その日の彼女は部活に少し遅れてきた。
しかも、秀徳高校ではマネージャーもジャージに着替えるというのに、彼女は制服のままで。
それは本当に珍しいことであり、心配をした大坪が様子を見に行くよりも前に、いつの間にか緑間がマリアの元に向かっていた。
「遅いのだよ」
「んー。ごめんなさいー。準備するねー」
スカートの裾を少し揺らし、更衣室に向かおうとするマリアだったが、緑間はマリアの口元が少し汚れているのに気がつき、彼女の腕を掴んだ。
「! お前はまた何を食べてきたのだよ!
目を離すとすぐ拾い食いする…!」
「んー…」
よく見ると口の端に土がついている。緑間は深々と溜め息をついて、今日のラッキーアイテムであるハンカチを取り出して、マリアの口の周りを拭いた。
ぐにぐにと拭かれながらも、マリアは緑間の腕を掴んだ。
「せっかくのラッキーアイテム、汚れちゃうよー?」
「そんなのはいい。きっとこの時のためのラッキーアイテムなのだよ」
そう言い切った緑間に、マリアの表情が緩む。
「ふふ、ありがとー」
無邪気な笑みだった。
微かにそれに違和感を抱きつつも、緑間はマリアの口元を拭いて、それから彼女の身体についていた土を払った。
「…転びでもしたのか? 背中にもついているのだよ」
マリアは大人しくしながら、困ったように微笑みを浮かべる。
「………食べろって、言われたから食べたんだよね。
そしたら気味悪がられた。いやいや困ったよー」
ぴたっと緑間の手が止まる。深緑色の目が細くなり、マリアの呑気な表情を睨みつけた。
マリアが『異食症』であるが故に孤立することは少なくはない。
中学の時は基本的にキセキの世代と共にいることが作用し、そこまで過激化はしていなかった。
だからこそ油断をした。と、緑間は内心呟く。
「……誰にやられたのだよ」
「言わないよ。
少なくとも私達のエース様には」
普段の間延びした話し方をやめ、きっぱりと言い切ったマリア。緑間が一瞬黙り込んだあとに、マリアはにっこりといつもの無邪気な笑みを浮かべた。
「ふふ。ジャージに着替えてくるねー、緑間くんー」
そして彼女は緑間が掴んでいた腕をすり抜けて、更衣室に向かっていった。
睨むようにマリアの背中を見ていると、ボールを抱えたままの宮地が緑間に声をかけた。
「緑間ぁー、サボってんじゃねぇぞ」
「………はい」
試合に出る前のような鋭い雰囲気を漂わせている緑間。宮地は持っていたボールでドリブル練を始めながら緑間に声をかけた。
「…もう少し待ってろ、緑間」
表情を上げる緑間。宮地は後輩の姿を見ることなく、練習を続けていた。
「そーゆうのは女の方が情報が早いんだよ」
「……マリアのこと、知っていたんですか」
「2、3年の間じゃあ、有名だからな」
どこにいても異質な存在は目立ってしまう。まだ学校になれ始めてきた1年生よりかは迅速に、マリアのことは学校に広まって来ていた。
そして、出過ぎた杭はいつか打たれてしまう。
「くだらない。マリアはマリアなりに人事を尽くしているのだよ。それを他人がとやかく…」
「だから、待ってろってんだろ。緑間」
不意に飛んできたバスケットボールを、緑間は受け取る。宮地は緑間に向かって声を投げかけた。
「今、マネージャー達が主犯格を探してる。そーゆうのは女の方が早いっつったろ。
1年は黙って先輩に任せてバスケでもしてればいいんだよ」
「………」
じっとバスケットボールを見つめた緑間は、そしてそのまま打つ構えに入り、1mmたりともずれることのなく遠距離の3Pシュートを決めた。
宮地はそれを振り返って見送り、顔をしかめた。
「ここからの距離でも決めるのかよ」
「俺は人事を尽くすまでです」
そう答えた緑間は宮地に僅かに頭を下げたあと、練習に戻るべくコートの中央に向かって行った。
その途中、着替えて戻ってきたマリアの髪を軽く引っ張っていった。
驚くマリアが頭を押さえながら緑間を見上げる。
「な、なんなのだよー?」
「真似をするな。
意味はないのだよ」
「えー、酷いよー、緑間くん」
呑気に笑ったマリアに、緑間は誰にもわからないようなくらいに小さな笑みを浮かべた。
†††
「めずらしー。高尾くんも寝坊するんだねー」
マリアは殆どの空っぽのスクールバックを高々と上げながら、緑間の隣でくるくると回っていた。
緑間とマリアは2人、よくなれた道を歩いている。家が近い彼らは本来、このスタイルで中学校にも通っていた。
高校に進学をし、高尾が現れてからは、高尾が自転車をこぎ、その後ろに繋げたリアカーに緑間とマリアが乗るという、なんとも珍しいスタイルで登校していた。
跳ねるように歩いているマリアは、後ろを振り返り、緑間の姿を確認しながら歩いている。
片手で眼鏡を押し上げた緑間は、陽気なマリアの姿を見ていた。
ふと、マリアの足が止まり、「そういえば」と緑間の隣にならんだ。
「そういや、最近、緑間くん、ずぅっと私と一緒にいてくれるよねー」
登下校はもちろんのこと、昼休みや細やかな時間も、緑間はマリアの傍にいることが多くなった。
同じクラス、同じ部活ということもあり、前々から行動を共にすることは多かったが、マリアはそれが最近特に多いような気がしていた。
「嫌か」
「ううんー。全然嬉しー」
短く問う緑間にマリアはニコと笑ったあと、彼の隣に並んで彼の表情を見つめていた。緑間は少し黙ったあと、考えるように話し出す。
「…俺は赤司のように権力などないからな。こうでもしないとお前は見張れない」
「あれ? 見張りなんだー。守ってくれてると思ってたのにー」
笑みを浮かべるマリアは確信犯のようで。無邪気さの中にもなにか別なものを感じさせた。
緑間と行動を多くすることによって、マリアが個別の『呼び出し』を受ける回数は大幅に減ったのだ。
ニコニコと笑うマリアと、再び黙り込む緑間。片手で眼鏡を押し上げた彼は、溜め息とともに言葉を出した。
「……俺は、お前がまた妙なものを食べないか、見張っているのだよ」
「ふふふ。そっかー。んー、ありがとー。
私、嬉しー」
マリアはニコと微笑んたあと、揺れていた緑間の左手と自分の右手を繋いだ。驚く緑間だったが、長年の付き合いでマリアの突然の行動には慣れている。
自分の左手はマリアの自由にさせることにした。
そしてマリアは微笑む。彼のテーピングで守られた手を握りながら、彼女は自分は特別な位置にいるのだと微笑みを浮かべる。
緑間が大事に守っている、この左手には触れることが出来るという特別が嬉しくて。
「緑間くん、もし、私がさー、このビョーキが治って普通の女の子になったとしても、緑間くんは私のそばにいてね」
「お前の面倒をみろと?」
「うん」
マリアはニカッと笑って、その可愛らしい口から八重歯をのぞかせた。
「じゃないと食べちゃうぞー」
苦笑をこぼした緑間が仕方が無いといったように、ため息をついた。
「…………俺は美味しくないのだよ」
「えー? すっごく美味しそうだよー、緑間くんは。
高尾くんよりも、宮地先輩よりも、赤司くんや、青峰くん達よりも、私は緑間くんが美味しそうに見えるよー」
指折りながらそう言ったマリアに、緑間は困惑を隠さないまま、繋いだ手を少し強めに握った。
「気を付けなければ、いつかマリアに食われそうなのだよ」
「食べちゃうぞー!」
相変わらず八重歯をのぞかせながら、がうと笑ったマリア。
深く黙り込んだ緑間だったが、ふいに少しかがんでからマリアと繋いだ手を自身の口元まで近づけ、彼女の人差し指の付け根にがぶりと噛み付いた。
驚くマリアが目を丸くして緑間を見上げる。
彼は指を離してから、いつもの癖で眼鏡を片手で押し上げた。
そして、ふいと体を起こして、マリアをおいてずんずんと先に進む緑間。
ぽかんとしていたマリアだったが、すぐに彼を追いかけて、彼の腕をとって耳の赤い緑間の顔を覗こうと立ち回る。
「緑間くん、今のどうしたのー? ねー!」
「煩いのだよ」
「ねー! ねー! 緑間くんも食べたくなったー? ひとくちー?」
「煩いのだよ」
「ねーってばー!」
頑なに同じ言葉を繰り返す緑間にマリアは興味津々で追いかける。
楽しそうなマリアはぐいっと緑間の胸元を掴んで引き寄せた。バランスを崩して、マリアと顔が近づく緑間。
「じゃー、私も『ひとくち』」
がぶりと。食べるようにマリアが奪ったのは、緑間の唇で。
慌てた緑間が、すぐに離れていったマリアを確認した時には、マリアはほんの僅かに頬を染めて、にこりと微笑んでいた。
「ごちそーさまでした」
両手を合わせて、軽く首を傾げたマリア。逃げるように駆け出していったマリアを、緑間は身長差故の歩幅ですぐに詰め、また並んで歩き始めた。
真っ赤に顔を染めた2人。
そしてマリアがまた繋ぎ始めた手を、緑間は何も言わずに受け、2人は高尾不在のその通学路を歩き続けた。
(いっぱい食べる君が好き!)