幼い夢から覚める時

「何回聞いてもムカつく!なんで被害届出さなかったの!?」
「これ以上関わりたくないって思ってたし、逆恨みとかも怖かったからね」


友人は憤慨しながら、つまみのスルメを勢い良く噛みちぎった。実にワイルドである。名前もほろ酔いだが、目の前の友人もいつにも増してハイテンションで歯に衣着せぬ言い分である事からして、相当酔っているみたいだ。名前は昔を思い出しながら、はにかむように笑った。


「あの当時はほんとに、自分は他人の人生に関わっちゃいけないんだ、って本気で考えてた」


当時の事を振り返ると、自分でも馬鹿だなあと思うよ、と名前は付け加えた。もう名前の中ではあの事件は過去のものとなり、克服した様子だった。


「・・・でも、1人で生きていくなんて現実的じゃないって立ち直れた。今の家政婦の仕事も楽しいし。」


友人は、名前のこういう打たれ強い所は彼女の美点だと感じていた。儚げに見えて、その実いつまでも悩んでいる事はせず、ちゃんと前を向く事が出来るのだ。そういう姿勢を友人は好ましく思っていた。友人はそう言って笑う名前につられて笑みをこぼしながら、熱燗をあおった。


「でも、今の担当のお婆さんって、かなり気難しい人なんでしょ?」


お猪口を口に運びながら、友人は少し心配そうに名前の顔を伺った。だが、名前は何でもない事のようにそれを否定した。


「今までの人もみんなそう言って長続きしなかったみたいなんだけど、私にとっては祖母の方が厳しかったから。」
「・・・そっかぁ」


友人は名前の家庭事情を詳しくは知らなかったが、少し複雑な事だけはなんとなく察してはいた。これだけ美人で性格も良い名前が、極端に自己肯定感が低いのも、その家庭事情が関係しているという事も。それ以上深くはこんな酒の席で掘り下げるべきじゃないな、と友人はそこで言葉を切ったが、次に名前から出た言葉に熱燗を吹き出しそうになった。


「でも、そのお婆さんも先日亡くなられて、今わたし無職なんだよね。」
「えぇーーー!初耳なんですけど!」


今日は初めて聞く事が多すぎる、と友人は頭を抱えた。名前はそうだっけ?とあっけらかんとのたまった。微妙に抜けている所があるのは、ご愛嬌だった。一気に酔いが覚めた友人が、言い返す気力もなく項垂れているのを横目に、名前は「ちょっとお手洗い行ってくるね」と席を立った。そんな名前に片手を上げて反応しながら、まだやっぱり心配だな、と友人は意識を改めた。



今日名前達が利用している居酒屋は、雰囲気を大事にしているのか、全体的に店内は暗くなっている。所々に間接照明が置かれ、全席完全個室で遮音性も抜群のプライベート空間を意識しているらしい。年齢と共に、安いのがウリのチェーン店などは利用しなくなり、少し値が張っても料理やお酒の美味しい、雰囲気の良い居酒屋を選ぶようになった。とはいえ、この店は暗すぎるなと、歩いた事でアルコールが回って足元がおぼつかない名前は、トイレを済ませて自分達の席までの通路を歩いていた。転ばないように足元を見て歩いていたので、前から来た人に気がつかなかったようで、肩がぶつかってしまった。


「大丈夫ですか?」


踏ん張れると思ったのだが、自分で思っているよりアルコールが回っていたようだ。ぶつかった拍子に後ろにふらりとよろけてしまい、倒れないように相手が名前の腕を引いたので、相手の胸板に思いっきりダイブしてしまった。洋服越しでも分かる胸板の厚さに、男性だという事が分かり、名前は慌てて離れようと顔を上げた。


「すみません、・・・ご迷惑をお掛けしま・・・した・・・」

「・・・先生?」



そこには、先程まで友人との話で盛り上がっていた、かつての教え子ーーー轟焦凍がいた。最後に会った高校2年生の時から、さらに身長が伸びており、頭をかなり上に向けないと顔が見えない。インターン時よりさらに鍛えられて引き締まった身体。何もかもが、あの頃とは違う。彼はもう、名前の知る子供ではなかった。心臓がドクドクとうるさいくらいの鼓動を鳴らし、至近距離の轟にも聞こえてしまうのではないかと思った。顔が火照るのが自分でも分かる。身体中に血液が一気に循環し、くらくらとした。脳裏に、先程まで友人と話していた思い出話が浮かんだ。


「・・・王子様」
「は・・・」


ポツリと呟いた名前に、轟が思わず気の抜けた声を上げた。僅かに見開かれた美しい双眼と目が合い、ふにゃりと笑みをこぼした名前は、そのまま轟にもたれかかり、少し早い胸の鼓動の心地よさに身を委ね、瞼が下がるのを止められなかった。






「あ、轟くんおかえり・・・ってエエエエーー!!?」
「そのご婦人はどちら様だね!?」


トイレにしては少し遅いなぁとたった今飯田と話していた緑谷は、帰って来た轟が何故か女性を抱えているのを見て、たいそう驚いた。それは飯田も同じで、あたふたと所在無さげに手を動かして狼狽えている。ふたりのあまりの剣幕に押され、「お」と声を漏らした轟だったが、寝ている名前を気遣ってか、口の前に人差し指を当て、緑谷と飯田に静かにするようジェスチャーをした。2人は慌てて口を押さえ、轟が口を開くのを待つ。己の胸に頭を預けてもたれ掛かる名前を、下半身から床に下ろして膝裏を支えていた手を抜き、自分のアウターを簡単に丸めて枕にしてその上に頭を乗せた。普段から災害現場での救助も行う現役ヒーローの人を扱う手際は、素早く華麗なものだったようで、名前は少しも起きる様子はなく、穏やかな寝息を立てていた。その様子を見てふわりと表情を柔らかくした轟は、緑谷と飯田に向き直り、端的に説明した。


「先生だ」
「嘘でしょ!?」


緑谷が素早く突っ込む。この短時間に、何がどうなって何処にいるか分からない初恋の人と再会してお持ち帰りできるのか。突っ込みたい事は盛りだくさんだったが、とにかく今は女性の安否を確かめたかった。


「色々と聞きたい事はあるけれど、寝てるだけなんだよね?」
「ああ。トイレの前でフラついていたから声を掛けたら、何故か寝ちまった」


轟の拙い説明からも、それなりに付き合いの長い緑谷は全て汲み取ってくれたようだった。顔色も悪くないし、急性アルコール中毒などでは無さそうな事が確認でき、ふぅと一息付いた。こういう心配を無意識にしてしまうのは、ヒーローの職業病といっても良いのかもしれない。ここで、今まで2人の成り行きを見守っていた飯田が口を開いた。


「救けたのは良い事だが、その方のお連れの方が心配しているのではないだろうか?」
「確かに!!」


緑谷は次から次へと問題が出てくる事に頭を抱えたくなった。もしこれで連れが見当たらないと気付き、通報でもされたら誘拐未遂で疑われるのではないだろうか。嫌な予感が頭をよぎり、緑谷は真っ青になる。と、同時に寝ている名前の洋服のポケットに入っているスマホが振動し、着信を知らせた。思わずびくりと大袈裟に反応してしまった緑谷を他所に、轟が躊躇なくスマホをポケットから抜き取り、通話ボタンを押した。バイブが鳴っても起きない名前は、余程深い眠りについているのだろう。


「はい。・・・はい、苗字さんなら同じフロアの○番テーブルで寝ていますが・・・はい、轟といいます。・・・トイレから右に曲がって突き当たりの一番奥の個室です。」


いくつか電話口でやり取りをした轟は、自分たちのテーブル番号と場所を伝えて電話を切った。そして、どこか緊張した面持ちの緑谷と、心配そうな顔をした飯田に向き直り、口を開いた。


「連れの人、ここに迎えに来るみたいだ」
「あ、そう・・・」


緑谷がそう答えてすぐに、個室の入口の向こうから、女性の声が聞こえた。


「すみません、先程電話した者ですが・・・」


入り口に近かった飯田が戸を開け、女性が中を伺う。自分の荷物と名前の荷物を抱えてきた女性は、申し訳なさそうに部屋の中を覗き込んでぎょっとした。


「えっ!!?ショート!?・・・わ!デクにインゲニウムもいる!!??」


今やプロヒーローとして世間に名を馳せている轟達だ。こういった反応をされるのは慣れっこなので、緑谷が落ち着いて女性に「プライベートなので」とやんわりと静かにするよう促した。すぐにそれを察した女性は、すみません、と謝って声のボリュームを下げた。完全防音のVIPルームではあるが、入り口の扉を開けたままで話すと流石に外に声が漏れてしまうだろう。ひとまず女性を室内に招き入れ、個室の扉が閉められた。