「おい、入るぞ」
襖の隣の柱を叩いても応答なしときた。隻は溜息をつく。
この二週間ずっとだ。折り合いをつける難しさは理解しているつもりだが、面会謝絶はずっと続いていた。
出された食事はきちんと採っているようだから、まだマシだろう。それが弁当屋だから残すような罰当たりをするなと、きつく教育を受けた
本当に酷な師匠だった。目の前で親も長男も惨殺された現場を目撃した弟子に、もう一度その惨状を見せようというのだから。
千理が、どれだけ意地悪じみた師匠であっても、家族のように見ていたと気づかないはずが、ないのに。
信じられないというならば、もうひとつ。
本当に千理の父と長男を殺し、天理を幽閉したのは、永咲だったのだろうか。
今まで一切、時の権力者にすらその正体を明かさなかった。それなのに今回はやたらとその正体を利用して企んだというのが、何故か引っかかる。
それも今となっては確かめようもない、どうしようもないことなのだろうけれど。
もう一度ノックする。じっと音を、声を待つ。
ひょっこり姿を出してきた、恋人は困惑したように近づいてきた。
「やっぱり、返事ない?」
「ああ……ごめんな、療養謹慎解けたの今日だったんだ」
「うん、大丈夫。気にしてないよ。千理くんがああなってたのに、来ない隻くんじゃないでしょ」
「……なんでばれるんだ……」
「――わかるよ」
結李羽が複雑そうに襖を見やる。隻はそっと結李羽の頭を撫でた。
「あの時は式神、ありがとうな」
「ううん。本当は行きたかったんだけど、翅君たちに止められちゃって……」
止めてくれてありがたかった。
あの場に結李羽がいたら、永咲と刺し違えても討とうとしただろう。彼女の仲間を想う心は隻も尊敬するほど深いが、そうなってしまっては、本当に千理のあの言葉が思い出される結果になってしまうから。
真向かいの、さらに左隣の襖が開く。翅と響基がひょっこり顔を出した。
「うん、やっぱりか」
「盗み聞きするなよ」
「えー。俺はともかく響基は嫌でも聞こえるし」
「初めて二人のカレカノトークっぽいの聞かせてもらいました」
「今すぐ忘れないとバスケットボール」
「いや待って!? 不可抗力だよ!? あ」
ぼすっ。
何か鈍い音が聞こえ、響基が千理の部屋を凝視している。翅と頷き合い、翅がそそくさと千理の部屋の襖をノックした。
「隻さん入れるぞー」
耳を疑った次の瞬間、翅は問答無用で襖を開けて隻を押し込んだ。
わざわざ、アヤカリを使って。
「ちょっ!?」
「ごゆっくり?」
『ごゆっくりー!』
「おい!?」
バタン。
閉められた襖はうんともすんとも言わない。気まずい思いのまま振り向いて、目を疑った。
独り暮らしの時、あれだけ散らかっていた千理の部屋は、綺麗に
その布団でぼんやりと天井を見上げて寝転ぶ千理は、隻に気づいた様子がない。
枕元へと近づき、
「……お前、花好きなのか」
「んーん。それ……師匠がいつも見てた花だったから」
「なんて花なんだ?」
「エーデルワイス」
千理の近くに転がっていたのは、誰からか借りたのだろう。花の辞典で。
花言葉も載せているというその一ページに、しおりが挟んであった。
「花言葉、笑えませんでしたよ」
尊い記憶。
「……探したんだな」
――誰との、記憶だったのだろうか。
一度右腕で、目を覆った千理は息を静かに吐き出していた。
「……隻さん」
「ん?」
「オレ、バカなんすかね……」
何も言わなかった。
千理はぽつりぽつりと、静かに音を乗せていく。
「京都に来たら、いつも修行、つけてくれたんです。何度も吹っ飛ばして、番傘の上で転がされるんです。今日もまたあの人、あの傘持ってひょっこり来るんすよ。そんな気がして……」
ぽつぽつと、雨が降るような。
感情の乗らない静かな声に、隻は黙って耳を傾けた。
「
声が、掠れていた。
「嫌、なんすよ。嫌いたくない……」
とつとつと。溢れるように。
「否定してほしかったんに……師匠、どうしようもないぐらい、酷いことばっかりするけど……
零れるように。静かに、沈んでいく。
「オレらのこと見てると、いつも笑ってくれて……いたずら、何十回も仕掛けたのに、全部スカした顔で、あしらって……」
もう出尽くしたものは、千理の顔を濡らすことはなかった。
震える声で息を吐き出した千理は、口に気力のない笑みを貼りつけた。
「……オレ、あの人のこと好きだったんかも、しんないんです……きっと……」
「――そっか」
「バカっしょ」
「どこがだよ」
花はまだ枯れず、静かに千理を見下ろしている。
整頓された部屋はあまりにも、住人に似つかわしくないほど落ち着いていた。
壊れそうなほど綺麗に、白い花を際立たせていた。
「皆好きになればバカになるだろ。なら皆バカじゃない」
きっとまだ傷は残る。まだ、癒える時期は遠くても――その想いを否定する必要なんてない。
弟が許されないと知ってもなお走った道を受け止めた千理が、自分を否定する必要なんて、ないのだから。
立ち上がりつつ、幻術で作られた千理の左腕を見やって、ふと思い出して襖を見つめた。
「お前の――左腕のあいつ。一応名前、勝手だけど考えたよ」
「……そう、っすか」
「ひだり」
ほんの少しだけ、千理の左腕が動いた。
肩を竦め、隻は千理を見下ろす。
「左の理で、ひだりな。まんまだけど。――左って、漢字字典で意味引いたら、『助ける』って意味もあったんだ。だから採った」
「……ネーミングセンス、中二っぽい」
「るっせえ。お前に一番言われたくない」
力なく笑った千理は、右腕をずらして見上げてきた。
ジャージで真っ赤に擦れた目は、すっかり弱々しく映った。
「……いいんすよね。好きでも。……オレがまた別の人好きになるまで、嫌えなくてもいいんすよね……」
「違う人好きになっても、嫌わなくていいだろ」
千理もわかっているのだろう。だからこそ、あの時に万理に言えたはずだ。
「嫌ってまでお前がお前を罰しなくていいよ」
口が歪んで、音が溢れた。
雫は落ちない。永咲が生み続けた水は、弟子は決して落とさない。
堪られた水の行き場の代わりに、深く吸い込まれた呼吸が、静かに、長く長く、吐き出されていった。
今はもう、十分だろう。
部屋を出ようと襖に手をかける。いい加減アヤカリは外れているだろうか。
「あ」
出入り口を開けようとした背に、千理が寝転がったまま見上げてきた。
「唐揚げ、天兄にオレの分あげといて。今日めかぶあったら、欲しいんすけど」
「は? お前唐揚げ好きじゃ――」
「んーん。嫌いってわけじゃないけど、そんなに好いてもないんすよ。あれ、海兄と天兄の好物。おかんの味作る唐揚げ、海兄が大好きで、天兄といっつも奪い合いしてたんです。オレにはあんまり回ってきてなくて。興味もなかったんすけどね」
きょとんとした隻は、ぷっと吹き出して笑った。
「そりゃ、鬼の居ない間に食えたら十分だよな」
もう願掛けは必要ないのだろう。千理もほんの少しだけ笑みを浮かべ、「残しといてくださいよ」と、笑って手を振ってきた。
肩を竦めて外に出る。
未だ感情が上手く働かない天理が目の前にいてぎょっとした。炊き立ての白米とめかぶを盆に乗せて持ってきた彼に、廊下で会話を盗み聞いていた翅たちと吹き出して笑う。
笑い声につられてやってきた万理が、気恥ずかしそうに輪に加わるまで、そう時間はかからない。
傷を抱えた彼らの数か月間は終わりを告げた。
次の幕に手をかけるために、今はただ、温かな食事を囲んで笑い合う。
Under Darker 第1章 白夜の夜想曲
完