弐
雲一つない、よく晴れた日だった。私は未来の夫となる炎柱様に初めてお会いするために朝から自室でその準備に取りかかっていた。今日ためにと母が新調してくれた淡い桃色の着物をぼんやりと見つめていると遠くの方から忙しない足音が聞こえてきた。恐らく髪飾りを探しにいった母が戻ってきたのだろう。
「あったわ。この着物によく似合うと思って買っておいたのをすっかり忘れてたわ」
嬉しそうに微笑みながら私の髪を櫛で梳かし始めた母はどこか上の空である私に気付いたのかその手を止めた。
「ねえ、名前。もし本当に嫌ならお断りしてもいいのよ」
「まさか。そのようなこと、父上がお許しになるわけがありません」
そもそも女子である私がこの縁談を破談にすることなどできるわけがない。もし今回の縁談が破談になれば、私は間違いなく父から勘当を言い渡されることだろう。幼い頃から女子であることを引け目に感じていた私が炎の呼吸を継承する煉獄家との架け橋になることができるのだ。
これ以上に光栄なことない。
そう自分に言い聞かせるかのように中断してた化粧を再開した私に続き、母もまた私の髪を結い始める。手鏡に映る自分の顔はとてもじゃないけれどこれから見合いをする女子の顔ではなかった。少しでも良い印象を持ってもらえるように紅は明るいものにしよう。きっとこの縁談は私の今生の縁。幼い頃より劣等感を抱き続けてきた私が父にできる最高の親孝行になるだろう。
指定された見合いの場所はそれはそれは美しい料亭の一室であった。随分と早く着いてしまった。この場合どのようにしてお相手の方を待つことが正解なのだろうか。初めての見合いで勝手がわからない私は一先ず下座に腰を下ろし、手入れが行き届いた庭園を眺めた。
そうして数刻経った頃、ついにその時は訪れた。
「遅くなって申し訳ない!うっかり道に迷ってしまった!」
威勢よく現れたその人は燃えるような瞳だった。兄と同じように、彼もまたどこか人を引き寄せる雰囲気を纏っていた。
このお方が炎柱・煉獄杏寿郎様。私の夫となるお方なのだ。
「随分待たせてしまったようだな!申し訳ない!」
「いえ。私が早く着きすぎただけです。煉獄様は約束通りのお時間にいらっしゃいましたよ」
炎柱様を目の前にあまりの緊張に指先が強張る。鬼殺隊に入隊して随分経つが、こうして柱の方とまともにお話をしたことはこれが初めてだ。平隊士の私は任務こそ柱の方と同行したことはあったが、煉獄様とは任務すら一緒になったことがない。つまり、本当にこれが初対面であった。きっと煉獄様も私のことなど知るはずがないだろう。
「君の名は名前だっただろうか!君の兄上とは何度か任務で一緒だったことがあるぞ」
「兄と?それはそれは兄が大変お世話になりました」
「いや!世話になったのは俺の方だ!何度も助けてもらったことがあるからな!」
まさか柱の方の援護まで行ったことがあったとはさすがは自慢の兄だ。知らなかった兄の活躍話に緊張していた体が少しずつ解れていくのを感じた。
「兄上のことは残念だったな」
「鬼殺隊に身を置く以上、仕方のないことです。こうして炎柱様に覚えて頂いていることを兄は喜んでいるでしょう」
炎柱である煉獄様からそのような言葉を頂けるとは、本当に兄はすごい人だったのだと改めて実感させられる。
煉獄様は太陽のような笑みを浮かべると私の向かいに腰を下ろした。
不思議な感覚であった。まさか私のような者がこうして炎柱である煉獄様と見合いだなんて。どのように振舞えばよいのだろうか。あまり女子である私からべらべらと話しかけるのも気を悪くさせるかもしれない。このような時のために見合い経験のある同期達にしっかりと経験談なぞを聞いておくべきであった。
沈黙に耐え切れずに煉獄様から視線を逸らしてしまった。そのような私の心情を察してか、先に口を開いたのは煉獄様のほうであった。
「君のことも兄上からよく聞かされていたよ」
煉獄様の予想外の一言に私は伏せていた顔を上げた。すると彼は優しく目尻を下げて微笑んだ。
「自慢の妹だと言っていたよ。とても努力家で、優しい子だと」
「兄がそのようなことを…」
「俺にも千寿郎という弟がいてな。兄上のその話を聞いてまるで千寿郎のようだと思ったことを今でも鮮明に覚えて
いるぞ!」
私は父に邪魔者のように扱われてきた。どれだけ教養をつけようと、どれだけ鍛錬をしようと、どれだけ鬼殺隊で階級を上げようと一度も褒めてもらえたことなどなかった。鬼殺隊に入隊するために藤襲山で受けた最終戦別から戻った時も、だ。褒められるどころか傷だらけで帰った私は父から激しく叱責を受けた。ぼろぼろの肉体と精神状態の中、いつまで続くかわからない父の叱責に私はひたすら耐えた。決して父の前で涙は見せなかった。
ずっと兄は私のこと見ていてくれたのだ。認めてくれていた。それだけでこれまで死に物狂いでやってきたことすべてが報われるような気がした。
「君も鬼殺隊の隊士と聞いた。結婚したあとも、隊士は続けるつもりだろうか」
「そのつもりをしております。勿論、煉獄様がお許しくださるのであればの話ですが…」
煉獄様が腕を組み、うんうんと唸り始める。
それはそうだろう。隊士を続ける以上、指令が下れば任務には向かわねばならない。命を懸けて市民達を守らなければならない。最悪の場合、兄のように命を落とすかもしれないのだ。
しかしこればかりは私も譲ることができない。兄がいなくなった今、光の呼吸を扱える者は父を除くと私だけなのだ。なにより鬼殺隊であることが父に認めてもらえることができるかもしれない唯一の私の存在理由なのだから。
「私は兄のように強くはありません。しかし鬼殺隊であることに誇りを持っています」
いつか兄のような立派な剣士になれるように。
そう言って煉獄様を見つめると彼は暫くの沈黙の後、静かにその瞳の炎を揺らしながら私に問いかけた。
「決して死なないと約束してくれるか」
煉獄様の問いに私は迷いなく答えた。
「お約束致します。私の命は、煉獄様に差し上げます」
―――私は炎柱・煉獄杏寿郎様の妻となる。