【憧れ】(国木田)

私には兄様がいます。完璧な理想を追い求め、常に自らを向上させてゆく事が出来る素敵なお方です。
他の誰よりも理想を追求し、尚且つ誰よりも現実主義である私の兄様。私の自慢の同胞(ハラカラ)。

「早く支度を済ませろ! 出社時刻に遅れる気か!」

彼の方は多分、自らが生まれる時に母様の腹から堅実さと云うもの全てを吸い取ってしまったのでしょう。
後に生まれて来た私は、兄様が心配なさる程度には日々の暮らしを楽観的に過ごしていました。

「すみません。独歩兄様…。ですが、探偵社への出社時刻までは、未だ時間が多々ありますわ」
「其れでもあと1時間と47分程しかない。お前の髪を梳かすのには時間が掛かるのだ」

1分どころか1秒単位で計算される兄様の計画。彼の方の手帳には日々の予定という予定が詰まっております。
そして、其れは数年後の『理想』も細かく記されており、今日の夕餉の事すら考えていない私からしたら其れはもう、天と地の差でありまして。

朝の時間を割いてまで。態々(ワザワザ)私の部屋に訪れて私の身支度を整えて下さる兄様。兄様の高貴な手帳には私の事等書かれていない筈なのに、こうも世話をして下さるのは、独歩兄様が基本的に世話焼きな人だという事でありましょう。
そして私はどうしようもなく兄様の計画を狂わせてしまう存在な訳でありました。

こんな酷く手の掛かる妹の事を兄様は何と思っているのでしょうか。
怖くて聞き出せない臆病な私の思いを、兄様は知らないのでしょう。

兄様のように成れない私。酷く酷く己に弱い私。
この様な朝の短い時間ですらも、計画通りに歩めない脆弱な私。

何時か兄様に縁を切られてしまったら。恐怖は緩慢に私を包むのです。

「梳くぞ」

漸く寝ぼけ眼の私を起こした独歩兄様が、私の伸びた髪を櫛で撫でます。
兄様の細い指が私の髪を一束ずつ持ち上げ、そして丁寧に丁寧に梳いでゆくのです。

「髪を切ればいい。長いと邪魔だとお前は前々から云っていただろう」
「…確かに邪魔ですけども。でも、私は今の長さが大層気に入っていますの」

兄様を真似て伸ばした髪は、ようやっと兄様と同じくらいにまで伸びました。兄妹揃って同じ色をした髪は私が好きなものの1つでした。

決まって私の前を歩み、私の道を示し、そして私を守る兄様の、其の背に流れる長い髪を真似て。

嗚呼、でも。この長い髪すらも、兄様の理想を崩す一因となっているのでしょうか。

「兄様は切った方が良いと思います?」
「お前の髪だ。気に入っているなら、無理に切らなくていいだろう?」
「そうでは…、なくて……」

私は足枷になど成りたくないのです。誰よりも、彼の誰よりも、国木田独歩と云う完璧な人間に憧れている私が、貴方の足枷になど。

深く黙り込んだ私を、独歩兄様は訝しんだのでしょう。
櫛を通しながら髪を軽く引かれ、私は困惑した表情のまま、兄様に振り返ります。

「独歩兄様?」
「俺の手帳には」

私は言葉の続きに僅かな恐怖を覚えながら待ちました。
何と云ったって兄様は、太宰様に予定を狂わされた時と同じような不機嫌そうな顔をしていたのですから。

独歩兄様は云います。

「俺の手帳には朝からお前が悩み事をするとは記載されていない」
「………私の事も、其の手帳に? 其の、理想を記した手帳に?」
「お前は俺の妹だ。何か問題があるのか?」

問題ならば大有りでしょう。他の家庭ならば、此処まで兄に管理されている妹もいないでしょうに!

「……では、独歩兄様が毎朝私を起こし、髪を梳いて下さるのも、手帳に?」
「? 何を言っている? 其れが『理想』と云うものだろう」

さも当然の事の様にそう云った兄様は、私の髪を手馴れた手付きで束ねると、私の前に回って上手く結ぶ事の出来なかったリボンタイを結び直しました。

「俺の手帳に書かれているお前は、今日も、明日も、その先も、悩みなど抱えないと書かれている。
 だから悩みなど抱えるな。其れは俺の理想と反するものだ」

何と云う理不尽な兄様だこと。其れでも、兄様の乱暴な言葉端に伝わってくる、私を気遣う思いが、私は酷く喜ばしくて。
こんな足を引っ張る妹だとしても、兄様はご自身の其の大切な手帳に私の事も書いて下さっていて。

嗚呼、此の儘では私はきっと駄目な人間に育つのでしょう。

こんなにも甘やかされて育っては、きっと何時の日か罰が下ってしまうのでしょう。

其れでもこの微睡みの中で生活する事が何よりも幸福だと感じる私は、きっときっと悪い子なのでしょう。

「準備は整ったな。
 急ぐぞ。出社に遅れる訳にはいかない。今日も山程雑務が有るのだから」

先を行く独歩兄様は、慌てて外套を羽織る私を待ちます。
1人で先に歩んでしまっても何ら変化のない道を、其れ所か1人の方が手際良く歩める筈の道を、私を先導しつつ共に歩んで下さります。

私が世界中で何よりも敬愛する、自慢の兄様。

私は其の背を追い掛けながら、彼の方の理想を垣間見るのです。


(憧れ)


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