――場面がぱらぱらと、本をめくるかのように素早く変わっていきます。会話は混じり合い、それらは膨大な情報として私に降り注いてきました。
教鞭を取り生徒を持ちハリーが入学し闇の帝王が復活して2重スパイになって。
時折通り過ぎる場面の中に、私と過ごした日々も所々現れていましたが、情景は止まることなく変わり続け、やがて1つのものに固定されました。
男の子は、手が黒くなっているダンブルドア校長先生の前で守護霊の呪文を使いました。
男の子の杖先から銀色の牝鹿が飛び出しました。それはあの女の子を表す守護霊でもありました。
それを見たダンブルドア校長先生の目には涙が浮かんでいました。
「これほどの年月が経ってもか?」
「…………。永遠に――、」
一瞬だけ戸惑った男の子は短く答えるだけでした。
そして私は目を覚ましました。両の目からは涙が音もなく滴り落ちています。
顔を少しだけ上げると、目を閉じたままのスネイプ先生が緩く私を抱きしめていました。
私は暖かい彼の腕から逃れるように身を起こします。部屋の中の寒さが私の心を凍らせるようでした。
ベッドから抜けた私のその動きで僅かに身じろいた先生でしたが、彼は長い長い夢を見ているようで、目を覚ましたりはしませんでした。
身を起こし、ベッドに座り込んだまま、私はスネイプ先生の寝顔を見つめます。
ただ1人の女の子を愛していた男の子は、成長し、女の子のためだけに教師となり、女の子のためだけに自ら危険に身を置いていました。
今、私が見ていたものはスネイプ先生の過去であり、スネイプ先生が今見ている夢の中だったのでしょう。
何の根拠もありませんが、私はそう確信していました。私は…『知って』いるのですから。
私はゆっくりとスネイプ先生の頬に手を伸ばします。
スネイプ先生の表情は怯えているようでも、そして何よりも嬉しそうでもありました。
例えどんな悪夢だったとしても、どんなに辛くても苦しくても、それが愛する人が出てくる夢だったら、それはとってもとっても幸せな事なのでしょう。
私の両目からどうしようもなく流れる涙を抑える術がないまま、私はスネイプ先生の黒い髪を軽くかき分け、先生の頬に小さく子供のようなキスをしました。
部屋には誰もいません。スネイプ先生もまだ眠り続けています。
このキスを知っているのは世界中で私だけでした。
私はゆっくりと唇を離して、眠り続けているスネイプ先生の顔を静かに見つめたあと、先生に掛布をかけなおして、ベッドから足を下ろしました。
裸足の足は地面の冷たさを直接伝えますが、私はそのままぺたぺたと寝室から抜け出しました。
スネイプ先生がゆっくりと眠れるように。幸せな悪夢の中にいられるように。
寝室から音もなく抜け出して、コートもろくに羽織らないまま、私は早朝のホグワーツ内を歩き出しました。
涙は枯れることなく、流れ続けました。
スネイプ先生の揺らぐことのない愛情を目の当たりにし、思い返すだけでも心身引きちぎられるような想いだったのです。
†††
ダンブルドア校長先生が落ちていった天文台のテラスの所で、私は風を浴びていました。朝焼けの眩しさに目を細めます。
遠くに見える禁じられた森をぼんやりと見つめながら、想い全てを吐き出すように長い息をつきました。
その時、後ろの扉が開く気配がして、すぐに聞き慣れた声が聞こえてきました。
「確かに今の時期はホグワーツに誰もいないからって、こんな朝早くに、尚且つ僕もあの教師も連れないで歩き回るだなんて感心しないな」
リドルくんが不機嫌そうな声で私の隣に並びました。
私はリドルくんを見ることなく、テラスの淵に手をかけたまま外を眺めていました。
「すみません。少し1人になりたくて」
「しかもこんな薄着で。風邪でも引かれたら僕が困るんだけど」
「…………すみません」
溜め息をつきながら呆れたように言うリドルくんに、私は再び謝ります。リドルくんは私の声を聞いて怪訝そうな表情を浮かべました。
「何があったの? 君は寝室に戻ってこなかった。校長室で休んでいたんだろう?」
リドルくんはなんてことがないように昨日の私の居場所を当てます。
私の表情を見て何かを悟ったのか、リドルくんは声を低めながら他の死喰い人に話す時のような恐ろしい声を出しました。
「場合によっちゃ制裁を下すが?」
怖いリドルくんの声に私は苦笑を返します。「そんなんじゃないですよ」と零して、私は屋上の防御壁に身体を預けて組んだ腕の上に頬を付けました。
「スネイプ先生に何かされた訳じゃありません。本当です」
「なら、何故」
私は俯きます。先程見てしまった『夢』を思い出してしまい、また胸の辺りが締め付けられるように痛みます。
どうして、こんなにもここが痛くなるのでしょう。どうして。どうして。わかっているはずなのに。『知って』いるはずなのに。
「………夢をみたんです。それはある人の過去でした。私のいない時の…、その人の決意が詰まった夢」
「………」
「ねぇ、リドルくん、他の人の過去を夢で見るなんてありえるんでしょうか?
そんなこと出来てしまっていいんでしょうか?」
過去は、誰にも侵されることのない個人だけのものなのに。
私はちらりと深く考えているリドルくんを見ます。リドルくんは少し黙ったあと、いつものような微笑みを浮かべながら私の頭に手を乗せました。
「……君は夢で移動する時、眠る前に行きたい場所を思い浮かべるんじゃなかったっけ?」
「は、はい」
「ならば、それが答えじゃないかな。記憶が脳または『心』、もしくは心臓その他に蓄積されるとして、君はその中に入りたかった。そしてその場所に実際に君は行ったんだ。
…尚且つ昨日は決してそれが遠い場所ではなかっただろうし」
彼の胸元に顔を埋め眠っていた私。距離的には本当に近い位置にいました。
また俯いて黙り込む私の頭を、リドルくんは慰めるかのようにゆっくりと優しく撫でていました。
「まぁいずれにせよ、全て予想に過ぎない。見てしまったものを忘れることは出来ない。それが重要であればあるほど、ね。
受け止めてしまえばいい」
その言葉に、私は返事をすることが出来ません。
リドルくんが私を覗き込むように身体を屈ませました。
「受け止めたくない?」
私は暫く黙り込んだあと、ゆっくりと頷きました。
そして独白を続けます。リドルくんは黙って私の言葉を聞いていてくださいました。
「……本当はわかっていたことなんです。私は見てしまう前から『知って』いたんですから。
でも、それを目の当たりにして…、あの人の中に昔も今も、私はどこにもいないのだと思ったら」
疲れたように目を閉じると、牝鹿の守護霊が浮かび上がるようでした。
「くるしくて」
生み出された牝鹿の守護霊。彼が1人の女性を愛し続けている証拠。
彼の中に私はいません。いるはずなんかなかったのです。
たった1人の生徒。それも自分の寮の生徒ですらありません。年が20近くも離れた小娘でしかないのです。
なのに。
「君は馬鹿だね」
リドルくんが呆れたようにそう言いました。
「辛いなら諦めてしまえばいいのに」
声は静かで抑揚がなく、見るとリドルくんもどこか遠い目をしていました。
私は首を左右に振って諦めることなど出来ないことを伝えます。諦めるなんて、考えられないのです。
「…手が、触れるんです。優しくて、意地悪で、冷たくて、なのにあたたかくて…」
そして私は無意識に避けていた言葉を思わず口にしていました。
「――好きなんです。
どうしようもなく…。あの人が、リリーさんが死んでしまっても諦められなかったように、私も、あの人を諦めることなんて……」
「Ms.!」
声が急に響いて、私の肩が震えました。彼の声が聞こえます。焦ったような声に私は身を固くして、隠れるようにリドルくんに寄り添いました。
「ここにいたのか―――……我が、君…」
現れたスネイプ先生は私と一緒にいるリドルくんに、微かに動揺しているようでした。
リドルくんはスネイプ先生に向かって凍え切った声を掛けます。
「下がれ、スネイプ。邪魔だ」
私は最初から最後までスネイプ先生を見ることが出来ませんでした。ただリドルくんに寄り添いながらスネイプ先生の気配が今来た扉を抜けて戻っていくのを感じていました。
静かに、私はリドルくんにお礼を述べました。私の肩を抱き寄せるリドルくんの声は先程とはうって変わって、酷く心配そうな声でした。
「……有難うございます。リドルくん」
「……ごめん。リク。でも、今の君をあいつに会わせるわけには…」
リドルくんは私を慰めるように優しい声をかけてくださいます。私は必死に口元に笑みを浮かべて目を閉じました。
ほとんどの力をリドルくんに預け、力なく震える足に必死に力を入れて、私は溢れだそうとする涙を堪えます。
「もう少し、傍に居てくださいますか?」
私を抱きしめるリドルくんはすぐに返事をくださいました。
「もちろん。リクが落ち着くまで。気が済むまで。リクの望む通りに」
リドルくんが私を、私のローブで包みます。そのローブは校長室においてきてしまったものでした。
きっと今、スネイプ先生が持ってきてくれたのでしょう。
仄かに香った気のする薬草の匂いに包まれながら、思わず一筋涙を零してしまいました。