『あの子の名前も知らないまま』(3年目)

雨が降ってきた。心底忌々しいと思っていた雨も、ほんの数日前に起きたあの出来事以来、それほど悪いものではないとさえ思う。

だが、前と同じ雨宿りの場所を選んでしまった自分は、酷く女々しくて笑えた。

「……馬鹿らしいな」

紫煙と共に何かを吐き出し、軽く目を伏せる。
そして雨の中を駆け抜けるべく、1歩を踏み出そうとしたその時。

「あれ。またお会いしましたね」

雨の中。軒下の外。スモーカーの数歩前。深緑色の傘を差したアスヒがスモーカーに向かって微笑んでいた。


†††


傘を差していたアスヒは、軒下で雨宿りをしているスモーカーの姿を見ると、傘を閉じて彼の隣に並ぶ。
トントンと傘から落ちる雫を払うアスヒのために、スモーカーは1歩横にずれる。アスヒは微笑みを浮かべながら、彼を見上げた。

「今日も雨ですね。海軍さんは雨男さん?」

澄んだ声がすとんと彼の中に落ちていく。少し前に無くしてしまったものを見つけたかのような。失った半身を取り戻したかのような。

スモーカーは吸っていた葉巻を自然と消して、小さく笑い返した。

「雨男の能力者か。それは厄介だな」
「ふふ」

口元を軽く隠して、アスヒは笑う。それだけでスモーカーの何かが満たされるようなそんな気になった。

「…あんたは今日も買い出しか?」
「今回は私用のお出かけですよ。
 珍しくお休みを頂いたので、指輪の手入れしてきたんです」

そう言って、嵌められている赤い宝石の指輪を撫でるアスヒ。

ふんわりと優しげな表情をしたアスヒを、スモーカーはじとと見つめる。
優しげなアスヒの表情を見れた喜び半分と、その表情を浮かべさせた指輪に嫉妬紛いの感情半分とを抱いて。

「………なぁ、」

次に会った時に言おうと思っていた、その一言口にするだけで喉が渇くような思いでいっぱいになる。
言葉を控えたスモーカーを、アスヒは不思議そうに見る。小首を傾げたアスヒはとても綺麗だった。

「どうしました?」
「…。ここらへんで、美味い飯屋を知らないか?」

ようやっと出した言葉は、思っていたものとは少し違うような気がした。
それでもその違和感を正すことは出来なくて、質問を受けたアスヒは頬に指先を当てながら考え出す。

「うーん…。あまり詳しくはありませんけれど…、オススメの場所が1箇所だけありますよ」
「雨宿りついでに行かないか?」

雨は都合のいい理由だった。理由はなんでも良かった。
ただ、もう少しだけ彼女といられればそれでいいのだから。

「いいですね」

返事を得られるまでの数秒が、スモーカーには永遠にも思えた。
了承を得られたということに気がつくまでに、さらに数秒を有した。

「半分どうぞ」

彼がなんのアクションも起こせないまま固まっていると、アスヒは傘を開いてスモーカーを待っていた。
差し出された傘に、スモーカーはいつの間にか止めていた息を小さく吐き出して、アスヒと同じ傘の中に入った。

「俺が持つ」
「その方が良さそうですね」

アスヒよりもずっと身長の高いスモーカーがそう言って傘の柄に触れた。身を縮ませているスモーカーに苦笑を零しながら、アスヒは柄から手を離した。
雨に濡れないようにスモーカーに寄るアスヒ。女性用の小さな傘故に2人の肩が触れそうな程に近付いていた。アスヒが雨に濡れないように傘を傾けるスモーカー。
傘から落ちる雫で彼の肩が濡れていたが、それすらも気にならないくらい、彼はどうしようもない程の緊張に包まれていた。

なんの会話をしていたのかを、スモーカーは覚えていない。
ただ当たり障りのない会話をぽつぽつと続けているうちに、アスヒは顔をあげて少し先にある店を1つ指差した。

「あそこのお店です」
「…へぇ」

アスヒが案内してきたのは少しだけ高級感の漂うお洒落なお店だった。
彼女ははにかみながら「たまにしか来れないんですけれども」と店の軒下へと入った。

「お洒落な所でしょう?」
 でも、あまりお料理の値が張るわけでもないんです。何より、ここのお水はとっても美味しいんですよ」
「そりゃいいな」

楽しげなアスヒを見て、スモーカーの表情も和らぐ。窓際の席に座ると店員がメニューを持ってきた。
何を注文しようか悩んでいるアスヒの前、スモーカーは何でもないという風に軽く声をかけた。

「奢る」
「え? …そういうわけにもいきませんよ」

メニュー表を追っていたアスヒは視線を上げて、口を尖らせる。
だが、スモーカーはそんなアスヒの視線を受け流して言葉を続けた。

「俺がそうしたいんだ。大人しく奢られてくれ。
 それに格好がつかないだろう」

スモーカーが食事をしたくて。それでアスヒに良い店を紹介してもらった身だ。
ここで綺麗に割り勘でという話をするのにも格好がつかないし、そこまで金銭に余裕がないわけでもない。

スモーカーは絶対にアスヒに代金を支払わせる気はなかったし、アスヒもスモーカーの意思を感じ取って小さく悩ましげな唸り声を上げた。

「決まったか?」

納得はしていない様子のアスヒだったが、やがて控えめな表情で1つのメニューを指し示した。
照れたような顔をしているアスヒを見て、スモーカーは満足げに小さく笑みを浮かべて店員を呼んだ。

そして運ばれてきた料理にアスヒは目を輝かせて、フォークを手に取る。アスヒのお気に入りのその料理はいつものようにとても美味しそうだった。
スモーカーもそんなアスヒの姿を見つめてから、自身の前に運ばれてきた料理に手を伸ばした。伸ばそうとした。

「海賊だー!!」

外から大きな悲鳴にも似た声が響き渡った。アスヒの手は止まらずに食事を続けていたが、スモーカーの手は声を聞いた瞬間に止まっていた。

「お仕事ですか? 海軍さん?」

口の中に含んだものを嚥下してから、微笑みを浮かべたアスヒがスモーカーに問いかける。
顔を顰めるスモーカーにアスヒは変わらず微笑み続けていた。

「この国には国王軍も、そして王下七武海のクロコダイル様もいらっしゃいますわ。今日ぐらいあの方達に任せてもいいんですよ?」
「そんなわけにはいかねぇ」

すぐに返ってきた答えにアスヒは満足げに微笑む。彼女はその答えを予測していたかのようだった。
スモーカーは握ったばかりのフォークを元あった場所へと戻していた。

「また会えたらいいですね」
「明日の朝、この国を離れる。もう会わねぇよ」

思わず溢れる溜息。スモーカーは立ち上がって愛用の十手を握りしめた。
仕事だとはわかっていても、そして海賊達を決して逃しはしないと思いながらも、今この場を離れることを、アスヒと離れることを惜しく思う。

今回は視察でこの国に来ただけだ。再びこの国に訪れる可能性は低いだろう。
そして、アスヒに再会する可能性はもっともっと低いだろう。

スモーカーがそう思いながら背を向けていると、アスヒはその背中に声をかけた。

「2度と会えなくなるわけではありませんよ。海は繋がっているんですから」

ちらりと振り返ったスモーカーは、にっこりと笑顔を見せているアスヒにまた見とれる。
息が詰まりそうな程、焦がれるような想いを抱きながら、伸ばしそうになった手を押しとどめて、代わりに十手を強く握り締める。

「また会いましょうね」
「……あぁ」

今度は短く肯定の返事をしたスモーカーは、再び背を向けて店を出て行く。

店を出た時。彼は気分を切り替えるために長く息を吐き出し、雨の中を煙になって駆け出した。


(あの子の名前も知らないまま)

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