18
ローがそう低い声でなまえを問いただしても彼女は困ったように眉根を寄せるだけだった。じっと見つめてくるなまえの瞳は以前となにひとつ変わらない。
だが、彼女はローのことが「わからない」と口にしたのだ。
「手当てをしてくださったのはあなたですよね…?ありがとうございます」
「…本当にわからないのか」
「その、…ごめんなさい」
申し訳なさそうに瞳を伏せるなまえの姿にローはひどい喪失感を覚えた。そして胸にぽっかりと大きな穴が空いたような、妙な感覚に襲われた。
目の前にいるなまえはなまえであるはずなのにまるで別人であるようだ。
――心的ショックによる記憶障害によって一時的に記憶を失うことがある。
そのような記述が書かれていた医学書を以前に読んだことがあったことをローは思い出した。まさかそんなことが実際にあるわけがないだろうとその時は流し読み程度でそれほどその記述に関心を持つことはなかった。
しかし、どうだ。今ローの目の前には彼自身の記憶を失ったなまえが不安気に目を伏せているではないか。
「…、なにを覚えている」
「…なにもわかりません。なぜ私が傷だらけなのかも、ここにいるのかも…」
「そうか…」
最悪の結末だとローは呟いた。
その言葉は虚しくこの真っ白な部屋に響き、そっと消えた。
失うよりも辛いことだ。なまえはようやく歩み寄り始めたローにとってかけがえない存在だった。その彼女の記憶の中にもうローは存在しない。これまできずいてきた2人の軌跡は泡のように溶けてなくなってしまったのだ。これほどまでに残酷な結末があるだろうか。
そしてこの悲愴感と同時に激しい怒りを覚えた。ドンキホーテ・ドフラミンゴ。奴の部下が自分の留守中に船を襲ったということは既にクルー達から報告を受けている。そして船を襲った理由がなまえであったということも。
ローはあちらこちらに包帯が巻かれたなまえの痛々しいその体を見やった。奇襲だったとはいえ、自分の油断がこの結末を招いてしまった。まさかここまで面倒なことを仕掛けてくるとは…。
もし。もし、自分があの時海軍などに赴かなければなまえはこのような目にあわなくて済んだのかもしれない。
様々な感情が渦巻き、ローはぎゅっと拳を握った。
一先ず気持ちを落ち着かせようとローはカルテを手にとった。
「…今は傷を治すことだけに専念しろ」
「はい…」
「お前はなにも考えなくていい」
その言葉がローなりのなまえへの精一杯の優しさだった。
なまえがそれに頷くのを待ってローは彼女に背を向け、扉へ向かった。そしてドアノブに手をかけ部屋を出ようとした時だった。
「あの…!」
「なんだ」
「お名前を教えてくださいませんか、あなたの…」
なまえのその言葉にローは目を見開いた。
――ああ。まだ失ってはいないのだ。「大切な人」を。
ローは幼少期に亡くした1人の男を思い出した。あの時の自分はあまりに無力でただ彼に護られるだけだった。そして失ってしまった。誰よりも大切だった人を手の届く距離で。
だが、今はまだ失ってはいない。まだなまえは生きている。記憶こそ失ってしまったがまだ目の前に存在しているのだ。
その紛れもない事実に気付いたローはノブにかけていた手を降ろし、なまえの傍に歩み寄った。そしてその頬に優しく、まるで壊れものに触れるかのように優しく振れた。
「トラファルガー・ローだ。覚えておけ、なまえ」
――たとえなまえがすべてを忘れてしまっても、なにひとつ変わらない。
title 彼女の為に泣いた