02
そんなどこにでもあるような幸せをなまえは望んでいた。
しかし、その夢はもう二度と叶うことはない。これから先、好きな人と出会うことも、その人と結婚することも、最愛の人の子供を産むことも、もう、叶わない。
まったく力が入らない下半身には無数の鬱血痕が浮かんでいた。真新しいものや、すでに変色してしまっているもの。中には血が滲んでいる噛み跡まである。明らかに異常なこの傷をなまえに残した男は今頃さぞ気分がいいことだろう。苛立ち、怒り、そして性欲をすべて彼女に巻き散らかしてこの部屋を出て行くのだから。そのおかげでなまえは目も当てられない姿で乱されたベッドに沈んでいた。
あの日。トラファルガー・ローによって落札されたなまえは、いつの間か彼の保有する潜水艦に乗せられていた。初めこそ、彼が自分の救世主であるとなまえは感謝の気持ちを持っていたのだが、それはすぐに踏みにじられた。ローは彼女をこの船の中でも最も最下層にある部屋に閉じ込めた。決して逃げられないように首に枷をつけて。それだけならまだよかっただろう。しかし、それだけで済むはずはなく、彼女はその日に彼に犯されたのだった。
いたい、くるしい。そうなまえが口にする度に彼は満足気に笑った。泣いて懇願しても彼を煽るだけで、逆効果だとなまえが気付いたのは最近のことだ。結局、その日、彼女はその痩躯には受け止めきれないほどの狂気をローにぶつけられることになった。
そうやってローの慰みものにされてもうどれほどの月日が経過したことだろう。今日もなまえはこの部屋でいつ現れるかもわからない男に怯えているのだ。
「血がでてる…」
白いシーツに付着し、酸化してしまった血を震える指先でなぞる。これは言わずもがな彼女のもので、どこから流れ出たのかなんて考えるのさえ億劫であるとばかりに溜め息を零した。なぜなら、彼女の体には数えきれないほどの傷がつけられているのだから。
この部屋にある唯一の丸い窓の外に視線をやる。そこには深い藍色の空が広がっており、ぽっかりと寂しそうに月が浮かんでいた。散りばめられた星はきらきらと光り、一層なまえを惨めな思いにさせた。
逃げるように寝返りを打つと耳元でじゃらりと重たい金属音が響いた。こんなものをつけるなんてまったく趣味の悪い男だ。2日ほど前のことだっただろうか、この鎖で首を絞められた時はさすがに死ぬのかとなまえは覚悟を決めた。生死の境を彷徨う彼女の様子にククッと喉を鳴らして興奮する男のアブノーマルなこと。
あの男の狂気は誰にも止められない。しかし時折、ローはひどく機嫌のいい時がある。その時だけなまえは彼と「普通」の会話を交わすことが許される。今のところ、ローに関することで彼女が知っていることは名前と、医者であるということだけ。
しかしおそらく、ローは「ただの」海賊ではない。時折垣間見える彼の真の恐ろしさときたら…思い浮かべたその姿に彼女の背筋が凍てつく。
逃げられない。決して、自分は彼から逃げられないとどこかで彼女は諦めていた。
「逃げる気力なんてないけど…」
「それは感心だ」
ひとり言のつもりで呟いたそれに返事が返ってきたことに驚いて、なまえがそちらを振り返る。するとそこには扉に寄りかかりながらクツクツと喉を鳴らす彼、トラファルガー・ローの姿があった。いつの間に部屋に入ってきたのだろうか。気配もなくこうして現れたローはゆっくりとした動きで後ろ手に鍵をかけて、ベッドに沈むなまえの元へと歩を進めた。
無意識に彼女の体に力が入る。揺れ惑うその瞳に気付いてか、ローはおかしそうに口角を持ち上げた。
「そう怯えるな」
ローの手はいつも氷のように冷たい。その手が伸ばされ、反射的にぎゅっと強く目を瞑るも、彼の手は優しくなまえの頬を撫でるだけだった。打たれるとばかり思っていた彼女は機嫌の良さそうな彼の様子にほっと胸を撫で下ろした。
「お前が大人しく俺に従っていれば、こうして優しくお前に触れてやる」
「……」
「まあ、俺の気分にもよるがな」
結局は自分次第じゃないか、と彼女は心の中で悪態を吐いた。穏やかな彼の様子に徐々に体から力が抜けていく。助かったと彼女は安堵の息を漏らした。さすがに今日もひどくされては体がもたない。
ローはベッドに沈むなまえの頭の横に座るとそのまま優しく頭を撫でた。本当に機嫌がいいらしい。こんなに機嫌がいいのはここに閉じ込められて初めてのことである。
「あの、トラファルガーさん」
「、ローでいい」
「…ローさん」
そう呼べばローは珍しく優しく口角を持ち上げた。
なまえが気怠い体を持ち上げようとするも腰に激痛が走り、そのままぺたりとベッドに沈み込む。その様子にローは楽しげにその腰を撫でた。
「お前の貧弱さにも困ったものだ」
確かになまえはローと比べれば格段体力も劣ることだろう。しかし、ごく普通の女であるなまえがこのように疲労の色をみせるのも仕方がないことである。
返したい言葉は色々あったが、余計なことを言って機嫌を損ねられては困る。腰を撫でるローの手を甘受することにしたなまえは目を伏せた。
「あと三日ほどで島につく」
「?」
「お前がこの三日間大人しくしていれば特別に外に連れて行ってやる」
「え…!」
思いもかけないローの言葉になまえは体の痛みも忘れて飛び起きた。
この部屋に閉じ込められてからというもの、彼女が外に出たことは一度もなかった。トイレもシャワーも完備してあるこの部屋を変わらない毎日を過ごしていた。一日に三回、白いクマが運んできてくれる食事を受け取る時のみ、ロー以外との面会を許されていただけだ。時にはローの腹の虫が治まらずに一日中、彼に拘束されることもあった。
そんな生活がずっと続く、そう思っていた。
「本当ですか!」
「あぁ。精々俺の機嫌を損ねないようにするんだな」
それは勿論のことである。このチャンスを逃してはいけない。
なまえはローに悟られないように心の中で逃走の覚悟を決めた。彼から逃げ出すことは容易ではないだろう。しかし、ローも人間である。一瞬のスキがどこかで出るはず。それを狙ってどうにか逃げ出すことはできないだろうかとなまえは常々考えていた。しかし、こうやって船内に拘束されている以上は決してそれを実行することはできない。船外に出た時がチャンスだと彼女はそっとその日を待っていたのだ。
「ただし、変なことは考えるなよ。逃げ出すなんて馬鹿なことをしてみろ。どうなるかわかっているだろう?」
そう言ってローさんが彼女を見据えた途端、部屋の空気を凍てつくような冷たいものに変わった。ひゅっと呼吸が詰まるの息苦しさを隠して、なまえは頷いた。
――失敗は絶対に許されない。
「俺はお前を逃がすつもりはねぇ。肝に命じておけ、なまえ」
そう言って唇を塞いだローに彼女は大人しく体を委ねた。
title 花畑心中様