『氷結』(4年目)
アスヒは波に揺れる船室の中で、クロコダイルしかいないのをいいことに思い切り顔をしかめながら、以前にも訪れたことのあるマリンフォードを見上げていた。
横に並んだクロコダイルがアスヒの顔をちらりと見て短く鼻で笑う。
「ひでぇ顔だな」
「我が主とはいえ失礼ですからね」
ついてきたくはなかったというのに、結局今回も会議のためにここまで来てしまった。クロコダイルからは大将クラスはいないと聞いてはいるが、それでも嫌なものは嫌だ。
それでも船室にまで海兵が呼びに来た時は、アスヒはきちんと綺麗な微笑を浮かべていたし、クロコダイルが腰元を引き寄せてきた時も大人しくしていたのだから、ちょっとくらいの我が儘は許して欲しい。
そして会議室の前まで来たところで、アスヒはつんとクロコダイルから顔を背けた。
「今回は中に入りませんからね」
クロコダイルが何かを言う前に言い切ったアスヒの先、クロコダイルは心底不服そうな顔をした。
彼は無言のまま訴えるようにアスヒを見つめ続けていたが、アスヒが黙ったまま微笑み続けていると、今回は先にクロコダイルの方が折れ、彼女に背を向けた。
「面倒くせぇな…」
「応援してますわ」
笑顔のままのアスヒは深々と頭を下げて、クロコダイルが扉を閉めたあとに安堵の息を吐いた。
ここまでは大人しくついてきたが、凍るように張り詰めた空気の中にはもう2度と行きたくなかった。
アスヒは客間に移動して、そこで暇つぶしをしていようと、大きな海軍本部内を歩き始めた。
暫く歩いていた時。
「迷った」
ふいにアスヒは言葉を零した。
もしかしたら彼女は道に迷いやすいのかもしれない。
見知らぬ建物の中で元の位置に戻ることもできず、途方にくれていた。
(……近くに海軍の1人でもいればいいんだけれど)
悩ましげに頬に手を当てたアスヒ。だが悩んでいても仕方がないと、あっさりと思い直して歩き出した瞬間。
「おじょーさん、待合室はそっちじゃねぇよ」
後ろから急に声をかけられて、彼女は思わずびくりと肩を震わせてから振り返った。
(…誰だ。大将クラスはいないと嘘をついた砂鰐は)
内心零れた悪態を笑顔で隠して、アスヒは目の前に立った青雉クザンを見上げた。
「迷子?」
気だるげにそう問いかけたクザン。身長の高い彼はどうしてもアスヒを見下ろす形になる。
アスヒは内心の恐怖を押し隠しながら「残念ながら」と儚そうな苦笑を見せた。
「俺もまだ少し時間あるし、案内してあげるよ」
クロコダイルが会議の時間ぎりぎりで部屋に入っていったというのに、海軍大将のクザンはまだ時間があるというのはどういうことだ。
だが、それを指摘することは出来ずに、アスヒは微笑み続けていた。
「…すみません。ありがとうございます」
本来ならば一切関わりたくもない海軍大将だが、ここで断るのも不自然に見られてしまうだろう。
大人しく礼を言って案内をしてもらうことにする。2人はゆっくりと歩き出した。
「…でも、何故待合室を探していると?」
「この前、クロコダイルと一緒に来てたじゃん? 流石に覚えてるって」
「それは失礼いたしました」
あのクロコダイルは今までどれほど他者を近づけて来なかったというのだろうか。
アスヒは「それもそうですね」と微笑んでいたが、顔を覚えられているという事実はあまり好ましくなかった。
「大変でしょ。あいつの所でメイドの仕事なんて」
「えぇ。ですが、それもだいぶ慣れてきました」
クザンは「そう」と興味があるのかないのかよくわからない返事をして、次に若干覗き込むようにしてアスヒの姿をまじまじと見つめた。
「ホントあいつはこんなキレーなお嬢さんをどこで捕まえてくるのかねぇ」
「…。あら。私、今、口どかれてます?」
綺麗に微笑むとクザンは肩を竦めて、降参、とでも言うように両手を軽く上げていた。
「気に障ったならごめんね。綺麗な人を見ると、つい」
「お上手な人」
くすくすとアスヒは笑う。警戒することに越したことはないが、一方的に嫌うのも良くはない気がしてきた。
きっともってクザンは悪い人ではないのだろう。海軍なのだからそれは当たり前のことだったのかもしれない。
アスヒは幾分張っていた気を僅かに緩める。ここはクザンに案内してもらって、大人しく待っていれば、そのうちクロコダイルが迎えに来てくれるだろう。
クロコダイルは、アスヒを買いかぶっているのかもしれない。
確かに彼女は演ずることが上手い女だったが、あくまで一般人。
褒められて悪い気はしないくらいには、アスヒは単純な人間だった。
だからこそ、油断をしたのだろう。
窓から見えたどこまでも広がる海に視線を奪われていたアスヒ。
「お嬢さん、こっち」
クザンの声に振り返った時、バランスを崩し、少しふらついた彼女が壁に手をつこうとした瞬間、それよりも早くクザンがアスヒの腕を掴んで彼女が転ばないようにしたのだ。
そしてその瞬間、パキリ。と氷を踏んだかのような音がした。
「……っ」
クザンが触れた箇所から広がった冷たい痛みに、バッと腕を引く。
片手で腕を抑えるアスヒ。彼女が抑える部分は掌から手首まで凍傷になったかのように酷く赤くなっていた。
「え。大丈夫か?」
クザンの心配の声にもアスヒは答えられない。
半分凍ったような感覚のする腕を隠すように握って、黙り込む。
一瞬力強く握られたクザンの手がアスヒの腕を僅かに凍らせたのだ。凍り、そしてヒビが入った腕は既にミズミズの実の力によって治っている。
「…。俺、能力者でさ。手は確かに冷たいんだけれど」
困ったように頭を掻くクザンがアスヒの前にしゃがみこんで、アスヒの顔を真正面から覗き込んだ。
「こんなになるかな?」
アスヒは無言でクザンを見上げ続ける。視線を逸らしてはいけない気がして、彼の冷たい目を見つめ返し続けるが、アスヒは内心の恐怖で息が止まりそうだった。
バレた。バレた。自身がミズミズの実を食べたということがよりにもよって海軍大将に知られてしまったのだ。
ここから何をされる? 真っ先に殺されたりはしないはずだ。実を食べたものが死ねば実の行方はわからなくなってしまう。海軍側はそれを望まない。
クロコダイルは? アスヒを連れてきたのはクロコダイルだ。彼に迷惑をかけるわけにはいかない。それだけは。
「…じゃあ、会議が終わったら連絡してあげるよ」
だが、次に聞こえてきた声は随分とあっさりとしたものだった。
いつでも逃げ出せるように、尚且つどんな質問にも言い訳できるように考えていたアスヒだったが、クザンの変わらぬ様子に拍子抜けしてしまう。
彼の態度に、疑問を返した方が墓穴を掘るだろうと考えたアスヒは、硬い笑みを浮かべて深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます」
見上げてクザンの目が全く笑ってはいないことに気づいて、恐怖ゆえの吐き気すら感じて、それでもアスヒは気丈に微笑んだ。
数瞬見つめ合っていた2人だったが、先にクザンが視線を逸らし、照れたように頭をかいた。
「美人には弱いねぇ。どうにも…」
「……本当にお上手ですね。…では、また」
アスヒは部屋に入り、扉を閉めて長く息を吐く。扉の外にある人の気配が遠ざかった瞬間。緊張の糸が切れたアスヒはぺたりとその場に座り込んでしまった。
間隔が短くなった呼吸を必死に整えて、未だ赤くなっている自分の腕を胸に引き寄せ抱きしめた。
(こわ、かった)
小さく震える身体は、芯から冷えきってしまったようで、アスヒは誰もいないことをいいことにその場でこてりと横になった。
「やっぱり来るんじゃなかった…」
はぁと息をついたアスヒはその場で目を閉じた。