雨のち雲のち
強くなる一方の雨音に負けじと声を張り上げるキャッチ、通り過ぎた一瞬に聞こえる路地裏からの呻き声、一定のリズムで家路を辿る少し早足のヒール、液晶広告からの掠れた宣伝文句。
神室町は今日も夜に眠らない。
それぞれが廃れた過去を引き摺って欲を隠さず不穏な営みを織り成すこの街では必死の形相で走る女もその一部へと組み込まれてしまう。
濡れたスーツが酷い不快感を招き帰路を駆ける脚をより早いものにさせるも急げば急ぐほど強気に固めたポインテッドトゥが足を締め付ける。なんだかもう、泣き出してしまいたかった。酷い雨に濡れた自身が惨めに映ったからでは無い。非日常を引き連れた男の笑みが懐かしく思えてしまったからに他ならない。
自宅前にて何とか完走した疲労感と少しの満足感を胸に鍵穴へと鍵を差し込むと急に襲った違和感。朝、確かに施錠して出たはずの自宅だが今は不用心にも鍵が2つとも開け放たれている。他人の家屋にこんな不届きな行いをできる輩は限られている。本来の機能を果たさない2つの鍵が空き巣より強盗よりもっともっと恐ろしい男がこの扉の先に居ることを指し示していた。けれど焦がれた心が身体を嬲って重い扉の隙間に滑り込んで行く。視界の端にちらついた革靴に自身の靴も鞄も玄関に落としてリビングルームへとふらつく脚でまた駆けた。
「なんや、騒がしいやっちゃの」
まるで自宅のように寛ぎ倒す男が発した間延びした関西訛りの言葉に気が抜けて思わず乾いた笑みが零れてしまった。
「あ?傘はどうしたん」
『わすれた』
そんなことはどうでもいいでしょうと濡れ鼠の女が告げるも男はそれを良しとしなかったようで勝手知ったる他人の家とソファーから腰を上げて直ぐに洗面所からタオルを持ってやってきた。
「まあええわ。そんで、なまえチャンはずぶ濡れでなしてそないご機嫌さんなんや」
そのまま手にしたタオルでなまえの髪をそこそこに強い力で拭われる。髪が傷んでしまいそうだと思ったが口にはしなかった。久方振りに顔を合わせた男の機嫌を損ねてしまうのが怖かったからではなく、普段は気になる些細なこともそうでないことも男の顔を見たら全てどうでも良くなってしまったのだ。それほどまでになまえにとって男の来訪は嬉しいものであった。
『真島さんが来てくださったから、でしょうか』
真島さんの手の動きに合わせて頭を揺蕩わせながら告げると頭上からヒヒッと聞きなれた笑い声が降ってきた。
どうしてふた月も会うどころか連絡もくれなかったのか、どうして今夜は会いに来てくれたのか、どうして、どうして。不要な疑問が不意をついて出そうになる。
そんな私の曇る胸の内を知ってか知らずか真島さんは濡れた衣服に手をかけ始める。
「中々会いに来れんくて悪かった」
所謂 標準語といわれる言語を混じえた不思議な関西弁を扱う低い声で告げられた言葉にひくりと喉が吊る。
『……いいえ、今晩会いに来てくれただけで嬉しいですから』
だから謝らないでくれ、と言いたいのだが言葉がつかえてしまって最後まで出てこない。1枚1枚丁寧に剥ぎ落とされていく重たい布を眺めながら喉のつかえを少しずつ飲み下していく。
全ての衣服が取り払われるとそこには水を弾く冷たい肌が残るだけ。肌寒さを感じながら冷えてしまった指先を真島さんの首裏に這わせると鋭い隻眼が私を真っ直ぐと刺した。物分りのいい女、を演じている訳では無いしそうありたいと微塵も思わないが先も彼に告げたように真島さんの来訪に随分心が満たされてしまったのだ。
不思議と凪いだ胸が会えない時間を慣らしていく。
そういった私の気持ちを伝染させる様に真島さんの瞳を覗き返すと張っていた糸がふと緩むように真島さんの瞳も和らいだ。
『さて、お風呂にしましょうか』
「ヒヒッ、せやな」
重たい雰囲気を振り払う様に、にこりと笑いかけると真島さんはそれにつられるようにして顔を綻ばせた。歯を見せて笑う青年のような笑みに単純な心は晴れていく。私たちには会えない時間に理由が要らない様に会える時間にも理由は要らない。ただ、限られた時間を寄り添って過ごし時にそれを恋しく思えるのなら、それが2人の全てで良い。真島さんも同じ気持ちなら、きっとそれが良いと、なまえは思う。
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