16
なまえはあの部屋でローの帰りを待っていた。時刻はとうに深夜を回っていたがローが帰ってくる気配はない。先に寝ていろとローは彼女に告げて出掛けていたのだが、なまえはじっと時計と睨めっこをしながらローの帰りを待ちわびていた。
ベッドの上で膝を抱えていたなまえが気分転換に水でも飲もうと足を下ろした時だった。鼓膜を裂くような砲撃音が轟き、ぐらりと船が大きく傾いた。
咄嗟の衝撃に受け身が取れなかったなまえの体はそのまま床に激しく打ち付けられた。
「…っ、なに……?」
床に打ち付けられた体をなんとか起こす。現状を確認しようにも頭を強打して意識が朦朧としており、体勢を整えることだけで精一杯だった。
――しかし遠くから聞こえてくる怒声と絶叫、そして激しくぶつかり合う金属音と銃声。はなまえの頭にあの日の記憶がフラッシュバックする。故郷と母親を奪われた決して忘れることができないあの日のこと。
少しずつ意識が覚醒していく。そしてそれと同時にこの船で何が起きているのかを理解し始めたなまえの体は徐々に震えはじめた。
――戦闘が起きているのだ。ローが不在のこの船で。
以前にもこの船が敵襲を受けたことはあった。しかしそれは船長であるローが乗船中の時であった。その時は間一髪のところでローによって命を救われたなまえであったが、今回は違う。唯一の存在であるローがいないのだ。
――逃げなくちゃ。でもどこに。どこに逃げればいい…?
この部屋から出ようとも戦場となっているこの船で逃げる場所など存在しない。かと言ってこの部屋に留まっていてもいずれ敵がやってくるだろう。戦闘経験などあるわけがないなまえが敵と出くわしてしまったらそれが最期。逃げる間もなく殺されてしまうだろう。
「ローさん……!」
ローの名を呼ぶも返事など返ってくるわけがなかった。
そうして成す術もなく部屋の隅で震えているとギッギッと床を踏む音が近づいてきていることになまえは気が付いた。ローかもしれない。そう思ったなまえだったがその足音はローのものではないとすぐに理解した。ローよりもずっと重いその足音。
――敵だ。そう思い逃げようとするもこの狭い部屋から逃げることなど不可能だった。
ゆっくりとノブが回される。逃げ場を求め、壁に縋りつくなまえの頬には涙が伝っていた。
「見つけたぞ…。お前が例の女だな」
「やめて…、こないで…っ」
現れた男はなまえを見つけるや否やにたりと厭らしい笑みを浮かべた。
「お前には悪いがジョーカーの命令だからな…」
男はそう告げると刀を握り直し、一歩ずつなまえに近寄った。なまえはなんとか逃げようとするもすぐに男に髪を掴まれてしまい、その場になぎ倒されてしまった。
――そして間をおくこともなく振り落とされた刃。咄嗟に体を捩ったことで急所は外れたが刃はなまえの腕を掠めた。深く斬られたそこから血が溢れ出す。なまえは傷を庇うように手で押さえるもその指の隙間からぽたりぽたりと血が零れた。
「っち。面倒かけさせるんじゃねえ!」
刀を交わされたことに激怒した男がなまえを踏みつける。そして逃げる術を失い力無く涙を零すなまえにその刃を振り下ろした。
――いたい。どこが痛むのかすらもわからない。あつい。燃えるように全身が熱い。
血の海に沈むなまえは朦朧とする意識の中でそう思った。指先1つ動かすことすら億劫だった。これは夢か現か。それすらもわからない。
ひどく儚い意識を保ちながらなまえは細い呼吸を繰り返していた。
ふとすぐそばにアネモネが一輪落ちていることになまえは気が付いた。これは前回船を降りた時にローがなまえに贈ったものだった。
最期の力を振り絞って手を伸ばす。
――どうしてもその花に触れたかった。今こうして手を伸ばしておかないとなにか大切なものを失ってしまう気がして。
なんとかそのアネモネを指先でつかむとそっと胸元に引き寄せた。
――そうしてそっとなまえは瞼をとじた。その顔はひどく穏やかなものであった。
title 花畑心中