「よくここまで来れたね。驚きだ」
優しく響く女性の柔らかな声は、辺りを舐める炎よりも隻の耳に響いた。
睨みつける気迫をもろともせず、女性は目を細めている。
「正直な話、君にそこまでの才はないと思っていたよ。計算以上だ。やはりあの女が目にかけかけた男の孫、ということかな」
「……なんで殺した」
手に力が篭る。炎が背後で、梁を落とした。
女性は炎を見上げ、美しいものを見るかのように口に孤を描いている。
「いつの、誰の話かな。沢山ありすぎてもう忘れたよ」
「あんた信頼されてたんだろ!」
「
柔らかな声は滑らかに響く。
奥歯を噛み締めて女を睨む。多生を京都駅へと運ぶ立標の戸惑いを、心の隅で感じた。
「君はいったい何を、私に押しつけようとしているんだい。私に人を殺さないようにする心を? 君の説得を聞き入れる耳を? その責務を? くだらないね」
扇を取り出して広げ、降りかかるはずの火の粉をその上に受け止めて、愛おしく眺める永咲。火の粉はすぐに散るか扇を新たな糧として燃え盛るはずなのに、扇の上で星屑のように輝いている。
「私はね、隻。確かにかつては仙人だったよ。
扇の上の火の粉が勢いを増し、そして消えた。
「沈む陽。海の上の雨。山を島に広がる雲の地平線。木々の隙間より覗く儚き星々。人の営みもまた美しきものだった。調和する世界。創造される力。見事だったよ。広がる世界は、そうして衰退を選んだんだ」
止めたのにね。
永咲に降りかかるはずの火の粉が、一瞬強く燃え上がったかと思うと水滴に変わり、彼女を濡らしていく。
あれが、
現実を否定する水。
「独裁者はこの水を欲して血眼に探した。私を嗅ぎつける前に死んでいった。
なんでそんな嘘を――
本当に、それだけなのか。
「……それを狙われたから、殺したってのか」
「せっかちだね。それだけなら私のことだ。規模を抑えるのは君でも想像がつくだろう。自分から見つかりに行こうなどと、
木が爆ぜる音が、背筋を舐めた。
女性は次々に永久の真水を作り出し、まるで湯浴みをするように身に振りかけている。
「別に理由などないさ。君にも覚えはあるだろう? 理由などない感情ぐらい、ね」
「だけどそれだけで!」
「一つ言っておこう。私は人間ではない」
細められた目の中に、冷気。拳を解けない隻を
「人間の理屈を私に押しつけるかい?
「全部やめたって言いたいのかよ。そんなの関係あるか! あんたが何したかったか聞いてんだ!!」
「そもそもね、隻くん。理由など九割は言い訳だ。自分に都合のいい言葉を並べ、
「そんなわけ」
「ほら」
水のように、短い音で隻の声を遮った。
「本音はそんなものだ。怒りの矛先を向ける動機を欲しがっているだけだよ。それでも理由を問うかい? ありもしない動機を追及するのかい? 永久に乾かない納得で己の怒りを癒すために
納得が行かない。
傲慢だと言われる自覚は、ある。
自覚があっても、そんな感情任せの理由に、「ああそうですか」と言えるものか。
この人らしくない動機が、理由が、嘘が、隻の耳に入っては胸の内の怒りを
「……一緒にいたんだろ。ずっと。あいつの親父さんたちとも」
「ああ。私の正体を勘づいて、最近起こる他家の滅亡の原因が私ではないかと尋ねてきたよ。関わってもいなかったのだけれどね」
「じゃあ殺す必要なんてないだろ!」
「何度も言わせないでくれないかい。理由などないよ。強いて言うとすれば、私がこの水の守護者であることを知られるのが気に食わなかった――かな」
爪が、手の平にきつく食い込む。
言う気はない。この女性は、間違いなく。
どれだけ理由があっても、この人は話す気などないのだろう。
本当のことなど、真実など。彼女にとってはそれこそ「どうでもいい」ものなのか。
「さて、それじゃあ私のほうも本題に入らせてもらおうかな」
女性は緩やかに描いていた口の孤を、笑みを際立たせるようにさらに歪ませている。
「仲間にならないかい、隻」
「――は……?」
言葉が出ない。呆れすら通り越すバカげた発想に、隻は一瞬放心した。
「言っただろう。私はこの世界に飽きたと。けれど、ね。全てに飽きたわけではないんだ。どうせなら作り変えてしまおうかと考えているんだよ。私は君を気に入っている。だからどうかなと、誘っているのだけれど」
……本当に、バカげている。「仙術に制約っていうのはほとんどなくてね」と、歌うように話す永咲は笑っ――
「だから変えようかと思ってね。衰退するだけで見応えのない世界より、ずっといい」
目が、笑っていない。
隻は鋭い睨みに変え、今すぐにでも向かいそうになる殺気を押し殺した。
「どうだい。一度しか問う気はない。拒否しても、私の思うようになるとしか思えないけれど」
実力差は――
それでも。
「ふざけてんじゃ……ねーやい」
低い声音が、女性の後ろから響いた。
振り返ると同時、火の粉が落下していた梁ごと宙に舞い上げられる。奥から顔を覗かせた千理の目が怒りと痛みに歪んでいる。
「千理!」
「っつ……隻さんセーフ? そりゃよかったっすよ。――やっぱり気づいてたんすか」
苦しげに目を伏せる千理。隻は複雑なまま頷いた。力なく笑う、本来ならひょうきんなはずの少年は、半ば
「そりゃ、追ってくるはずっすね……。師匠」
千理の声は低かった。歪められた顔を見据える永咲は、ただ笑んでいるばかりで。
「本気で……先ほどの件、
永咲が、おかしそうに笑った。
「君もよくそこまで感情を磨いたね。自分で自分を殺せるまでになるとは」
「――っ、人の話聞けって言ってんでしょーよ
低い声音のまま、千理が隣に立った。後ろで梁が勢いよく落ち、火の粉が舞う。
「えらいことばっか引き起こしやがって……あんさん何したかったんすか。理由がないだぁ嘘つきやがって、人にさんざ迷惑ばら
いつもの口調に、必死で戻そうとしている声。
それなのに千理の口は、明らかに
震えている。
「あんさんができるわけねえでしょうよ。親父も海兄も天兄も。あんっだけ長いこと一緒にいたのに、それだけで殺すなんて――今回の騒動の核にあんさんがなるなんて、んなバカなこと、一番あるわけねえでしょうよ!」
「千理」
「正体がバレた!? それで親父たちが他の家の滅亡を師匠のせいに!? 一番ねぇでしょ! なんでそんな――んな嘘つくなっ!!」
「千理」
静かに止められ、息を荒げた千理が悔しげに師匠を睨む。
永咲はおかしそうに笑んだまま、静かに口を開いた。
「だからなんだというんだい?」
抉るような現実は、千理を冷たく突き放して。
息さえ止めるほどに、あまりにも小さな力で突き放された少年の顔は――
「聞こえなかったのかい。私は人で無しだよ。いい加減、人間らしさを求めるなどやめてくれるかい」
「――師匠……っ」
悲痛な声を笑って、気に留める気配もない永咲はそのまま、隻へと見やってくる。
どれほど怒りで睨む者がいても、どれほど必死に止める声があっても、その笑みは崩れない。
「決心はついたかい? そろそろ答えを聞こうか」
――人じゃ、ない?
ずっとそうやって言い訳して、この人は結局何を得ようとしている?
「――あんた、千理をどうする気だ」
「そうだね。考えてはいないよ。
耳を疑った。
やはり天理は彼女に捕らえられているのか?
そうだとすれば、だとしたら――
へたりと崩れ落ちた千理は、信じられないと言いたげで。
その千理へと笑む永咲に、隻の拳が固まる。
「もう一つ聞いていいか」
「ああ。構わないさ」
「多生さんを殺そうとしたのはなんでだ」
千理が目を見開き、隻へと振り向いてきた。応じずに永咲を睨みつける隻へと、彼女はほんの少し眉をしかめて――笑んだ。
「気まぐれ、と言ったら?」
「そうかよ」
もう我慢の限界だ。千理の件も問い質したかったが、このままここに留まっても相手の思う
辺りはもう、火だけではない。理を違えさせられて生まれた水が、そこかしこに浮かんでいる。
間違いない。この人は――
「だったら」
バスケットボールを取り出し、深く息を吸い込む。
永咲は口に弧を描き、笑った。
「こいつの兄貴を返してもらう。その後ゆっくりあんたのバカげた幻想、現実に引き戻してやるよ」
「残念だよ。なら、千理。君にも一応権利はあげようか」
ふざけんな
奥歯が
「――!」
ガンッ
勢いよく殴りつける。刀が床を転がっていく。泣きそうな顔で睨みつけてくる千理の頭をもう一度殴り、胸倉を掴んだ。
「バカかお前! 何やろうとしてんだ!!」
「けどオレなんでしょ、天兄がこうなったの! なら責任と――」
頭突き。
勢いがよすぎたのか、額を押さえて呻く千理は目尻に涙が滲んでいる。
「……っつ、何すん……!」
「棚に上げてんじゃねえよっのバカが」
びくりと怯えるその姿が、あの左腕から作られた少年と
「お前言ったよな」
目を見開くその顔が、三年前の自分と被って見えた。
「
歯がゆいから
歯がゆいから、そう言ったんだろ
力なくて苦しんで、それが昔のお前と一緒だったから
「俺のせいで誰が、何人が俺のことで苦しむ羽目になるかよく数えろって言ったよな」
がむしゃらになりすぎてたって、結局それじゃ同じ思いを他人にさせるだけって気づいてたくせに
「今の自分よぉーく振り返って同じセリフ言ってみろこの死にたがりが!! お前が死んで、兄貴も親父さんも戻ってくるか? 万理も翅も響基も、悟子も有川さんだって喜ぶか!? 俺たちの努力全部泡にする気か? お前を見てくれてた連中にどんな顔させる気だ!!」
「けど」
「けどなんだよてめえも言い訳するってか! 本気で取り返してえなら死ぬ以外でやり遂げろ!! 方法ならいくらでも転がってるんだよ、試す前からうだうだうだうだ抜かしてんじゃねえ!!」
「け、けど師匠は……人を、こ」
「殺したからなんだ、お前も死んで永咲さんをまた人殺しにするってか! 相手が幻生だ? 今までお前はなんて言って永咲さんに接してた? 師匠だろ!」
真っ黒な目が見開かれた。
「人間としても女性としても見てたんだろ!! てめえが護りたいものなんだろ違うのかよ!! 護りたいなら自害だの討ち取りだの古臭いやり方考えてんじゃねえよ、ここは日本だろ! 殺人裁くならとっ捕まえて法廷にぶち込め!!」