「自分の部屋に行けよ!」
「まだ
「あの話聞いてたんだろ。他人には絶対言うな」
「はぁ? 話したって頭イカれてるって言われるぜ。話すだけ
余裕の笑みを見せながら去る双子の兄。隻は怒りをこれでもかと顔に出し、部屋を出た隼を見届けるや
――
本当に、清々する。
服を適当に、自分のキャリーケースへと詰め込んでいく。ジャージを見つけて一瞬考えた。普段なら無造作に突っ込むのに、部屋着としてよく着るスウェットを代わりに詰める。
扉に小気味のいい音が当たり、隻は驚いて扉を開けた。千理が苦い顔で足元に猫を引き連れてきていた。
「一応、最悪の場合は説明してきました。フライパンで殴られなかったのマジでびっくり……」
「俺のことでそんなに怒らないだろ、母さんは」
ああ、と納得気味にぼやく千理は、渋面を作っている。
「相当っすねぇ、あんさんも。隼さんでしたっけ? やっこさんはそこまで嫌ってる感はなさげでしたけど……さーせん、今聞く話じゃないっすよね。あっ、ジャージ持っていかないんすか!? ひっでー、持って行きましょうよ、寝間着練習着色々用途あるのに!」
「だからそれお前だけだろ――おい、どうした?」
いきなりしゃがみ込む少年。千理は青い顔をごまかすように笑っている。黒い鷹がいないことに今さら気づき、はっとした。
「お前、あれだけ動いて大丈夫なのか?」
「そりゃまあ、慣れてますよ。逆に顔に出したら、親御さん多分キレてたっしょ。――少なくとも技量に合わせて戦う相手変えられるんで、そうそうなことはないと思いますけど……ってて……あっ、つつくなって言ってんでしょーよこの冷血猫!」
『
千理が鼻で笑った途端、怪我人へと猛攻撃をしかける態勢に入った猫を、隻は高校時代に活躍したスポーツバッグの中へと放った。途端に呻く声が聞こえ、むかっ腹が立つ。
『く、臭い……むさ臭いではないか……! おのれ隻ぃぃぃ……!』
「悪かったな」
「ああ、部活用の鞄っすか。確かに臭そう。あだっ!? そこつつかないで痛い、痛いって!」
「隻、ちょっと来なさい!」
行きたくないが、行くしかなさそうだ。
痛みに呻く千理を見やり、猫はバッグ越しに軽く蹴っておいた。
『おおう!?』
「自業自得。千理、ちょっと休んでろ」
「は、はは……どもっす」
階下へと不機嫌さを微塵も隠さずに降りていく。リビングに戻った隻は、母が手にしているものを見て目を丸くした。涙目の母に、思わず言葉を失う。
「これ、おじいちゃんの。ずっとお母さんが預かっていたものよ。いいわね、必ずこれを持って帰ってきなさい」
母が言うには晩年まで祖父が大事にしていた
底のほうに小さな文字で、沙谷見
「……だったら預けるなよ。隼に渡せばいいだろ」
「あなただから渡すの」
訳がわからない。怪訝な顔しかできない彼の手を握り、母は強く印籠を握らせてくる。
「預けたわよ」
「……わかったよ」
返す言葉が見つからなかった。居心地悪く感じ、隻はさっさと上の階に戻った。途端に廊下で隼と会い、思わず睨みつける。慣れた様子の兄は風呂場に直行していき、隻も無言で部屋に戻る。千理が困った様子で見上げてきた。
「あーえっと、これお兄さんからっすよ」
「は?」
千理が渡してきたものを見て、隻は
それこそ、人の好みを見透かしたように、これ見よがしに買っていたのを思い出し、隻は渋面を作る。
「あのバカ何したいんだ……」
「渡したかったんでしょ、隻さんに。理由はどうあれ――あ」
受け取り、しばし黙って。ゴミ箱に放ってやりたい衝動が襲ってきたが、千理のなんとも言えない笑みに気づいてじろりと睨む。
「なんか言ってたんだろ、あいつ」
「はは……頼まれました。『あいつおれのこと嫌ってるけどいい奴だから頼むー』みたいなことでしたけど」
幻聴でも聞いたのだろう。隻はさっさと脳内で切り捨てて、鞄へと財布を入れた。
千理が小さな声で「いいね」なんて呟いていたのには、頭が狂ったとしか思えなかったけれど。
「他、纏めたいものあります? あ、住所は教えといたんで、郵送してほしいなら着払い頼めますよ」
「――いいだろ。どうせこの部屋、寝るぐらいにしか使ってないし」
その証拠のように整然とした部屋を眺めて、千理は肩を竦めている。時間を確かめ、隻は千理へと目をやった。
「なあ、もう一度病院行ってもいいか?」
「彼女さんに伝えるんでしょ。行きましょっか」
あれだけズレた奴だと思っていたのに。
懐かしそうに笑う時の千理は、驚くほど話が噛み合っていた。けれど。
『隻くん、大丈夫? けがしてない?』
――あんなメールを見て、自分勝手な自分に嫌気がさして。
守りたかった、守れなかった相手に心配ばかりかけて、情けなかった。
扉を開けることに、こんなに力を必要としたのは初めてだ。
日の差し込む部屋は、カーテンを少し開けられていた。座る人影はない。
ベッドを囲むカーテンの向こうで、寝ていた人影が動いた。隻は目を丸くして、震える手で無理やり拳を作る。
「あ、検温ですか……?」
「……っ、ユリ」
情けない声だった。それすらも自分でわからなかった。
それでも、カーテンの向こうで見えた人影は、動きを止めた。微かに呻いたけれど、体をゆっくりとこちらに向ける。
「せ……き、くん……!」
動かない。足が。進まない。
カーテンの向こうで動いた影が身を乗り出したように見えて、隻は目を丸くして体を前に倒した。
「せき――」
「いい、怪我酷いんだぞ!」
足が動いた。
カーテンが女性の手で握られるより早く、隻が捲り上げてカーテンの向こうの腕を掴んだ。
案の定倒れかけていた女性が、安堵した顔で笑っている。隻は冷えた背筋を震わせかけて、結李羽を支え直した。
「お前な――っ! 無茶するな、頼むから……!」
「無事だった、んだ……よかったあ……!」
なんで、彼女が泣くのだろう。
あんな目に遭わせたのに。自分を庇ったせいで、死にかけたのに。
それなのに――
結李羽は不思議そうに見上げてきた。腕を握る手が、弱く擦ってくる。
「大丈夫。後はちゃんと休むよ」
違う。違う。
開いた口が震える。食いしばった歯の奥から、悲痛な音が漏れ出た。
「――ごめん」
結李羽がきょとんと見上げてきたことが、何より苦しかった。
「あんな目に遭わせて……なのに……今戻ってくるなんて……」
「――隻くんってほんと、そこだけバカだね」
言い返せない。前科も覚えもありすぎる。結李羽は何度か呼吸を整えていて、隻は口を噤んだまま彼女をベッドに寝かせ直した。
結李羽のむっとした顔が見上げてくる。
「隻くんのお母さんが、さっき電話くれたの」
「……お袋が?」
「うん。プレゼント、探しに行ってくれてたんだよね」
頷いた。それと、と言いかけた言葉より先に、結李羽の手が隻の手を握る。
「ありがと。あと、ちゃんと言ってくれたから、許してあげる――なんてね」
「……全部じゃない。その……な。俺……変なもん見えるようになった」
結李羽の目がきょとんとした。そりゃそうだよなと、隻は苦い顔になる。
「事故の……せいらしいんだけど。その変なもんが、お前をあんな目に遭わせた本当の原因かもしれないと思ったんだよ。――他人巻き込んで、それを探してた。そのせいで、そいつは怪我して……そいつの家業手伝ってでも、原因探したいって思ってる」
「え――どういう、こと? 隻くんがどうして、家業を継ぐことに――」
「俺のせいで、その家業の関係の人からそいつが睨まれたんだ。……首突っ込みすぎた。だから……京都に行かないといけない」
自分が最低だとわかっている。母の言葉も今さらながら思い出す。
こんなに青い顔で、それでも隻の無事を喜んでくれた恋人を置いていく自分が薄情にも感じる。
けれど――やっぱり、このまま忘れるなんて無理だ。
「ごめん。嫌ってくれていい。それでも絶対に、力つけてお前にそいつらの危害が及ばないようにする」
「……隻くん。言ってることよくわかんないけど、会えなくなるの? 電話もダメ? メールも?」
「へ? あ……メール、とか、電話までだめってほど大げさじゃないって、そいつは言ってた……けど……」
「うん、わかった。待ってる」
「は!?」
「会えないの、いつまで?」
「え、それは……いつまでか、は……い、一人前になるまで、だったか……いやまっ」
「じゃあそれまでにリハビリすればいいよね」
「は!?」
「どっちも助かったのにずっと一緒にいられないのは嫌。一緒にいられるようにできればいいんだよね?」
「それは」
そうだろうけどと言いかけて、隻は舌を丸めた。
あれ。俺なんか流されてないか。今。
「じゃあ、やることはっきりしたよ。――隻くんは、花嫁修業? 頑張って」
「おいそれ絶対違う。花嫁になりに行く覚えねえ」
「あ、そっか。あたしがしなきゃだ」
「そっ……あのな、ちょっと待て!?」
「間違ってないよ。隻くん、じっとしたく――ないんだよね?」
ついに隻はぽっかり口が開いた。
結李羽の顔はどんどんと青くなっている。言葉を出すのに、いつにも増して息を吸っている。
「納得できないんでしょ? あたしも。隻くんが、納得できないままで、この先も引きずるの、あたしが納得できないよ」
唇を噛みしめた。
結李羽は青い顔で笑っている。
「信じるよ。あたしも頑張るから、隻くんは、隻くんのやり方で、いいんだよ」
「――ごめ……」
「もー。そんなしおしおになっちゃ、おかしくて笑いそうだよー。隻先輩、かっこ悪くていいの?」
「るっせ……ありがとな」
懐かしい呼び方をされた。握った手は、少し冷たい。
全部を聞かないまま頷いてくれた彼女は、それから程なくして眠った。隻が病室を出たのは、日が暮れた頃だった。
「――先に言っときます」
病室の入口のすぐ脇で、ジャージの少年が壁に背を預けて声をかけてきた。
「あんさんだけが負うもんじゃねーんすから。――協力するっつったっしょ。力になります」
「……ああ」
千理の隣で、三毛猫が丸めた尻尾で床を叩いていた。