拾参

 重い足取りで邸への帰路に着く頃にはすでに日は傾き始めていた。夕暮れに染まる茜色の空に一番星が私を慰めるように煌々と優しい光を放っている。産屋敷邸を出た後、自分の気持ちを落ち着かせるために静かな山奥を一人歩き回っていた。先ほどまでは一刻も早く杏寿郎さんの元へ帰りたかったはずなのにおかしな話だ。しかしどれだけ考えようとも答えを見出すことはできず、それどころか気持ちは沈んでいくばかり。気が付けば随分と考え込んでしまっていたようで、こんな時間になってしまった。きっと杏寿郎さんも心配されていることだろう。

重い足取りで何とか邸へ辿り着くと門前に見慣れた姿を見つけた。門柱に背を預けられ、暮れていく空を仰いでいらっしゃった彼は私に気が付いたのか屈託のない笑顔を浮かべてこちらに手を振った。

「ただいま戻りました」

「お帰り!随分と遅かったじゃないか!」

「親方様とすっかり話し込んでしまいました。すぐに夕餉の準備を致しますね」

杏寿郎さんに心配かけまいと努めて明るくそう告げ、彼の隣を通り過ぎようする。しかしそう簡単に彼を欺くことなどできるはずはなかった。

「何かあったのか」

投げかけられた言葉に歩を止める。どれだけ繕おうとも杏寿郎さんの前では全てが無意味だとは理解していたが、それでも心の整理がつかずにいた私は嘘に嘘を重ねることしかできなかった。

「まさか。なにもありませんよ。おかしなことを仰いますね」

「では何故声が震えている。君は嘘を吐く時必ず俺と目を合わそうとしない」

「そんなこと…」

言い終わる前に杏寿郎さんは私の肩を掴み、強引に視線を交らわせようとした。涙が滲む情けない顔を見られたくなかった私はその手を払いのけ彼から逃れようと邸の中へ駆け込む。しかしすぐに杏寿郎さんの手によって捕まり、玄関の壁に押さえつけられてしまった。こんなところを槇寿郎様や千寿郎さんに見られては大変だと抵抗を試みるも、拘束が解かれることはない。むしろ先ほどよりも強い力で壁に縫い付けられてしまった。いつになく厳しい表情を浮かべる杏寿郎さんから逃げるように顔を背けるとついに耐えていた涙がはらりと頬を伝った。

「名前にとって俺は頼りない男かもしれん。だが、俺は夫として名前の支えになりたい」

壊れものに触れるかのように優しく頬を伝う涙を拭ってくださる杏寿郎さんの言葉に堰を切ったように涙が零れる。いつの間にか縫い付けられていたはずの私の体は杏寿郎さんの大きな腕の中にあった。どっと溢れ出した涙と感情を全て受け止めるかのように杏寿郎さんが私の震える背を撫でる。
そして私はゆっくりと彼の背に手を回した。

「私など光柱に相応しくありません…!私は…兄のようにはなれないのです…!」

いつまで私は兄の存在に縛られて生きていかねばならないのだろうか。誰よりも尊敬でき、誰よりも大好きだった兄であるはずなのに、どうしてこんなにも兄の存在が苦しいのだろうか。
ずっと苦しかった胸の内を吐露するとまるで小さな子供のように泣き始めた私を杏寿郎さんは黙って強く抱きしめてくださった。幼い頃から背負わされていた重圧と女子であることの引け目。誰にも相談できるはずもなく、ずっとずっと一人で抱え込んでいた。いつからか兄が鬼殺隊で活躍された話を耳にすることが苦痛で仕方なかった。喜ばしい話であるはずなのに、心の底から兄の活躍を喜ぶことができない自分自身が大嫌いだった。

誰か一人でもいい。私自身を、名前という一人の人間を認めてくれる人がほしかった。

縋りつくように杏寿郎さんの胸で泣き続ける私がこうして誰かの前で涙を見せたことはこれが初めてであった。

「ずっと辛かったんだな。よく一人で頑張った。もうこれ以上、自分を責めることはやめにしよう」

「でも…!」

それは突然の出来事であった。

気が付くと私の視界は杏寿郎さんでいっぱいになっており、唇には彼の唇が重ねられていた。驚きのあまり離してしまった私の唇を追うように杏寿郎さんが再び唇を合わせられる。そして何度か啄まれた後にようやくその唇は離された。

「俺は名前と夫婦になれて良かったと心から思っている。名前は俺の誇りであり、何ものにも変えられない存在だ」

再び杏寿郎さんの腕の中に戻される。彼の脈打つ心臓の音がひどく混乱していた私の思考を落ち着かせていく。

「光柱への就任は大変に喜ばしいことだ。だが名前が重荷に感じたり、柱になることで今以上に辛く苦しい思いをするのならばお受けする必要はない。鬼殺隊の隊士であることも同じだ。名前がこのような思いを持って今後も続けるのならば、俺は力ずくで除隊させるだろう」

「杏寿郎さん…」

「名前は俺にとってかけがえのない最愛の人だ。この想いは決して揺るぎない不変のものだ」

それは私がなによりも欲しかった言葉だった。
兄の妹や鬼殺隊の剣士ではなく、私という一人の人間にだけに向けられた言葉。その言葉ですべてが救われたような気がした。

腕の中から杏寿郎さんを見上げると彼もまた私のほうを見つめていた。交わった視線が逸らされることはなく、引き寄せられるように私は杏寿郎さんと唇を重ね合わせた。そして離された唇に名残惜しさを感じていると再び杏寿郎さんは私をその逞しい腕の中へ引き寄せた。躊躇いながらも広い背中に腕を回して彼の胸へ顔を埋める。
苦しい。杏寿郎さんのことが愛しくて、苦しい。この時間がずっと続けばどれだけ幸せだろうか。
気が付くと私は杏寿郎さんの耳元へ唇を寄せて、呟いていた。

「杏寿郎さん…」

「どうした、名前」

「今夜、お部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか…」

その言葉の意味を理解した杏寿郎さんが驚いて私の顔を覗き込まれる。女子である私からこのような誘いを持ち掛けるなんてはしたないと思われてしまっただろうか。羞恥のあまり視線を合わせることができず、ぎゅっと彼の隊服を握る。
新婚旅行に行ったあの日からずっと杏寿郎さんは私が覚悟をできるまで待っていてくださった。随分待たせてしまったことだろう。それでも杏寿郎さんは文句の一つも言わずに、お傍にいることを許してくださった。日々の中で杏寿郎さんの真っ直ぐな愛に触れる度に凍っていた私の心は少しずつ解かされていった。愛がどのようなものかわからずにいた私に人を愛することの尊さを教えてくださった。いつしか私の中で芽吹いていた杏寿郎さんへの気持ちをもうこれ以上隠しておくことはできない。

杏寿郎さんが心から愛おしい。この気持ちに嘘偽りはなかった。

逃げるように彷徨わせていた視線を彼の視線と交わらせる。私が想像していたよりもずっと優しく杏寿郎さんは目尻を下げて口元を綻ばせておられた。そして微かに震える私の手に唇を落とすと落ち着いた声音で囁かれた。

「勿論だ。今日という日をずっと待ち侘びていた」

夜の帳は間もなくおろされる。