冷水を浴びせられたような。
マリアはそんな思いがして思わず飛び起きた。車内で短い呼吸を繰り返す。気持ちの悪い汗が流れた。
「どうした?」
「アイアン、ハイド……?」
深い声が聞こえて彼女は酷く安心した。もうこの声が聞けなくなってしまったのかと思ったのだ。
マリアは荒くなった息を落ち着かせ、再び助手席に深く座った。
目を細めながらその車内を見つめる。何も損傷していない車内。彼女は優しく右側のドア辺りを撫でた。車のエンジン音が少し煩くなった気がした。
車の外の夕焼けが彼女達を照らしている。だが、この夕焼けもすぐに闇に落ちてしまうだろう。
微笑みを浮かべたマリアは言葉を零した。
「なんでもないの、アイアンハイド。少し嫌な夢を見ていたみたい」
「……。…………なら、いいが」
返答は車のスピーカーから聞こえた。運転席には誰もいない。それもそのはず、彼はこのGMC・トップキックそのものなのだから。
アイアンハイドの声が続いた。
「戻ってボディチェックをしてもらうか?」
「ううん、ありがとう。私は大丈夫。
でも、まだ戻らなくてもいいのかしら。みんな心配してしまう」
目覚めたばかりかどうかはわからないが、マリアは思考の端が麻痺するような感覚を味わっていた。
微睡んでいるかのように薄目を開けるマリアに、スピーカーから、人間で言う喉の奥を鳴らして笑うようなそんな音が聞こえた。
「せっかく邪魔もなく2人でいれるんだ。マリアの体調が良いならば、もう少しゆっくりしよう」
「………そうね。私もアイアンハイドとゆっくりしていたいわ」
彼女の胸元にはドックタグと一緒に直径5cmくらいの歯車がチェーンに通されていた。
マリアはその歯車を指で軽く持ち上げて見つめる。その視線には愛おしさが滲み出ていたが、ふと、瞳に疑問が混じる。
「………この歯車、貴方から貰ったの…?」
「……………酷いな、マリア。人間は誓いの為に指輪を送るのだろう?」
これは「結婚指輪」。種族の違う彼女達を結ぶ物。
不満げなアイアンハイドの声だったが、マリアは思考の端にかかったモヤに違和感を感じて深く黙り込んだ。
そしてマリアはその歯車を見つめたあと、先程からビークルモードを続けているアイアンハイドに声をかけた。
「ねぇ、ここには誰もいないわ。ビークルモードを解いてもいいんじゃない?」
貴方の手に触れたいの。と、彼女は言葉を続けようとしたが、突然襲ってきた寒気に彼女は自身の肩を抱き寄せた。
気付けば、今まで夕焼けを見せていた外がいつの間にか暗くなっていた。
「いい加減、いかないとな」
車のスピーカーからやけに響いて聞こえた声に、マリアは歯車を強く握りしめて声を返した。
「まだ2人でいたいわ」
「そうも言ってられない。オプティマス達が待っているだろう? 俺もいかないと」
エンジンが再び唸り声を上げた。彼らの休息は決して長いものではない。
マリアは抵抗するかのように身を起こしてダッシュボードに辺りに手をついた。彼女の声は震えていた。
「アイアンハイド。貴方も一緒に帰るのよね? オプティマス達の所に」
「……………俺にはジャズ達が待っている」
声にマリアは自分の目から涙が溢れているのに気が付いた。
それと同時に今まで見ていた悪夢を、今まで続いている悪夢を思い出した。
アイアンハイドはセンチネル・プライムに殺されたのだ。
「思い出させたくはなかった」
彼の声は彼にはとても似合わない切なげな声だった。答える彼女の声は彼女が驚く程に冷静だった。
「これは私の夢?」
「いや、違う」
「じゃあ、貴方の夢?」
「俺達は夢を見ない」
「じゃあ、ここはなに?」
「さぁな」
短く答えたアイアンハイド。
助手席に座ったマリアは痛みを耐えるかのように歯車を握りしめていた。
未だにマリアの目からは涙が溢れていた。
「いや。いきたくない。帰らないわ。私も貴方と一緒に」
「マリア、」
アイアンハイドが彼女の名前を呼んだ。マリアは彼の声を静かに聞いていた。アイアンハイドは声に困惑を乗せていた。
「たのむ。なかないでくれ」
弱々しい声は彼に似合わなかった。
彼は本来の姿にトランスフォームをする。助手席に乗っていた彼女は、吐き出されるように外に出されたが、車内にいる間にトランスフォームするアイアンハイドには慣れていた。
彼の足元に怪我もなく、転ぶこともなく着地する。
そして、マリアはアイアンハイドへと振り返って、驚愕と絶望に瞳を丸くした。
アイアンハイドの力強いその姿は端々が腐食で汚れ、彼がマリアに伸ばした手は今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
苦しげなアイアンハイドの声がマリアへと降り注ぐ。
「この手では、マリアに触れることもままならない」
「……貴方は触れれないかもしれない。でも、私からは触れられるわ」
足元から両腕を伸ばしたマリアは、彼に出会った時からついている片目の傷に触れる。
アイアンハイドは片膝をついて身を屈め、マリアが悲しげな顔をしながら、自身の顔を撫でているのを見守る。
マリアは顔を上げてアイアンハイドの顔の表情パーツにキスをする。彼女は涙を無理やり止めていた。
「………いくわ。守らなくてはいけないの」
なにを。とは彼女は言わなかった。アイアンハイドも聞くことはしなかった。
アイアンハイドは無言のまま立ち上がると、再びビークルモードへと戻る。その車内は今にも崩れ落ちてしまうのではないかというほど、深く傷ついていた。
マリアはそれでも愛おしく傷付いたハンドルを撫でていたが、彼の声が聞こえて指を止める。
「向こうに戻るまでだいぶかかる。それまで眠っていたらどうだ?」
アイアンハイドが言うほど、マリアは疲れてはいなかった。だが、急に迫って来た眠気に、逆らうことが出来ないと悟り、苦笑を零す。
愛する彼の運転ならば安心して眠ることが出来るだろう。
「じゃあ…、お言葉に甘えて。
着いたら起こしてくれる?」
「あぁ。了解」
アイアンハイドのその声は何故かノイズがかかっているかのようにも聞こえた。マリアがまた溢れ出しそうになった涙を堪えていると、すぐに眠りに落ちてしまった。
さいごまでお互いに「アイしている」とは言わなかった。言えなかった。
†††
冷水を浴びせられたような。
マリアは気が付くとアイアンハイドの手の中にいた。
アイアンハイドの瞳にはもう光は点っていない。それどころかアイアンハイドだったかどうかもわからない。
「………」
それでもマリアはその腐食に沈んだ金属の中から奇跡的に無事だったらしい5cm程の歯車を手にした。
そして今までドッグタグしかぶら下がっていなかったチェーンに歯車を通して、彼女は凛と立ち上がる。
いつまでも幸福な夢を見ている訳にはいかない。彼女は軍人だ。民間人を守らなくてはいけない。
冷水を浴びせられたような。
彼女の身体は酷く冷たくなっていた。死人のように冷たくなっていた。
冷水を浴びせられたような。
「 アイアンハイド 」
マリアの声は地面に落ちて、誰にも拾われずに弾けて飛んだ。
(冷たい息を吐く)