何もかも、忘れきっていたような顔で。
やがてぐしゃぐしゃにして、力なくその場に崩れて泣く少年は、無月が黙って還ったことにも気づいていなかっただろう。
連身した際、隻が垣間見た千理の記憶はずっと焼きついて離れなかった。あの時かすかに聞こえた言葉は、今ならはっきりとわかる。
――オレの、せいだ……
ずっと責めていたんだろう。自らを
償いたくて、せめてもう一人の兄だけでも助けようと、死にもの狂いで探したのだろう。
道化を演じてでも。なんともないふりをし続けてでも。
案じる人々の言葉を、贖罪で耳を傾けられなかった皆の声を、思い出してくれただろうか。
少しだけ、涙を拭いて。立ち上がる千理はもう、いつものような
「……っそ。いいっすよもう……これじゃオレかっこわりぃ……どっちも死ななきゃいいんでしょ」
「初めからそれで行けよど阿呆」
「だから、アホは余計……」
「千理も、か」
ただ軽やかな笑みには、穏やかさが一枚消えているように見えた。
永咲は番傘をどこからともなく呼び出し、紅の円をぱっと広げた。持ち上がる傘は、水滴を乗せて緩やかに回る。
「もう勧誘することはない。後悔しなさい」
「はっ、後悔先立たずって言葉、知ってるだろ」
空元気でも笑う隻に、千理が苦い顔になった。
「いやそれ、使い時違うと思うんすけど。オレでもわかりますよ」
「は? 何言ってるんだよ。後悔するのは俺たちじゃないだろ。――言った本人に後悔させてやる。覚悟してろ」
くつくつ、くつくつ。
ひたおかしそうに笑う女性は、「威勢はいいね」と目を細めた。
「あの男――相次郎であれば、そろそろ身を退いたろう。随分と先走る孫だね」
目を見開く隻に、千理が訝しげに見てきた。
「そうじ――誰?」
「なんでじじいのこと――!?」
膝から力が抜けた。
一瞬だけ世界が真っ暗になって、膝に来た衝撃ではっと目を凝らす。
頭がくらくらする。どうなって……
「隻さん!?」
「油断のしすぎだよ。もうそろそろかな」
「何、しやがった……!」
体に力が入らない。呼吸が浅くなる。
千理が再び無月を呼び出して飛び込み、永咲は番傘を閉じて
「まさか君に細工が及ぶとは思わなかったんだけれどね。いい
どういう――
千理を容易く突き飛ばし、番傘を床にトンと突いた女性。千理の周りの柱や梁が燃えたまま彼を取り囲み、
「安心しなさい。すぐに正基たちに会えるよ」
「――せ……!」
「本当に、面白いものだね。あの陣は千理が入れば、これほどややこしくならずに済んだのに」
陣――?
必死に頭を回し、はっとした。
スヴェーン家を神隠しに
そう、多生たちが言っていた。
それは、どこに送られた?
「気づいたようだね。そう、もうそろそろ天理の時間を止めるには、彼の体が持たなくなり始めていたんだ。少し生命力をいただいて、ついでに天理自身にもう少し聞き分けよくなってもらおうと思ってね。魂を二つに分けて、おとなしくさせたんだよ」
目を見開いた。
歯を食いしばる中、囁くような声が、炎の爆ぜる音と共に耳に入ってくる。
「新しい柱人の子に、魂の片割れを入れられる予定だった。千理が到着してその陣を壊し、血筋も近い千理に魂が入り込むならもっと楽だと踏んだのだけれど」
儀式は失敗した。
それどころか、新しい介入者のせいで陣は変な狂い方をしたとしたら。
永咲が笑む。顔を青ざめさせる隻を、その瞳に映し出す。
「まさか君が入るとは思わなかったよ。予想外だ。天理の魂の影響もあってかな。ここまで呪術使いとしての能力が強く目覚めるとも思わなかった。君を人質にとれば容易くことが終わると思っていたのにね」
拳が固まる。固まるのに、それ以上力が入ってくれない。
すっと視界を覆うように近づいてくる白い手に隻が目を見開いた、その時だった。
「はーいストップ」
ぐんっ
いきなり腹に来る圧迫に、隻は思わず「うぇっ」と呻いた。同時に永咲の手が
千理ほど軽々と――抱え切れていない。両腕を僅かに震えさせながら、翅が相変わらずの真顔テイストで隻へと親指を立ててきて――
「あっ」
「だっ!?」
落とされた。
見事顎から落ち、床を対面させた隻は震える。翅は「ごめんご」と棒読みで謝る。近くでまたも床が軋み、誰かが背中を叩いてくる。
「大丈夫かーおーい」
響基の声が後ろからかけられる。息が詰まった隻は咽つつ、横になったまま
「……っ、ったぁ……! げほっ、なんで、き……いぃぃぃっ……」
「あー。うん、なんかマジでごめん。……まああれだよ、家族だからさ」
じゃあ家族落とすなよ!!
震えつつ、けれどそれもばったりと、力が入らなくなる。目を見開いたその時、またも翅が隻を抱え上げて横に跳んだ。響基は
「驚いたね。君たちには熱い世界だろうに」
「うんめっちゃ熱い。ヒートアイランド現象には慣れっこなのにな」
耳を疑う。翅を見上げようとするも、体は動いてくれない。
「
不死鳥の声が高く響く。
レーデン家に仕える鳥とは違う音。一気に飛翔し、永咲が開いた番傘の手前で見事クイックターンし、櫓の中へと突っ込んでいった。響基が隻たちへと近づいてきて、翅は隻を彼へと引き渡す。
「頼んだぜ親友。隻さんしばらくそこで戦ってろよー、何かと」
聞いてたろお前。
絶対聞いてたろ、お前。
今不死鳥のおかげで櫓から出れた千理、炎に炙れてないってことはアヤカリで守ってくれてたんだろお前。
「さあて、エキドナ並みの長期戦覚悟で行きますか。あーだるい」
「ちょい待ち。あんさんらいつ来てたんすかアヤカリどもーっす」
「いつだろうなあその前に沈んでような千理は」
響基の近くまで運ばれた千理は、そのまま隻の近くで頭を床に打ちつけられていた。床材が割れた音がして、隻は肩から竦み上がる。
隻の比ではない威力に見えたのは、気のせいか。
千理は頭を押さえてすぐに立ち上がり――響基の気迫にやや身を竦ませている。
「ひ……ひ、ひび兄? ちょっとたんま……!」
「ごめんな。俺も珍しく翅同様怒ってるんだ……たんま無し」
八回目入りました。アッパーカットが。
「ひび兄言われるのも久々だなー」と笑顔で言う響基が末恐ろしく映る。現に近づいてきた足音。悟子と、未來の目が据わっている。
千理にも永咲にも。
「隻様、霊的結合を解除できるか試してみます。どうかお気を確かに持ってください」
「鳳勇、翅、行きますよ。響基、未來さん、後ろお願いします。千理さんは死んだ振りでもしててください」
「おー」
「いやちょっと待ってオレが決着つけなきゃいっだああ! ひび兄いい加減にしてくださいよ!!」
不死鳥が高く鳴く。
永咲が番傘を閉じ、翅とアヤカリの攻撃をあっさりとあしらった。響基も剣を呼び出し、撃ち合いに加わるも子供をかわす様にいなされている。
未來が隻の胸元に手をかざし、
「どうなってんの……? いって、ひび兄に食らったほうがよっぽど痛いっつの……!」
「……融合、しかけてます……」
隻だけでなく千理も固まった。戸惑うように目を開ける未來も、千理と、不安げに近づいてきた悟子を見上げている。
「まだそんなに長く、天理様の魂を宿していたわけじゃないはずなのに……かなり侵食されています」
「な、なん……けどそんなことって……」
「元々隻様のお母様、お父様方のお爺様は霊視能力が高いんですよね? もしかしたらそれで、霊的な力を受け入れやすいのかもしれません」
ああ――それでか
最近妙に、大量にバスケットボールを出せたりしたのも
雷駆を一度で呼び出せたのも
千理逃げろ!
こっちに来るな――……
あの声も。
呼吸すら苦しい。永咲は目を閉じても翅と響基、さらに不死鳥の鳳勇すらもいなしている。長期戦になるという翅の予想が的中したように、どちらも押せていない。
目を閉じた瞬間、
あの人を止めて
知ってるよ
おれが出れば止められるのに
なんでお前らそう抱え込むんだよ
気づかなければよかったんだ
脳の奥で、何かがチリチリと弾けた。
「ふざけんな……!」
「え――?」
「あらあら、そろそろ役に立てるかと思ったのに」
戸惑う声と、苦笑いする声。
けれど頭の中で響き渡るチリチリとした音が、苛々する。うるさい。もううざい。
気づかなければよかった?
何勝手に蓋閉じてやがる
「気づけなくて……つらい思いしてる弟を、見てたんだろ……!」
気づきたくて、死に物狂いで捜し求めて。
その結果追い詰めて、何もかも歪めてしまったバカを、知っているくせに。
「下に気、
「隻さん!?」
音がやんだ。
やんだ音の中で、耳が突如変な音に包まれる。
くぐもって聞こえる変な音の後、確かに隻は目を開けられた。
塗り潰された色。
その色の中に見出した、幼稚園児らしい小さな男の子は、無邪気に
残念
やっぱりまだ、弱いんだね
目を見開き、すぐに睨みつけた。
「ふざけんな」
男の子はなおもくすくすと嗤っている。
弱いよ
独りじゃなぁんにもできないんだ
守られてたって君は弱い
「ああ、弱いよ」
ほんの少しだけ笑みを収めた男の子は、興味
「隻って名前、
現に今も守られて。
太刀打ちする力もなく、無様に倒れて、こんな子供と暢気にしゃべって。
「ボールぐらいしかまともに出せないし、人間的にも色々落として育ったのは自覚してる。それでも守られてるだけじゃないって知ってるんだよ」
確かに言ってくれた。神社で噛み締めていた無力を否定した言葉を。
確かに言ってくれた。守ったけれど守りきれなかったその子が、帰ってきたと嬉しそうに、幸せそうに。
それでも君は弱い
もうじき君は君じゃなくなるよ、弱いから
ずっとずうっとひとりなんだ
一人、1人、ひとり。そんなの知っている。自分の名前で嫌というほど聞いてきた。バカみたいに悩んで、苦しんだ音に、隻は噴き出して笑い飛ばしそうになった。
「バカか、お前」