「じゃあ、今日は強化薬の応用編だ。教科書とはちょっと違うことをしよう」
落ち込んでいる空気を払拭しようと、スラグホーン先生は明るい声を出します。ですが、生徒達は授業に何かを期待することがもうありません。ただ黙々と黒板に現れた材料を集め、ゆっくりと大鍋に火をかけ始めていました。
私も大鍋を取り出しながら、黒板を見つめます。そしてそこに書かれていた作業行程に少しだけ視線を止めました。
これでは…。指示されたものをそのまま実行してしまうと…?
疑問を抱いた私は視線をスラグホーン先生へと向けました。するとスラグホーン先生も私を見ていたようでぱちりとあった視線に私の方が驚いてしまいました。
きっとスラグホーン先生はこの作業手順のミスに気がついているのでしょう。
それならば。
私は与えられた催眠豆を、大鍋に張った湯の中に入れてかき混ぜながら、黒板には記されていないニガヨモギを軽く煎じて、軽く水ですすいでからこっそりと口に運びました。口の中に独特の風味と苦味が広がります。
多量に摂取すると嘔吐を引き起こすニガヨモギですが、この量では単に気付け薬になる程度でしょう。
口の中に残る苦味に顔をしかめつつ、生徒達が茹で上がった催眠豆を潰したものに魔法薬を濃くするために使われるレタス食い虫の粘液をかけて行くのを静かに見ていました。
粘液が掛かると同時にゆったりと広がる薄緑の煙。
そして、カタンと後ろの方の席で妙な音がします。生徒の視線がそこに集まりますが、不意に至るところで生徒達が崩れるように倒れていきます。
困惑が教室中を包む前に、私とスラグホーン先生以外の生徒全てが倒れていきました。
見ると生徒全てがすやすやと眠っていました。スラグホーン先生がおやおやと声を零します。
「おや! 黒板に誤りがあったようだ!」
そのわざとらしい声に、私は思わずクスと微笑みを零しました。スラグホーン先生は各机で作られてしまった強力な『催眠剤』にニガヨモギを落として中和させていきます。
スラグホーン先生が行っている作業を見つつ、私は眠ってしまった生徒の間に立ちながらゆったりと言葉を掛けました。
「最近眠れない生徒が多いと聞いています。
お優しいんですね。スラグホーン先生」
「やはり君は気付いていたようだね」
スラグホーン先生はそう言うと私に振り返りました。適度に保たれた距離の先でスラグホーン先生は私に優しげな視線を向けていました。
私は少しだけ咎めるかのような声で問いかけます。
「私が気付くとわかっていて何故? カローさん達に言いつけてしまいますよ?」
「君は優しい子だ。そんなことはしない。
言いつける気があるなら私が黒板に文字を出した時に止めている筈だからね」
スラグホーン先生はどこか疲れきったようにそう言うと、落ちるように眠ってしまった生徒達の作業台からレタス食い虫の粘液を瓶に戻していました。
それを見つめていた私もゆっくりと動き出して、かけられたままの火を止めていきます。スラグホーン先生の独白が続いていました。
「生徒はみな疲れきっている。未だに慣れない体制、世間は怯え切ったままだし、ここではカロー兄妹の虐待もある。
休暇が終わったばかりだというのに医務室はいつも調子を崩した者でいっぱいだ」
蔓延した恐怖は生徒にダイレクトに伝わってきます。抑えることのできない不安は体調に現れて、先程のハッフルパフ生のように倒れてしまった生徒で医務室は常に混雑していました。
閉められた瓶を棚に戻してから、スラグホーン先生は私の前に来て怪訝そうな顔をしていました。
「君はどうして、セブルスにつく?
セブルスは…、彼はダンブルドアを手にかけたというのに?」
戸惑いながらのスラグホーン先生の質問。
スラグホーン先生の質問はきっと先生だけが抱いているものではないのでしょう。
マクゴナガル先生も、他の先生方も。ジニーちゃんやロングボトムくんや何人かの生徒も、きっと抱いている疑問なのでしょう。
何故、グリフィンドール寮の私が、闇の陣営に付いているのか。と。
スラグホーン先生を見上げていた私は軽く俯いて自嘲するかのような笑みを口元に浮かべました。
「……理由は至って簡単ですよ」
とっても簡単な。私は笑みを浮かべたまま、自分の指先を見つめました。『彼』の手とは打って違って小さな子供の手が私の視界に映っていました。
「私は、どうしようもなく子供です。そして子供にはあまりにも甘美すぎるものがあります。
私はそれを知ってしまって、抜け出すことが出来ずにいます。ただそれだけです」
それは甘い砂糖漬けのフルーツのように甘美なもの。
私はスネイプ先生を思い浮かべながら、にっこりと笑みを浮かべました。
「それはハリーを助けたもので、『例のあの人』が悲しいことに持ち得ることがなかったものです。
私はそれをスネイプ先生に抱いてしまった。……決して叶うことのないそれを」
そう言うとスラグホーン先生は寂しそうな表情で私を見つめていました。
そして私が怯えてすらいるその言葉を躊躇いもせずに口にしました。
「君はセブルスを愛しているのかね」
「……」
言葉にしてしまえばそれはとっても陳腐な響きを持っていました。なんだか、酷く安っぽく思えたのです。
苦笑ばかりを零して、私は軽く瞳を閉じました。小さく囁くように言葉を続けます。
「それを私が本当に口に出すのは、とても難しい事なんです。
私は彼からすればどうしようもないくらいにただの子供なのですから。不毛な想いは口にするものではありません」
スネイプ先生は、私ではない他の人を、ずっとずっと愛しているのですから。
私は小さく息を吐いて、慣れたように奥の部屋から紅茶の缶を持ってきました。
スラグホーン先生の教室になったといえども、まだまだここにはスネイプ先生の私物があります。忘れ去られてしまったものも少なくありません。
そして半年以上忘れられている紅茶缶を少し寂しい思いで見つめながら、私はスラグホーン先生に言葉をかけました。
「紅茶を飲まれますか? まだニガヨモギの味が口に残っていて…。
少し茶葉が古いんですけれども……」
一瞬だけ黙り込んだスラグホーン先生は、小さく微笑みを浮かべて「是非」と言葉を返してくださいました。
「私の部屋にパイナップルの砂糖漬けもある。お茶請けにいかがかね」
「いいですねぇ。私、甘いものが大好きなんです」
眠ってしまった生徒達の横で、少しすると紅茶の良い香りが漂ったのでした。
†††
「それで呑気にお茶会を楽しんできたの?」
にっこりと頷く私にリドルくんは呆れつつも、諦めたかのように「よかったね」と言ってくださいました。
「スラグホーンもそんな回りくどいことをしなくても睡眠薬を普通に渡せばいいのに」
「睡眠薬を1人1人が持っているとしても、集めれば大量になります。危険だと判断したのではないですか?」
「今のホグワーツに帰ってきた生徒で自殺する生徒はいないさ。多分ね」
楽観的な声でそう言い切ったリドルくん。少しの不安を抱いた私ですが、その時廊下に響き渡った爆発音を聞いて、2人で顔を見合わせて苦笑を零しました。
きっと、またどこかで生徒達のクーデターが始まったのでしょう。少数派といえども、立ち向かっていこうとする生徒は決していなくはなりませんでした。
ホグワーツの生徒達のメンタルを心強く思いながらも、彼らの身を案じて私はリドルくんが制するのを抑えて、音の響いた方へと駆け出していきます。