。翅が訝しげに隻を見てきたではないか。
「それも分裂体なのか……? お、どうした?」
座敷童が急いで何かを書いている。見せてきた字を見て、翅も響基も苦い顔。
「そっか、分裂したら互いの意思はわからないのか……本体どこだぁ」
「本体っていう概念もないかもしれないな、これだと」
「いえ、あるみたいですよ」
悟子が考え込んだまま指摘してきた。浄香は『ほう』と興味ありげだ。
『それは千理の操作された記憶にあったのか?』
「はい、ほんの少しですけど。さっき記憶操作で読み取れた内容の中に、それらしい言葉がありました。『本体だけは煮たり焼いたりするな』って、天理さんらしき人が、千理さんと――海理さんに言っていたんです」
どこまで悪ふざけの過ぎる兄弟だ。全員が苦い顔になる。
「推測ですけど、本体が消滅したら、分裂体も消えてしまうんじゃないんですか?」
「マジっすか……マジっぽいっすね」
鏡状になったスライムに映っている天理の顔が青くなった。この世の終わりはすぐそこだと言いたげで、隻はなんとも言えなくなる。
「まだ煮たり焼いたりはしないから大丈夫だろ。な? 落ち着けよお前も」
天理の顔が、蒼白を通り越して土気色になった。そんなにまずいことを言ったかと振り返れば、全員が顔をそらしている。
……なんか、すいません。
「それより、天兄の居場所わかります? 多分敵はオレらがここまで情報掴んだとは思ってないっしょ。今なら上手いこと目をかいくぐって助ける余裕も――そんな首振らないで!? 信用しろってのもー!」
全力で首を振られている。隻のズボンを小さく引っ張られ、どうしたのだろうと座敷童を見下ろした。書き上げられた紙を見て、ただうんと頷くしかできない。
せんり、こわい。ていねいにしてくれない。ひ、もってきた。こわい。って。
「因果応報の反応らしいぞ」
「なんで!?」
だから火を持ってきたのお前――記憶操作されているんだった。
弱ったなと頭を掻いていた傍、未來がスライム入りのタッパを持ち上げた。
「そいつで実験は勘弁してやってくれ。それと……幻生の記憶、記憶操作で覗いたりってのはできないのか?」
「試した記録は、残念ですけど……それに、幻生を構成する術式の一部を操作するようなものですから、創造主以外が手をつけていい範囲とは、到底……。下手をすれば消滅させてしまいます」
「じゃあもう一回オレの記憶操作行きます? ――だっ!?」
「何言ってるんですか! 先ほど千理様にかけた術にすら反応する術者ですから……それほどの術者だってことは間違いないんですよ!?」
「どういうことだ?」
「記憶操作した術式が破られるかどうかは、よほどの術者じゃないと気づけないんです」
悔しそうに教えてくる悟子が、「ぼくたちの誰もそこまでの術師に到達してないんですよ」と絶望的な言葉を溢した。
翅が苦い顔で考え込んでいる。
「……よし。じゃあこうするか。悟子、外で情報集めてる全部の鳥、
「なっ、何言ってるんですか!?」
「なんとなく――じゃないです理由あるよ!? 一度俺たちが死んだように見せかけて、隠れて情報を探る。これでどうだ?」
『陽動か』
頷く翅。隼と結李羽が渋っている。
「陽動って言ったって、お前らはおれたちの安全確保でここにいるんだろ? おれたちがまだ生きてるのは変な話だぜ。どうするんだ?」
「そこなんだよなー……けど本家に帰るのも、こうなったら危ないだろ」
「……だな」
普通に考えても、敵は天理を利用するほどだ。レーデン家に戻ったところで、得体の知れない敵がどこにいるかもわからないのだ。レーデン家の人々を疑いたくはないが、天理と同じく操られている人間が内部にいないとも限らない。
――恐らくそれを想定して、多生は隻と千理を集中的に鍛えようとしていたのだろう。
「多生さんに連絡取る方法があればな……」
「いや、翅の言う通りっすよ。ここまで来たら、下手な鳩飛ばして情報漏れるほうが厄介っすね。全員が身を寄せられて、人目につかない場所……神隠しの空間を今から創ってもばれっかんな……自然に創れてばれない神隠しってありますっけ……」
千理の唸る声に混じって聞こえた呟きに、はたと目を丸くしたのは結李羽だ。そのまま座敷童を見やっている。
「……神隠し?」
「へ?」
一同、元情け童だった現座敷童を見て固まった。座敷童が顔を赤くして、隻の膝にしがみついている。
……あった。