世界でいちばん
パソコンの光が痛く感じてきた21時頃。すっかり照明の落とされたフロアを見渡しさすがに帰らねばと荷物をまとめる。施錠と見回りに来た警備員さんに挨拶と会釈をし会社を出たところで眠らない街のネオンが疲れ目を刺した。思わず溜息がひとつ漏れてしまう。私は金曜日の夜にまで何をやっているのだろうか。若干自身に呆れながら歩き慣れた道をできるだけ早足で抜ける。こういった夜は早く帰るが吉なのだ。そう、早く帰ってお風呂はいってビール飲んで寝よう。そうしよう、と、思っていたのに。


「よっ、お疲れさん」
『……なんでいるの、兄さん』


ぐでんと横になり我が家のソファーを占領する白Tジーパン姿にまた溜息が溢れる。


『来る時は連絡ちょうだいねって言ったでしょう』
「したってば」
『……だからって勝手に上がんないでよ』


巫山戯はすれどくだらない嘘などつかない兄のことだから本当に連絡は入れていたのだろうと退勤時にちらりと見えた気がする通知欄を思い出しながら何とか言葉を返すと兄はそこまで見透かしたようにふ、と笑ってまあまあおいでよとこちらに向かって腕を広げた。何がまあまあなのか。心のなかで小さく反論しながら1度言い出したら聞かない兄の望みを叶えるべく"仕方なく"兄の腕の中へとできるだけ助走をつけて飛び込んであげた。


「うっ、!なまえ……」
『なあに』


そんな私を非難するような目線を向ける兄の厚い胸板に擦り寄りながらとぼけてみせるとちょろい兄は仕方なさげに息を吐いた。


「ま、なまえ1人くらい海藤さんのどつきに比べたら屁でもないか」
『そ。だから可愛い妹のダイブくらい軽く受け止めてよ』
「そうね。軽く受け止めるどころか……抱き上げちゃう、もん、な!」
『きゃっ!?』


私を両腕で抱き締めながらがばりと身体を起こしそのままの勢いで立ち上がった兄に横抱きの状態で抱き上げられる。一瞬の出来事に思わず振り落とされまいと兄の首に腕を回しきつく抱き着く。どくどくしてる心臓を必死に落ち着けていると兄が豪快に口を開けてはははと笑った。笑てるでおい。


『ちょっともう!兄さん!』
「ふ、いやごめんね。あんまりになまえが可愛いから抱き上げちゃった」
『独特な愛情表現やめて本当に』


兄の頬を片手で軽くつまみながらびっくりした、危ないでしょ、大体兄さんはいつも……と小言を零していると兄は頬をつままれた間抜けな顔のままうんうんと2つ頷いて私を抱き上げたままその場でくるりと回った。


『ひっ!おにいちゃん!!!』
「お、そうそうそれだよそれ」
『……なあに』


また急な動きをする兄を咎めようと大きな声を出すとそれまで黙って聞いていた兄が急に嬉しそうな顔をして私を抱き上げる腕に力を込めて私を抱きしめた。


「呼び方だよ。おにいちゃん呼び最近してくれないでしょ」
『当たり前でしょ。幾つだと思ってるの』
「いくつになっても俺にとっては可愛い可愛い妹なんだけどね」
『それはそれ、これはこれでしょう』
「もしかして元弁護士に口論で勝とうとしてる?」
『うるさいな』


私の首元に高い鼻筋を埋めてくる兄にくすぐったいと告げると兄は愉しそうに無邪気に笑った。


「なまえさあ」
『ん〜?』


やめて欲しいと言う私の言うことは聞かずそのままの体制で兄はぼそぼそと話し出した。せめておろして欲しい。


「帰りいつもこんなに遅いの」
『まあ最近はちょっとね』
「一人で帰ってきてんの」
『そりゃあ、まあ』
「明日から迎えに行くよ」
『え〜』
「なんだよ、え〜って」
『だって兄さんが来ると目立つし』


言いながら自身の高校時代を思い出す。偶に校門まで迎えに来てくれる兄を見た友人たちがなんだあのイケメンはと、とんでもない形相で詰め寄ってきたのを今でもよく覚えている。会社の人とできる限り馴れ合いたくない派閥の私としては暇を持て余した同僚たちのおもちゃにされるのは御免なのだ。


「そんなことないと思うけどな……」
『そんなことあるって。兄さんそれで尾行とかできてるの?』
「そりゃあ勿論。探偵ですから」


やっと項から顔を上げた兄が私を抱えたままベッドルームへと移動した


「俺が行けない日は海藤さんに頼むから」
『え〜いいよ本当に。海藤さんも目立つもん』
「はは、それは……確かに。なまえ見つけた途端超デケェ声で"おーーい!お嬢ー!"って叫ぶもんなあの人」
『そうだよ……お嬢呼びやめてって言ってるのに。』
「あの人にとっては俺はいつまでも"ター坊"だしなまえはいつまでも"お嬢"なんだよ」


ベッドに優しく降ろされスーツのジャケットを剥がれる


『着替えくらい自分で出来る』
「まあまあ」


そのまま私のスーツを剥いでしまった兄はリビングから見覚えのない紙袋を持って戻ってきた。どうしてそんなに他人の服を剥ぎ慣れてるの。


『なあにそれ』


先程まで追い剥ぎについて怒っていたくせに兄の持つ紙袋に興味を移しころっと態度を変えた私に兄は柔く笑うと紙袋の中身を取りだした。


「俺が着てないトレーナー。なんでかこの間海藤さんにこっそり持ってきてくれって強請ってたみたいじゃん」
『あ〜、まあ、はい。』



事務所暮らしでどうせ着ていないであろう兄の少しお高めなお値段のトレーナー達をデザインも気に入っていたしサイズ感も丁度いいし、何よりこの歳にもなって恥ずかしいが兄の私物を持っているとなんだか落ち着くので兄が使わないのなら私の部屋着にしてしまおうと海藤さんに個人的な"依頼"をしていたのだ。


「言ってくれればあげたのに」
『いやだって……』
「だって?」
『……なんでもない!ありがとう!!』
「なまえ?」


兄から紙袋を奪い取り中のトレーナーを1着出して頭からすっぽり被る。ワンピース丈になる裾をおろすと兄の煙草の香りが香った。
大人にもなってブラコン拗らせてるだなんて兄本人に言えるわけないでしょ。だから黙っててって言ったのに!海藤さんのばか!
心のなかで裏切り行為を働いた海藤さんへの罵倒を送っておく。


『ほらご飯食べるよ!どうせまだ食べてないんでしょ!』
「ちょっ、待てよ!」


いい歳こいた大人2人でどたどたとキッチンまで走る。案外海藤さんの言う通り、私たちはいくつになっても"ター坊"と"お嬢"なのかもしれない。
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