『人魚姫』(4年目)

その日、アスヒの声が出なくなった。


珍しい果実が手に入った、と厨房でコック長が嬉しそうに真っ白い果実を持ってきていた。
どうやら商船からコック長が直々に仕入れてきたらしいその果物は、柑橘系にも似た酸味とそして甘味を持つのだという。

クロコダイルに出す前にメイド達で味見をしてみよう、という話になり、メイド長のアスヒ、彼女の部下であるメイドと使用人。そしてコック長とコック。
5人がその珍しい白い果実を囲んで、それぞれにフォークで一欠けらずつ口に入れた。

「美味しい」

アスヒがぽつりと呟くように、その果実はアスヒの口によく合った。確かに珍しい果実ということもあって、他には無いような味がする。
瑞々しい果実はどうしても乾燥しがちな屋敷内で食べるに良さそうだ。
これならば気分屋なクロコダイルに出しても、少なくとも不機嫌にはならないだろう。

ちらりと見た果実はまだ数があるようだった。アスヒはコックにもう少し果実を食べたいということを伝え、厨房の棚から紅茶缶と珈琲缶を取り出してくる。
期待に表情を輝かせる使用人とメイドに対し、コック長とコックの2人は苦笑を零している。まだまだ仕事は山積みな5人のはずだが、メイド長の一声で休憩時間に突入しそうなのだ。
アスヒは悪戯な笑みを浮かべて、既に休憩する気満々でカップを人数分取り出す。そこまではよかった。

同僚間での他愛のない話をしながら紅茶缶を開けた瞬間、急に咳き込みだすアスヒに、周りの面々の表情に徐々に心配の色が浮かび上がる。
茶葉が舞い上がって気管にでも入ったのか、と一瞬思われたが、アスヒは次第に息も絶え絶えになりそうなほどの咳を繰り返す。

いつもは何があっても気丈に振舞おうとするアスヒも、今回ばかりは余裕がないのか、持っていた紅茶缶を手放して、厨房の机に手をつく。
不安そうに顔を歪めたメイドがアスヒの傍に寄り添い、背中をさする。コックが差し出した水を受け取りはしたものの、口に運ぶまでの余裕はないのか、さらに咳き込み続けるアスヒ。

慌てて医者を呼びに行こうとする使用人を手で制したアスヒは、ゆっくりとだが、少しづつ呼吸を整えていき、ようやく水を口にした。
同僚達に心配をかけたことを詫びようと、いつものように笑みを浮かべて「大丈夫」、とその一言を零そうとした時。

彼女の口からは掠れた呼吸音しか出なくなってしまっていた。

今度はアスヒの制止を振り切って医者を呼びに行く使用人。残った3人がおろおろと動揺する中、アスヒは喉元に手を当てて、確認するように何度か言葉を発しようとする。が、結果は変わらず、先程と同じように呼吸音ばかりが零れるだけだった。

全速力だったのだろう。アラバスタの町医者は比較的早く屋敷の中に訪れた。
クロコダイルに失態がばれるのを嫌ったアスヒの手配により、町医者はクロコダイルの目に触れることなく厨房へと連れられた。

口腔を診断しながら、質問を繰り返す町医者に、アスヒ本人とその場に居合わせた4人が答えていく。そして町医者の視線が厨房に置き去りにされている真っ白い果実へと移った。

「アレルギー性のものですね」

診断が終わった後、町医者から告げられた言葉に、アスヒは残念そうに顔をしかめただけだった。

先程食べた白い果実がアスヒの身体には合わなかったようで、一時的に声が枯れてしまったようだ。
アスヒは町医者から数種の薬を渡され、数日で治るということと、間違ってもこれ以上摂取しないように、と釘を刺される。
深々と頭を下げて町医者を見送った後、コック長に振り返れば、今回この果物を持ち込んだ彼は半泣き状態だった。

アスヒに対して平謝りを繰り返すコック長にアスヒは首を左右に振って、近くの羊皮紙に「はじめて食べましたから、仕方のないことです」と書き込み、安心させるような微笑みを浮かべる。
あの段階では防ぎようはなかったのだ。彼女の言うように初めて食す物であったし、アスヒは他の果物で特別酷いアレルギー反応など出たことがなかった。

ただ、アスヒは内心でひとり残念に思う。自分自身の身体のことで仕方のないことではあるのだが、二度と食べれなくなってしまうには惜しい程には好みの味ではあったのだから。

さて。と、アスヒは口には出さないままに、部下達に視線を向かわせる。
自分を心配してくれたので決して強くは言えないが、休憩時間というには長い時間を取ってしまった。
両手を軽く叩いて音を出しながら、仕事を再開させるアスヒ。まだ心配そうな顔をちらりと見せる面々だったが、山積みの仕事が残っているのも事実だった。それぞれに動き始めていく。

そして件の白い果実は、大事をとってクロコダイルには出さないこととなった。
彼にもアレルギー等が出るとは決して思えないが、メイド長であるアスヒの身体には毒とも呼べるものを主に食べさせるわけにはいかない。
残りはアスヒ以外の賄いと共に出すことになるだろう。

アスヒはひとつ咳払いをする。何度か発声をしようとはしているが、状況は変わってはいない。
不幸中の幸いだろうか、彼女の今日の残りの業務は清掃と夕食の配膳ぐらいだ。声を発せずともこなすことは出来る。
彼女はいつものような冷静さを取り戻して普段通りの業務をこなしていった。

次の日。彼女の声はまだ取り戻されてはいなかった。

そこでようやく彼女はふむ、と少々困り顔を見せる。朝食をクロコダイルの元に運ばなくてはいけないが、無言で主の部屋に入っていくわけにもいかないし、低血圧のクロコダイルの虫の居所が悪ければ命の危険すらある。
気を使ってコック長には問題はないということを伝えてカートを押しているが、さて、どうしよう。

不機嫌なクロコダイルに不敬を咎められるのが先か、声を一時的だとしても失ってしまったアスヒを無能と咎められるのが先か。

考えが纏まる前にクロコダイルの部屋に辿り着き、小さく溜息をついたアスヒがノックだけはきちんと行って入室する。
声はやはり出てこない。再三の溜息をついてアスヒはテーブルの上に、いつものように朝食を並べていく。その時、ふらりとズボンとYシャツ姿のクロコダイルが姿を見せた。

クロコダイルから朝の挨拶があったことなどない。アスヒも本日は声を持たないが故に、深々と頭を下げる程度で留めた。
一瞬、クロコダイルは怪訝そうな顔をした。が、特に何も言うこともなく、アスヒが並べた朝食の前に座っていた。
アスヒもまたぱちくりと瞬きをする。何かしらのお咎めがあると思ってはいたが、考えすぎだったようだ。

(まぁ、メイドがひとり話さなくなった所で、か)

アスヒは自分は随分と自惚れてしまっていたのだと、思い直して、再び深々と頭を下げてクロコダイルの部屋から退室する。
少し気負っていたアスヒだったが、案外何もないのだとわかると幾分気が楽になり、その日も声を失ったまま業務を続けた。
途中、何かあったのかと、ロビンに問いかけられた時には筆談で応対した場面もあったが、それ以外は特別不都合もなく業務を続けることが出来た。

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