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いつのまにかなまえの部屋には絶えず花が活けられているようになった。島に上陸したり、海軍に出向いたり、そのような用事で船を降りるたびにローが手土産に彼女に与え続けているのだ。残念ながら枯れてしまった花達は一部をドライフラワーにして大切に保管しているようである。

今日もなまえは花の手入れをしてローの帰りを待つ。いつの間にかローの私物があちらこちらに増えるようになったこの部屋で。そのせいか彼は船に帰還するとほぼ必ずこの部屋を訪れるようになっていた。

「おかえりなさい」

「あぁ」

微かな物音に振り返るとそこには今し方帰ってきたのであろうローの姿があった。そして今日も例外ではなく花束を片手に彼は帰ってきた。なまえは差しだされた花束に礼を言って受け取る。すると少しだけ硬かったローの表情が柔らかくなった。
今日はカスミソウの花束だ。

「今日はどちらへ?」

「海軍だ。ここ最近頻繁に召集がかかる」

「またなにか大きな事件でも起きるんでしょうか」

2年前に勃発した白ひげ海賊団と海軍の頂上決戦はまだ人々の記憶に新しい。世界を巻き込んだあの大事件で命を落とした白ひげことエドワード・ニューゲート、そしてポートガス・D・エースの名前は現在でも語り継がれている。あの事件以来、世界は混乱の渦に呑まれた。白ひげが治めていた島は海賊たちにより侵略され、世界の均衡が大きく崩れたのだ。
当時、海で暴れ回る海賊を取り上げた新聞を読んだなまえはその凄惨さに背筋を凍らせたほどである。

「さぁな。そうだとしてもなまえが気にする必要はない」

「でも…」

「お前はここで俺の帰りを待っていればいい」

ローはそう言うと無意識に俯いていたなまえの顎を掬った。必然的に交わる視線。一点の曇りもないローの瞳は不安に揺らいでいた彼女の気持ちを落ち着かせるには十分だった。
そっとなまえがローの手をとると彼は少し驚いたように微かに目を見開いた。こうして自ら彼女がローに触れることは初めてなのだ。

「ローさんが待てというなら、私は待ちます。ずっとこの部屋で」

「…それでいい」

触れ合う温度は心地のいいものであった。
しばらくそうやって手をあわせていると不意にローは窓の外を見やった。それに続くように彼女もそちらに視線を向ける。そこには穏やかな海が広がっていた。

「今日の海はずいぶんと穏やかですね」

「気候も安定してるからな」

「外は温かいですか」

「あぁ。過ごしやすいな」

外の情報をまったくといって持ち合わせていないなまえはこうして外の様子をローに尋ねる。間接的な方法だが、今の彼女が外の情報を知る方法はこれしかないのだ。この閉鎖的な部屋からは精々外の天気くらいしか知ることができない。

「太陽の光が気持ちよさそうですね」

「そうだな。…外に出たいか」

「え…?外に?」

「外といっても甲板だけどな」

思いもかけないローの提案になまえは動揺が隠せなかった。逃走を企んだあの日から決して許されなかった「外」へ出してくれるというのだから。
いったいどういう風の吹き回しなのだろうか。またなにかを企んでいるのだろうか。それとも自分を試しているのだろうか。なまえが真意を確かめるためにじっとローを見つめるとローは黙って彼女につけられていた手枷と足枷を外した。

「べつに何も企んでねぇよ。ついて来い」

重たい音をたてて床に落とされた二つの拘束器具たち。ローはそれらに目もくれずに先導するように重たい扉を開けた。
恐る恐るローの後を追うようになまえは部屋の外へ足を踏み出した。微かに震える手をぎゅっと握りしめて、先を歩くローの後ろを追う。時折、廊下ですれ違うクルーと思われる男が物珍しそうに彼女に振り返っていく。

そうして肩を小さくして、下を向いて歩いているとぴたりとローの足が止まった。なんだろうとなまえが顔を上げると開け放たれた扉の向こうに広い海が広がっていた。

「海…」

「どうだ、久しぶりの外は」

ローに誘導されるようになまえは甲板の先に立った。

目の前に広がる壮大な海は穏やかな波をたて、見上げた空は海を写したかのように青かい。白い雲が浮かぶ狭間から差し込む太陽の光を受けて、なまえはくらりと目眩がした。こんなに日の光がまぶしいと感じたことは初めてだ。
久しぶりの外の空気を思いきり吸い込む。潮風が頬を撫でる心地よさに自然と笑みが零れた。

「外ってこんなに気持ちの良いところだったんですね」

「皮肉か」

「いいえ、そんなつもりじゃ…」

「…冗談だ」

ローは罰が悪そうな表情を隠すかのように帽子を目深に被りなおした。そしてそのまま腰を下ろすと黙って空を仰いだ。

「どうして突然外に出してくれたんですか」

「理由はない。ただの気まぐれだ」

気まぐれだとローは言うが、なまえはそれがすべてではないとわかっていた。彼女はそっとローの隣に腰を下ろした。

――そこに張りつめた空気などは存在しなかった。まるで、なまえがローに捕われているという事実など存在しないかのように。

「嬉しいです。こうして外に出ることができて…」

「こんな狭い甲板でも満足なのか」

「勿論です」

なまえの世界はあの部屋でのみまわり続ける。あの空間に自分が存在して、ローが存在する。それが彼女の世界。彼女とローだけの、2人だけの世界。

「えらく従順だな」

「そうですか?」

「…まぁいい。従順なお前に免じて次の島では上陸を許してやる」

――勿論、俺の見張りつきで、だ。

以前のなまえなら、その話に両手を挙げて喜んでいただろう。そして恐らく逃走の計画を綿密に練って、ローから逃げ出そうとしたはずだ。
しかし、どうだ。今の彼女にはそのような考えが微塵も浮かんでこなかった。むしろ、ローと島へ上陸できることが嬉しくて仕方がなかった。

「馬鹿なことは考えるなよ。次にあんなマネをしたら…」

「大丈夫です。私はなにがあってもローさんから逃げたりなんてしません」

「前科がある奴の言葉なんて信じられねぇな」

「なら、ローさんが少しでも怪しいと思った時に私を殺してください」

――そうすれば、私は決してローさんから逃げられません。

彼女がそう言うとローは顔を歪ませた。しかしそれを隠すようにまたいつもの笑みを浮かべたのだった。

title カカリア様