にっと笑い、バスケットボールを取り出して男の子へと放る。不思議そうに受け取ったその子は、じっとボールを見つめているではないか。
「ひとりって漢字、いっぱいあるんだよ。『独り』の意味は孤独だけじゃないって知らねえんだろ」
――あんたやっぱしつこかったよ、バカ教諭。
一言一句全部思い出せる。もう忘れたりしない。
男の子と目が合って、隻は笑った。
「たったひとつ、他にないもの。ひとつだけの大切なもんなんだよ」
くぐもった声が鮮明になった。
頭を何度も叩かれ、痛みに呻く隻は、口の中に残る水が気道に入りかけて
「うんよかったわね、息吹き返したわよ。さて、それじゃあ私はあっちに行きましょうか」
「
「何って……もう、千理くんたら本当にお
「え、鬼――たんまたんまたんまっ、ガチたんま!! ってか隻さん! 隻さん本気で大丈夫なんすか――だっ!?」
「負傷者の前で騒がない!!」
「ごっ、ごめんなさい!!」
必死な声に、笑いが込み上げてきた。
相っ変わらずうるせえ……。
ふと驚いた女性の声が聞こえ、隻はぼんやりと目を開けた。
「うそっ、術式が解けてる……隻様? 大丈夫ですか?」
「え? あ……」
「あら、自力で解いちゃったの? つまらないわあ」
いや待って。どなたですかそこの真っ黒ゴシック衣装の女性。
千理が
「……未來ちゃん、間違えてません?」
「何か仰りましたか?」
「い、いいえ何も! ってか、隻さん永久の真水めっちゃ飲んだんじゃないんすか、大丈夫なんすか!?」
隻が耳を疑って固まったその途端、腕が一瞬だけがくりと力が抜けそうになり、目を丸くした。
視えたのだ。焦点の合わない目で千理を見下ろす中学生頃の少年の姿が、うっすらと。
驚いて永咲のほうへと振り向けば、押されている様子はないのに何故か渋面を作っている。翅と響基が舌打ち
「――会わせるのはあの世だと、まだ聞き分けられないのかい?」
「誰に言って――」
翅が口走った言葉に、耳を疑った。
霧の中に佇んでいるかのようにうっすらとしている少年は、ぼんやりとしたまま永咲へと首を振っているのだ。
もうやめて
口が
千理と未來が永咲へと振り返ったその途中、確かにその少年を見たはずだ。どうして気づいた様子がない。
ゴシック衣装の女性が、卵人間ハンプティ・ダンプティを操りながら「そうそう」と隻へと目を移してきた。
「今はなるべくしゃべらないでね。永久の真水で、あなたが言ったことと反対の事柄が起こってしまいかねないの。全身
それなら、もしかして浄香も――
はっとしてジャケットのポケットに手を突っ込み、子猫を引っ張り出した。不機嫌顔から一変、にやりと腹黒く笑んでいる。
ですよね――――――――――!
『私に人間の体などないわ!!』
叫んだ、次の瞬間。
金髪を波打たせた二十歳頃の女性の顔が、豊満な胸が隻の間近に迫り、
「くくくくくくくくくっ……! ははっ、ふははははっはははははははっ! ぬかったな守護者! これで私復活だ!!」
「え、もしかして体なかったんですか!?」
「まあどうしましょう、魔王が増えたわ……」
「誰が魔王だ女帝と呼べ女帝と!!」
魔王、増えた……。
遠い顔をする隻は再び咳き込んでしまう。思いの
赤面して顔を背けていた悟子には本気で同情する。
隻はひとつ溜息をつき、千理と目が合ってにやりと笑った。千理がぞっとしたような顔をしたので
悶絶された。
「お前の兄貴、ここにいないぞ」
「えっ!? いやそれは知っ――……」
隻の真隣に視線が集まった。
誰も彼も現在の状況を忘れて、千理と万理を足して二で割ったような容姿の中学生男子を見て、固まっている。焦点の合わない目が、ぼうっと千理と永咲を見つめている。
華淋と呼ばれていたゴシック衣装の女性が、満面の笑顔で頷いた。
「わかってるわねぇあなた」
「そりゃどうも」
「天……兄……?」
呆然と声をかける千理へと、男の子は確かに、ぼんやりとした焦点を合わせた。
やや
「せん……り……」
千理の顔が歪む。
歪んで歪んで、流れ出そうになるものを全部堪える顔は、ぐしゃぐしゃになっていた。
「――にい……っ!」
「――完全に
永咲の冷えた声に、翅と響基がはっとして振り向いている。
「ごめん本気で忘れてた」
「おや。そのまま首を
「冗談きついなー相変わらず。なんでこう師匠なんて呼ばれる人は鬼畜
「それって私のことかしら? ねえ、翅くん?」
「
華淋にぞっとする翅の叫び声に、響基が苛立った顔をした。口の中からも、肺の中からも水分の気配が飛んだ隻は、何度か深呼吸して痛みがないことを確かめ、立ち上がる。
「一度力使えば消えるんだな、あの水」
「……オレ、やっぱりそれ飲まされてたんかな……」
「他にないでしょうね」と、華淋が淡々と肯定していた。
「人間離れした動きをしてもガタが来ないのは、そういうことでしょう? ――霊薬の存在も忘れさせられていたのね。気づいて使えば、千理くんの体は死んでしまうから」
目を見開く千理に、浄香はフンと鼻で笑う。金髪に
「守護者よ。既に余る
「その狼藉者の持つ霊薬で体が甦った身だろうに。選ばせてあげるのはむしろ、私のほうだよ」
「はっ、
上から目線の女の合戦がゴングを鳴らす。辺りに満ちる水球に、翅が苦い顔になった。
「下手に取り込むと言葉全部ひっくり返して言わなきゃなぁ……うえぇだるい」
「はっ、霊薬なんぞ」
浄香がすっと真上に手を掲げ、水滴の動きを止めた。かと思えば、そのまま真上に集め始めるではないか。
隻と千理、揃える気もなかったが遠い顔になる。
「だからRPGの最強キャラ仲間に入るようなゲーム嫌いなんすよもおー……」
「俺も格闘ゲームぐらいしかやる気ないの、それなんだよな……」
「何をほざいている。後はお前たちがやれ。これは私のものだ」
「超傲慢!?」
「それだけの量があれば化粧水にいいかもしれないわねー」
「用途違っ!?」
「でも確かにいいですよね、化粧いらずですよ美肌ですよ!」
「えっ、未來ちゃん!?」
「ああ、かなり楽だったよ。肌の手入れが要らなかったからね」
守護者――――――――――――――――――!
翅がついに床を叩いてまで笑い転げ、響基が呆れて「翅戦闘中!!」と釘を刺している。現に番傘が翅を狙い、千理が間一髪助け出した。それでも笑って力を出せない翅へと、隻はバスケットボールを床に打ち付けて黙らせた。
「形成逆転だな」
「戦力は減ったようだけれどね。エキドナを倒した男は笑いに弱い、か。とんだ酔狂だよ」
「師匠が変なこと言うからでしょうよ!」
「おや、そこまで私が悪者かい?」
隻が投げつけたバスケットボールが永咲を狙うも、永久の真水が分裂したために威力を削がれた。衝撃で飛び散った水を、隻はまたうっかり飲んで苦い顔になる。
バスケットボールは番傘で防がれるも、番傘を一部濡らす。
華淋が笑み、呼び出すのは暗黒騎士の成れの果て。首を落とされてもなお動き続ける死を告げる騎士とその騎馬、さらに
「改める気がないならこうさせてもらうわ。正直、息子の力も借りたかったのだけれど……その気も失せたわ」
千理がはっとして華淋を見た。隻は黙るしかなく、永咲を睨む。
彼女はふと笑って、華淋を見据えた。
「師を殺す、か。君も随分と冷酷になったね。はっきり言えばどうだい? 子供を殺す一端になったのは私かどうか。怨んでいるんだろう?」
「ふふふっ、当たり前でしょう。母親だもの。夫と息子を亡くした原因に怨み以外の何を抱けるのよ。でもね」
艶やかに笑う黒の女性が、赤の番傘の下で笑む女性を静かに見据えた。
「誰かを怨んで
「――本当に滑稽な、言い訳だね」
姿が消えた。
敵を捉えようと目を回す。けれど見つけられない隻は、そういえば天理は無事かと転身しようとした。
瞬間。
貫くように出された番傘と腕がこすれ、痛みに呻く。
「隻さん!?」
「言ったろう。君が一番弱いと」
目を見開いて、永咲を凝視した。
笑わない目は、酷く疲れた色をしていた。
「君がレーデンの弱点なんだよ」
「
「アヤカリ!」
「鳳勇!」
「ま――!」
貫かれた色は、美しいほどに透き通っていた。
水などそこにはない。流れ出るものは血ですらない。ただ溜息が零れるように、デュラハンの槍に、アヤカリに貫かれた姿から流れる色は、透き通っていた。
それなのに、見えるもの。
手を伸ばして固まっていた千理に、永咲は薄く笑んでいて。
「し……」
「飽きたと……言ったろう」
まさか
奥歯が
「……いい迷惑だよ」
「はは。師弟の宿命……知っている、だろう」
守破離。
師より学ぶ。弟子は後に自分なりの改良を加え、そして最後は――
「……超えられない、師など。退屈だよ。君たちが気づかずにいてくれれば……」
光と闇の糸が、流れていく。
透き通っていくものと一緒に、柔らかく、
未だ燃える炎を見つめ、デュラハンの槍に一滴の水を落とした永咲は、千理へと笑んだ。
拳を震わせ、茫然としているはずなのに、顔を歪めたままの弟子へと。
「師匠――!」
「こんな甘い弟子を持って、私は随分と不幸だったよ」
ほどけゆく糸。
最期に顔まで全て消し去った光と闇は、柔らかく千理の脇を流れて、どこかに流れていってしまった。
残された永久の真水の一滴を見つめ、隻は火を見上げた。
「家、ボロボロだな」
その言葉で。
何事もなく元通りに戻った屋敷は、どこよりも幻の様だった。