ベッドを出れば戦える
なまえがホテルの部屋を出てから、上鳴はすぐにバスルームから出て身支度を整えていた。飲食店特有の匂いの付いた服をもう一度着るのには、些か抵抗があったが、バスローブで帰宅するわけには行かないので仕方なく袖を通す。その際にふわりと煙草の匂いがして、昨日の情事を思い出してしまう。煙草の味がするキスも、仕事の時には決して見られない甘えるような仕草も、鮮明に思い出せる。酒に酔った一夜の過ちとして片付けるには、なまえに気持ちが傾きすぎていた。普段は年上然として折り目正しいなまえが、与えられる快楽から逃れようと、他でもない自分にあんなに縋ってくるなんて、誰が想像できるだろうか。そのギャップにまんまとやられてしまって、もう他の女の子の事なんて考えられそうになかった。その気持ちは性欲から来るものか、本当に好きになりかけているからなのか、上鳴自身も分からなかったが、もう既になまえの事しか考えられなくなってしまっていた。朝から悶々とする気持ちを振り払おうと、バスタオルで髪の毛を乱暴に拭いて勢い良く顔を上げる。すると、ローテーブルの上に、キラリと光るものがあるのが目に入った。それは、昨日の飲み会で他事務所の先輩ヒーローの煙草に火を点けさせられていた、あのライターだった。それを手に取ってズボンのポケットに乱暴に突っ込み、急いで身支度を整えた。
同僚に見られないように時間を置いて出ようとなまえが言ったにもかかわらず、その時の上鳴は先に出たなまえに追いつきたいという気持ちだけが先行しており、なまえがホテルを出てから大して時間を置かずに外へと出た。忘れたライターを届けるという大義名分を得た上鳴は、小走りで駅までの道のりをキョロキョロしながらなまえを探した。しかし残念ながら最寄駅までの道すがら、なまえに会う事は出来なかった。とぼとぼと自宅への道のりを歩きながら考えるのは、やっぱりなまえの事だった。
上鳴が昼ごろに出勤すると、既になまえはパトロールに出ていて事務所に居なかった。事務所のメンバーに挨拶をしながら、上鳴はポケットの中のライターをぎゅっと握りしめた。更衣室でヒーロースーツに着替える際、持って行こうかと一瞬迷ったが、自分の個性で感電して爆発、なんて事になったらシャレにならないからやめておいた。脱いだジーパンやTシャツを適当に畳んでロッカーに入れていく。なまえのライターだけは乱雑に脱がれた衣服の上に丁寧にちょこんと置いた。そこまでして、なまえの忘れ物ひとつをこんなに意識しているのが恥ずかしくなって、ロッカーをバタンと乱暴に閉めた。
パトロール中に敵と出くわしたと、なまえ達から事務所に連絡があった。2人組でパトロールに出ていたなまえともう1人のヒーローだけで対処できそうとの事だったので、上鳴や他のヒーロー達は事務所で待機する事となった。テレビのニュースの速報で、なまえ達が敵を捕らえる様子が放送されている。昨日のなまえからは想像出来ない程、敵を容赦なく退治するなまえの様子をぼんやり眺めていたら、先輩ヒーローに注意された。
夕方になって漸くなまえ達は事務所に帰ってきた。敵の個性の影響で全身煤だらけのなまえ達に、他のヒーローがシャワーを浴びるよう勧めた。事務所にはシャワールームやランドリールームが常設されており、泊まり込みにも対応できる作りになっているのだ。その言葉に甘え、なまえ達はシャワールームへと向かって行った。上鳴はなまえ達が帰って来た時から、ソワソワしていた。そろそろなまえは定時の筈だし、ライターを返すならこのタイミングしか無いと思ったのだ。しかし、事務所のみんなの前で渡すのはあからさま過ぎる。どうにかして2人になることはできないかと、タイミングを見計らっていた。
やっとなまえに声を掛けることが出来たのは、なまえが退勤する直前だった。シャワールームから出てロッカールームへ向かうなまえを、上鳴は引き留めた。
「・・・っなまえさん!」
「あ、おつかれ。どしたの?」
シャワーを浴びて乾かしたばかりの髪の毛からふわりとシャンプーの香りがして、また昨日の事を思い出してしまう。なまえの一挙一動にここまで翻弄されてしまう自分が情けなかった。先程自分のロッカーから持ってきたライターをポケットから出して、勢いよくなまえに渡した。
「あの!これ・・・」
目の前に突き出されたライターを、一瞬何か分からず目をぱちくりさせたなまえだったが、それが自分の忘れ物だと気がつくと、ぱあっと顔を明るくした。そんな表情を見たのは初めてで、上鳴は一気に舞い上がった。
「あぁ!やっぱり忘れてたんだ!でも、こんなの安物だからわざわざ良かったのに。」
しかし、その後に続けられた言葉に、上昇した気分が一気に急降下した。
「届けてくれてありがとね。」
なまえはお礼を言った後、更衣室へ消えて行った。上鳴はしばらく放心状態だったが、いつまでもそうしている訳にもいかず、とぼとぼと自分の席に戻った。力無く椅子に座り込む上鳴に、事務の女の子が心配そうに声を掛けるが、上鳴は上の空だった。ここまで前と同じか、前よりも素っ気ない態度をとられては、昨日好きと言われた事でさえ、自分の幻聴だったのではないかと上鳴は思い始めていた。
ーーー一方その頃のなまえは、自分のロッカーに頭を勢いよく打ち付けていた。故意に、である。上鳴がわざわざ届けてくれたのに、素っ気ない態度を取ってしまった。内心は飛び上がるほど嬉しかったのに、職場という事と、シャワーを浴びた後でほぼスッピンなのが気になって、早くあの場を切り上げたいと思ってしまった。照れ隠しにしては、酷すぎた。自分はいつもこうなのだ。素直になれなくて、恋愛でも仕事でも失敗ばかりだ。
反省の意を込めて、もう一度ガン、と頭をロッカーに打ち付けた。ひんやりと冷たいロッカーが、シャワーを浴びて熱くなった身体をクールダウンしてくれるようだった。ひとつため息をついて、ロッカーを開けた。化粧ポーチを取り出した所で、スマホに連絡が入っているのに気がついた。何気なく確認すると、朝成り行きで連絡先を交換した瀬呂からだった。
『もし今日空いてたら飲み行きませんか?上鳴が一緒でも良いすよ!』
コンビニの前で軽く言葉を交わした感じだと、話しやすい子だなと思った。距離感を掴むのが上手くて、初対面なのに連絡先まで交換してしまった。飲みに誘うのも、警戒されると思ってなのかわざわざ共通の知り合いの上鳴を介して誘ってくるのが、流石だと思った。上鳴の友人ということもあり、なまえとしてはほとんど警戒を解いていたし、なんだか今日は誰かにこの自分の駄目さを聞いて欲しい気持ちだった。なまえは素早く返信をしてから、スマホを鞄の中にしまった。
『上鳴くんは今日遅出だから、遅くなると思うな。瀬呂くんが良いなら2人でも良いよ〜』
なまえからのメッセージを見て、瀬呂は思わず二度見してしまった。メッセージを送っときながら、いきなり飲みに誘ったのは距離を詰めすぎだったか?と内心ちょっと後悔していたからだ。だが、なまえからの返信は了承で、しかも2人で良いという事だった。共通の知り合いがいるという安心感からなのか、それとも男と2人で食事に行くくらいなまえにとっては何てことないのか、なまえの本心は知る由もなかったが、とにかく誘いに乗ってくれたのは嬉しい誤算だった。デートだと思っているのは自分だけかもしれないが、それでも気分は高揚してしまった。